第74話 山崎の合戦
それ天正十年六月十三日――
明智日向守光秀、坂本より京へ還りてより、わずか五日のことなりけり。
本能寺を焼き払いて主君・織田信長を討ち、安土の城にて夢を見し光秀が、いまは山崎の地にて、風のごとく迫る秀吉の軍を迎えんとしてありけり。
日は高く照り、水無月の風は熱く、淀川の水、山影を映して静かに流るれども、その水面のごとく、光秀の胸もまた、騒がしうして静まらず。
「天下は、かくも脆きものか……」
思い浮かぶは信長の声、笑い、怒号、剣のきらめき――
かの男の背を討ちて得たは、栄華か、あるいは孤独か。
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光秀、兵を以て山崎に進み、天王山の麓に陣を構う。
だが、ついに望んだ援軍、来らず。
細川藤孝、音もなし。
筒井順慶、静観の構え。
信長を憎みしは数多あれど、光秀を助く者、皆無なり。
「我、孤なり」
光秀は覚悟を定め、兵を鼓舞す。
「是よりの戦、義をもって戦うべし。我こそは、天下を正す刃なり!」
士卒、応えて声をあげるも、その中には、疲れ、飢え、迷いの色、消えず。
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六月十三日、夕刻近し。
天王山の西、羽柴筑前守秀吉、数万の兵を率いて来たり。
軍勢整え、馬の蹄、地を打ち鳴らし、その勢い、まさに雷霆のごとし。
光秀軍、伏見街道を押さえ、山際に布陣す。
先鋒は斎藤利三。槍を立て、敵を迎えんとす。
されど秀吉軍、千成瓢箪を翻して押し寄せ、一陣は山陰道より迂回し、天王山の背を突く。
これを見て、光秀軍、動揺走る。
「敵、天より来たれり!」
斎藤利三、踏みとどまりて奮戦すれど、ついに崩れ、田辺の原にて乱戦となる。
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光秀、天王山の麓より騎を飛ばして戦列を繕わんとすれど、兵は散じ、旗は折れ、太鼓の音も消えにけり。
「未だ、未だ勝機あり!」
叫ぶも、味方の耳には届かず。
京の都人はすでに見限り、村人は道を閉ざし、兵らの顔にも、「義」ではなく「恐れ」の色のみ、浮かびけり。
やがて、陽は西に傾き、夕闇迫る頃――
明智日向守光秀、散兵を率いて淀の河原を越え、ついに山科の小道より坂本を目指して落ち行けり。
その背に、笹の葉がそよぎて言葉なき風が吹く。
「これは、天が裁ける戦ぞ……」
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この後のことは世に知らる。
光秀、落ち延びる途中、農夫に討たれ、その首、秀吉のもとに届けられたり。
されば、天下を望みて十日。
その栄華、露と消えぬ。