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第79話 信孝、自刃す

時に天正十一年五月の頃、濃尾の野辺には、はや夏の光さし入りて、蝉も鳴かぬに、空のみ乾き、風ばかりが熱く吹きける。


岐阜の城は、黄金の太陽を背に高くそびえ、かつては天下を狙ふ信長公の根拠地にてありけるが――

その今は、御子・信孝公の居城となりたり。


---


信長公、明智に討たれて後、嫡男信忠もまた火中に果て、織田家の柱二つを同日に失せり。


遺された信孝、齢は若けれど気骨あり、我こそは家名を繋がんと志を立て、清須の会議にて発言を求むるも、羽柴筑前守秀吉、巧みに政を操りて、三法師を立てる。

信孝は、ただその後見の座に押し込められぬ。


「父の子なれども、傀儡くぐつに甘んぜよと申すか」


信孝、胸中に怒りを湛へ、北国の大将・柴田修理亮勝家と盟を結び、織田の名を以て、秀吉に対せんとす。


---


されど、戦のあめに味方せず。賤ヶ岳の合戦にて勝家破れ、北国に果て、秀吉の軍、濃尾を討ち進みて、つひに岐阜の城を囲みたり。


時に、信孝の手勢、二千にも足らず。

兵糧尽きて城内やせ細り、味方の気力もまた、草のごとくしおれぬ。


「援軍なし、堪ふるにあらず」


老臣、涙ながらに告ぐれば、信孝、ただ黙して頷き、


「――これが、父の見し天下か」


と、天守に登りて、濃尾の平野を見渡しけり。

そこに立つ影、ただひとつ。

西に沈む陽の赤きこと、まるで父信長の眼のごとし。


---


その夜、羽柴より使者あり。

黒田官兵衛、文を携へて入る。


「開城あらば、命は助け申す。御身を保ち、再起を期されよ」


されど信孝、文を広げてしばし見つむるのち、ふっと笑みて言ふ。


「我は、織田信長の子なり。仇に仕ふるは、義にあらず」


官兵衛、深く頭を下げ、何も語らず立ち去りぬ。


---


翌朝――


岐阜の城門、つひに開かる。


兵は降り、旗は伏し、太鼓の音も鳴らず。

されど、そのときすでに主君・信孝は、奥の間にて腹を裂き果て給へり。


介錯の者を呼ばず、ただ独りして死を遂ぐ。


その御顔、やすらかにして誇り高く、あたかも、戦の夢より目覚めしように見えたり。


享年、わずかに二十六。


---


信孝の御骸みむくろは、密かに葬られ、城下に鐘の音ひとつ響かず。

ただ、初夏の風が、やぐらの影を抜けて吹き渡るのみ。


あはれ――


栄華は久しからず、誇りもまた、草の露。


信孝が死して織田の名は残れど、その血の炎は、ここに尽きたりけり。


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