第68話 本能寺の変
天正十年(1582年)六月二日、未明。
京の空に、まだ朝も来ぬというのに、異様な赤光が立ち上っていた。
その光をいち早く感じ取ったのは、京の外れ、東山の森に佇む白狐――霊狐〈リク〉であった。
「……ついに、動いたか」
その声は風に溶け、尾の先からは淡く霊気が漏れていた。
リクは人の世に長く在り、幾度となく“変”の兆しを見てきた。
だが、これほどの禍が、かくも静かに始まるとは――
火の手が上がったのは、洛中・本能寺。
そこには織田信長が滞在していた。家臣も近習のみ、備えもなく。
「敵は、本能寺にあり」
そう声を発したのは、信長の腹心、明智十兵衛光秀。
かつて丹波を任され、忠節を尽くしたはずの男――
その手によって、信長は――信長という“時代”は、終わろうとしていた。
リクは、白い光となって、炎に包まれる本能寺の空へ駆けた。
木造の伽藍は既に焼け落ちんとしており、楼門には紅蓮の炎が揺れている。
リクの霊眼は、燃え落ちる障子の向こうに、まだ生きている気配をとらえた。
そこにいたのは――織田信長、その人であった。
火にあぶられながらも、なお、その瞳に怯えはなかった。
「来るものか、あやつが……」
彼の右手には槍、左には長刀。血に濡れ、焦げついた肩衣のまま、信長は立っていた。
リクは、ひとつ、信長の前に跳び降り、言葉を放つ。
「信長……汝、もはや逃れぬ。されど、何か言い残すことはあるか」
信長はわずかに目を細め、微笑んだ。
「ふむ……獣も、神の使いも、この最期を見に来るか」
「そなたの魂魄、幾千の因果を巻き込みすぎた。ゆえに、此度の果ては……」
「よい。すべて計りのうちよ」
信長は空を見上げる。
「天下布武……もはや、あれは我が手を離れた。ならば、よかろう。あとは誰が握るか、見届けてやるまでだ」
その言葉を最後に、信長は火のなかに消えた。
リクはただ一度、長く、長く吠えた。
それは哀しみか、憤りか。
それとも、次なる時代を呼ぶ呪のような、咆哮だったのか――
京の空に、白き霊光が舞い上がり、やがて静かに消えていった。
そしてその翌日。
世は、織田信長の死を知る。
怯える者、嘆く者、歓喜する者……
天下はふたたび混沌へと沈もうとしていた。




