会社に疲れたOL、路地裏の喫茶店で猫に膝を占拠される。
古い町並みの一角に、ひっそりと「ねこのひげ」という喫茶店がある。
通りを歩いていても気づかない人の方が多いくらい、看板は控えめで、ドアは木の色が日に焼けて少し薄くなっている。
でも、そこに入ると一瞬で世界が変わる。
ふんわりと漂うコーヒーの香り、棚にずらりと並んだ古本、ゆったり流れるジャズ。
そして――足元にすり寄ってくる、ふかふかの白猫。
「いらっしゃい。今日も来てくれてありがとう」
カウンターの奥で、マスターが柔らかく微笑む。
私はいつもの席に腰を下ろした。窓際、陽だまりが落ちるテーブルだ。
白猫のミルクは当然のように膝に飛び乗り、丸くなる。
その体温と、胸の奥から響くゴロゴロという音に包まれるだけで、心がふわっと緩んでいく。
仕事で疲れ果てて、スマホの通知に追い立てられて、寝ても休まらなくて。
それでもここに来れば、何もかも遠ざかってしまうのだ。
「今日はシナモントーストにしようか?」
「……お願いします」
マスターが焼いてくれるトーストは、分厚いパンにバターをしみこませ、香ばしくシナモンシュガーを振ったもの。
噛めばカリッと音を立てて、じゅわりと甘い香りが広がる。
飲み物はもちろん、深煎りのコーヒー。
カップを持ち上げると、立ちのぼる湯気に心まで温められるようだった。
膝の上のミルクは寝息を立てている。
その重みがなんとも心地よくて、ふと、涙が出そうになる。
――ああ、私、こんな時間が欲しかったんだな。
この喫茶店は、ただの休憩所じゃない。
忙しさに削られて、固くなってしまった心を、少しずつ解きほぐしてくれる場所。
そして、ここで過ごす時間があるから、明日もまた頑張れるのだ。
「そういえば、もうすぐ新しい子が来るんだよ」
マスターがぽつりと言った。
「新しい子?」
「保護した黒猫でね。まだ人に慣れていなくて、しばらく裏で過ごすことになるけど」
想像しただけで、胸がわくわくした。
この店で、また新しい出会いが待っている。
その日は、食べ終わってもしばらく席を立てなかった。
膝のミルクが幸せそうに寝ている姿を見ていたら、こちらまで眠たくなってきてしまったのだ。
「ゆっくりしていっていいよ」
マスターの声は、まるで魔法みたいに優しい。
外の世界では、効率だの成果だの数字だの、そんなものばかりが追いかけてくる。
でも、この喫茶店の中ではただ、「いま」が満ちている。
ただのシナモントーストとコーヒー、ただの猫の温もりが、何より贅沢な宝物になる。
私は小さく伸びをして、そっと目を閉じた。
夢と現実の境目で、猫の喉音がずっと続いている。
――ああ、この瞬間に、ずっと浸っていたい。
窓の外には夕暮れが迫ってきていたけれど、店内は変わらずやさしい光に包まれていた。
ミルクの温もりと、マスターの淹れてくれたコーヒーの香りに守られながら、私は静かに深呼吸する。
今日の疲れは、ここでぜんぶ溶けていった。
明日のことは、また明日考えればいい。
いまはただ、この幸せを胸いっぱいに抱きしめて――。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
この物語は、特別な事件も冒険もありません。
ただ、ちょっと疲れたときに立ち寄れるような――そんな小さな居場所を書いてみたいと思って書きました。
不安や悩みを抱えている方にも、そうでない方にも。
ほんのひとときでも不安や悩みを忘れて、あたたかさや安らぎを感じていただけたなら嬉しいです。
私自身、読みながら「こんな喫茶店があったらいいな」と思い続けていました。
もし少しでも、あなたの日常にやわらかな光を届けられたのなら、それ以上の幸せはありません。
感想や評価をいただけると執筆のモチベーションになるので、ぜひよろしくお願いします。
好評であれば長編化を書きます。
頑張っているあなたを心から応援しています。
一ノ瀬和葉