第77話 信長の葬儀
天正十年の盛夏、文月九日の日なりけり。
京は阿弥陀寺の伽藍、朝まだきより、黒衣の者、門前に列をなす。
香煙たなびき、読経の声空に満ちて、さながら冥土の門開くがごとし。
その列に混じりて、ひときわ若く、面あらたなる武者姿あり。
織田信孝、信長公の第三の御子にて、今は亡き兄・信忠の跡を継ぎ、喪主の役を負いたり。
京の町には、いまだ六月の火煙の名残とどまり、本能寺焼亡の記憶は、土塀にも、石畳にも、しみ入るがごとし。
しかれども、陽はまた昇り、夏草は伸び、蝉鳴く音すら、世の移ろいを語るものなり。
本堂の内には、織田信長公の祭壇、荘厳に設けられたり。
その座に安置せられたるは、束帯を着した木像にて、まなこ鋭く、今にも語らんとす。
香の煙立ち昇りて、清玉上人の声、天地に響く。
丹羽五郎左衛門長秀、池田信輝恒興、これに列し、その後れて現れしは、羽柴筑前守秀吉なり。
彼はすでに明智日向守光秀を討ち果たし、織田家中における威望、いよいよ群を抜きぬ。
信長公なき今、家は柱を失いたり。
ならば、この乱れし天下、我が手にて支えん――
秀吉、その胸中にて密かに期するものあり。
「御屋形様……あの光秀に討たれたは、まこと口惜しきこと……」
声には出さずとも、胸の裡にて、深き慟哭を叫びぬ。
されど同時に、主君なき今こそ、己が出番と、その野望の門、静かに開かるるを覚えたり。
香を捧げ、深く頭を垂れたるその時、木像の面、ふと笑みたもうたるごとく見えしは――果たして幻か、あるいは霊のしるしならんや。
葬儀終わりて、夏には珍しき涼風、堂の内を吹き抜けぬ。
まこと信長公の霊、天より見そなわすがごとく。
寺を辞して後、家臣・黒田官兵衛、無言にして従う。
秀吉、空を仰ぎて曰く、
「信長公は、なお天にて我らを見ましませり。いかに世を治め、何をなすか……それこそ弔いにて候」
「御覚悟のほど、承りました」
官兵衛、静かに答えしその声、風よりも細く澄みたり。
秀吉、顎を引きて一笑し、
「弔いは終わった――あとは生き残る者の祭りよ。ゆくぞ、官兵衛」
そう言い放ちて、打ち返す風の中を歩み出づ。
その背に残れるは、香の余薫と、燃え尽きし歴史の灰なり。




