第8話 若き獅子の目覚め
風の音は、時の移ろひを告ぐるものなり。
初夏の空、駿府の里にそよぐ風、いと涼やかにて、山々の緑もまた冴え渡る。
その地に、ひとりの若き人質、六年の歳月を重ねし者あり。
名をば松平竹千代。
いまだ幼くしてこの地に来たりしが、いまや背も伸び、瞳の奥に静けき凛然たる光を湛え、すでに一国の主たる器を覗かせぬ。
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学問は、大原雪斎のもとにて受けし。
四書五経、仏典、神話の記録、政の仕組みに至るまで、そのすべてを、言葉を噛み締めるごとく身に取り込みたり。
ある日、竹千代、こう問ふ。
「戦とは、策略にあらず。理より起こるべきものと思ひ候」
その言の葉に、雪斎、深く首を縦に振り、道元の『正法眼蔵』の一節を手渡されける。
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武芸は、今川家の武人・奥山伝心のもとにて習ひける。
剣術・槍術・馬術に加へ、忍びの術までも修め、幾度倒れようとも、一度も「痛し」とは言はざりき。
伝心、しみじみと曰く。
「殿の武とは、力にあらず。“くじけぬ意志”こそが、真の強さなり」
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かくのごとく育てられし竹千代を、誰よりも傍にて見守りしは――
詩文を教へ、共に火を起こし、風の音に耳を傾けし旅文士・竹之内宗玄。
その実は、神に仕へし白き狐、霊狐リクにてありける。
ある折、宗玄、竹千代に語りける。
「おぬし、剣も学も大いに得たり。されど、それ以上に大切なるは“間”を読むことなり」
「“間”とは、いかなるものにて候や?」
「人と人、国と国、志と志のあひだに漂ふ、言葉なき空白。それを感じ、つなぐ力こそ、世を導く礎となるなり」
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やがて天文二十四年の春、十五の春を迎えし竹千代、今川義元の御前にて元服の儀を執り行はる。
その日より、新たに名を賜りて松平元信と称せらる。
雪斎、この名の由来を告げて曰く。
「“信”は我が願ひ。“元”はそなたの始まり。名とは器なれど、その器に魂を注ぐは、そなたの歩みなり」
式を終へ、宗玄、ひとりそっと元信の傍らに寄りて言葉を賜ふ。
「この六年、よくぞ耐へ、よくぞ育ちたり。これより先は、育てらるる側にあらず。人を育て、国を支ふる側となるがゆゑなり」
元信、目を伏せて静かに答へぬ。
「われ未だ力ある者にあらず。されど、“道”を視る目ばかりは、けして閉じたくはありませぬ」
この言葉に、リク、心の内にてそっと想ひける。
(この男こそ、乱れし世を量る“秤”となる者なり)
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かくて、松平元信、名実ともに若き武家の士として歩みを始めたり。
未だ大戦遠きにせよ、世の気配は確かに変はりゆく。
霊狐は、その影より風を読み、耳を澄ませて候。
次に燃え上がるは、尾張の炎か、美濃の蝮か――
それとも、いま芽吹きし若き“秤”の志か。