第69話 家康の伊賀越え
時に天正十年六月三日――
本能寺、忽ち炎上し、天下人織田信長公、明智十兵衛光秀が逆心によりて、ついに討たれ給ひぬ。
その翌朝のことなりけり。
三河の大名・徳川家康公は、堺の地にて物見遊山のさなか、茶屋四郎次郎より一報を受けたる。
「信長公、京にて御最期を遂げられ候。本能寺、今は灰燼に帰し申した」
この報、雷霆の如くにして、家康公、しばし言葉も失ひ給ふ。
「な、なにゆゑ……信長公が……」
御傍らに仕へし本多中務大輔忠勝、服部半蔵正成らも顔色蒼ざめ、皆一様に慌てふためきけり。
堺の町に留まりおらば、いずれ明智軍の追手に討たるるも道理。いかにして三河へ帰るべきかも、もはや覚束なき有様なり。
ここにおいて、家康公、声高らかに叫ばれける。
「かくなる上は、伊賀を越えて三河へ戻らん! 命を惜しまば、我に続け!」
かくて、家康公御一行、命を賭けての落ち行き――いわゆる「伊賀越え」の途に就かれにけり。
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その夜半のことなるぞ。
霊狐〈リク〉、伊賀の山中にて静かに佇みける。
この地は古より霊気満ち、修験の者と忍の徒とが交わりし境界にして、今なお異界の気配色濃く残れる処なり。
「ほう……徳川の男、ここを通るか」
リクの霊眼に映りしは、山陰に潜む伏兵の群れと、獣道を辛くも進む一行の影なりけり。
しかも、リクは先刻、信長公の魂魄の昇るを見届けたばかり。
次なる時代を背負ふべき者――家康までもが、今この地にて命を落とさんとしているを、見過ごすこと叶はず。
「よかろう……いましばらく、この世の秩序、保たせん」
言ふや否や、風と共に跳ね、家康の御前に忽然と姿を現しける。
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霧ふかき山道にて――
本多忠勝、霧中に浮かぶ灯影に気づき、手にする刀の柄をきしらせる。
「……待て、あれは……妖か、はたまた」
道の先に、狐火一つ浮かび、その中心に、白き狐――いや、人にも見えし異形の影。
家康公、その姿を見るや、息を呑み給ひぬ。
「そなた……妖か、神か」
さればその者、静かに口を開きて曰く、
「神にあらず。獣にあらず。されど、この国の行方を見守る者なり」
「……リク」
家康の脳裏に、かすかなる記憶よみがへりぬ。
幼き日の折、三河の山にて出逢ひし白き狐の影――まさに、いま眼前に立つこの者なり。
「もしや、あの時の……」
リク、ひとつ尾を振りて、
「この道、伏兵多く、また川にて途絶ふ。されど、東に“影の径”あり。そなたが命惜しむならば、我が導きに従うがよい」
「……お頼み申す」
かくして霊狐リク、先達となりて家康公を導き給ふ。
夜の闇、伏兵の影、霧深く満つる山路にあって、リクの霊火、道を照らし、幾たびの危難を払いけり。
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幾山を越え、幾谷を渡り、伊賀の嶮を踏みしめて、七日を経しのち――
つひに三河の地、遠くに望める頃合ひ、リクはふっと姿を掻き消しける。
家康、思はず天を仰ぎ、風に囁くがごとく、
「……リク、また会えるや」
そのとき、ただ風の音のみぞ耳を撫でぬ。




