第72話 光秀の誤算
あはれなるかな、天正十年の卯月より水無月に至るまでのあいだ、明智日向守光秀、世を驚かし織田父子を本能寺に討ち取りし後のことに候ふ。
四日までは京にとどまりて、信長の残兵を狩り立て、八つ時(午後二時)に至りて兵を分け、西南の勝龍寺城に溝尾勝兵衛を留め置き、みずからは東へ赴き、その栄華の象徴たる安土の城に入り給へり。
この間、禁中の公家どもは、武威におされて静まり返り、光秀は毛利、上杉、北条、長曾我部の諸将に使者を放ち、安土にて勅使を迎え、名分を立てんとの儀を心にかけられき。
それ、道理の筋道としては破れざる計画にてありけれども――
されど、思わぬところに破れ口ありけり。
光秀の大きなる誤算、これすなわち信長の「人望」にて候ふ。
日向守にとりて、信長は残忍無道の暴君にて、細川、筒井、家康、柴田、秀吉に至るまで、寸分も心許さぬ主と見立てられしが――
されど、その暴威の陰に隠れし忠義と武威の輝きは、天下の民草の胸に深く根ざしてあらざるには非ざりき。
彼こそは、苛烈なれども覇をもって世を治め、
荒れ果てし京を立て直し、富める世の礎を築き給ひし大樹なりけり。
光秀、これを悟らざりしこと、まこと口惜しき誤算なり。
安土城を無血にて手に入れしは、天運かとほくそ笑みしも束の間、その陰にて秀吉、備中より雷電のごとく帰陣し、八日にはすでに播磨を越え、京を目指して進軍す。
光秀、これを知りて、八日には坂本へ下り、九日には再び京に入り、禁中への献金五百両、五山・大徳寺に百両ずつを捧げて、情勢を和らげんとしけれども――
十一日朝、秀吉すでに摂津の尼崎に至ると風聞す。
まさかかく早く帰陣叶ふとは、光秀一門誰一人として思い寄らざりし。
また、頼りとせし細川藤孝・筒井順慶も、
ついには明智を見限り、冷然としてこれに与せず。
「逆臣光秀」なる讒言、洛中洛外に走りぬ。
かくて、光秀が心に描きし天下の夢は、露の命に似たりけり。
仇なす風の便り、ついに洛陽にまで至りて、人々の胸に信長の遺威、再び灯をともしたり。