第7話 風たちぬ
風の音も、時の声なり。人の世の変わり目には、必ず風立ちぬ。
時は晩秋の候、越前の山深く、古き寺一宇、紅葉の中にひっそりとたたずむ。
その境内に、ひとりの旅僧、竹之内宗玄の姿あり。
されど、その実は人にあらず。
千年を生き、風にまぎれ、影より歴史を導きし白狐――霊狐リクにて候。
この日もまた、山道を静かに歩みし折、ふと風のにほひの変はれるを感じて足を止めける。
「……風が変はったな。何かを運ぶ風だ」
その時しも、道の向ふより、ひとりの男、ふわりと現れぬ。
灰の衣まとひ、髪を無造作に結ひ、手には数珠。笑みを湛え、まるで風そのもののやうに。
「久しうござるな、宗玄殿」
「……やはり、おぬしか。随風。変はらぬな、風のごとき現れ方よ」
かく現れし男、名を随風と申す。素姓も定かならず、出自も知れぬ漂泊の僧なれど、歴史の岐路にたびたび姿を現し、未来の片鱗を語る不思議の者にて候。
ふたり、寺の縁側に腰を下ろし、静かに湯をすすりつつ、言葉を交はす。
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宗玄、湯飲みを置きて問ひける。
「さて、今度の風は、何を見せてくれたか」
随風、天を仰ぎ、しばし黙して後に曰く。
「尾張の炎――信長殿の火、未だ燻るばかりなれど、東西にて別の火、いくつも灯り始めたり」
宗玄、眉をひそめて問いける。
「……その名を、聞かせてくれ」
随風、声を低めて応えける。
「一人は――十兵衛光秀。今は浪人のごとき立場なれど、文にも武にも優れ、なにより世を静かに観る目を持てり。あたかも“月”のごとく。闇を照らすも、自ら熱を持たぬ男なり」
宗玄、深くうなづき、その名を心に刻みぬ。
「……他に?」
「もう一人は――木下藤吉郎。未だ名も禄もなき男なれど、人の心を読むに長け、よく動き、よく笑ふ。火にあらず。“油”のごとき存在なり。今は目立たぬとも、いざ火が触れれば、広がること火急なるべし」
宗玄、遠くを見やりて呟きぬ。
「信長が“炎”なれば……“月”と“油”か。役者、いよいよ揃ひたり」
山の風、やや冷やかに吹きすさび、紅葉をさらさらと鳴らす。
その音を背に、宗玄さらに問ふ。
「随風。そなたは何を望んで、かくも風の行方を追ひ続けるのか」
随風、笑みを絶やさず答へける。
「我はただ、正しき風の吹くを見届けたきのみなり。されど宗玄殿、問ふべきはむしろ――そなたが“誰に火を貸し、誰に風を吹かすか”にござる」
宗玄、声をたてずに笑みを洩らし、静かに言ひぬ。
「風を選ぶは、神にも狐にも非ず。選ぶは、立ち上がる人間自身よ」
そののち、随風はまた風と共に姿を消しける。
宗玄、残りし湯をひと口すすり、空を仰ぎて、心に言ふ。
(十兵衛光秀。木下藤吉郎。月と油――
いづれ、信長の炎に触れし時、いかなる運命を描くや。
この国のかたちを変ふる者、今まさに、風の中に芽生えつつある)
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静けさの中にて語られし未来。
風は応へず、されど確かに、時の帳を揺らし始めたり。
白狐と風の僧――その眼の先に見ゆるは、まだ誰も知らぬ、炎のゆく末なり。