第64話 武田氏滅亡
天正十年二月のことにて候。
織田右府信長公、天下布武の旗の下、東国の宿敵、甲斐源氏武田家を亡ぼすべく、いよいよ総攻撃の令を発せらる。
このときすでに、武田の将卒、意気消沈し、兵は飢え、心は離れ、民草は離反の声を挙げたり。
信長公は嫡男・三郎信忠を総大将に据え、嫡臣・滝川一益、羽柴筑前守秀吉、丹羽五郎左衛門長秀らを従え、東海道・中山道・甲斐路の三道より進発せしむ。
また、遠州浜松の徳川三河守家康は甲州へ越境し、武田の背を突かんと兵を動かす。
かくして、天正十年二月の末より三月にかけ、織田・徳川の大軍、総勢五万余が甲斐に雪崩れ込めり。
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その頃、甲府躑躅ヶ崎館にありしは、武田左京大夫勝頼公。
父・信玄公の雄才を継ぎながらも、時の流れ、家臣の背信、民の離反を止め得ず、いまや寄る辺なき境地に立たされし。
重臣・跡部勝資、長坂釣閑ら、すでに進退を誤りており、勇将・小山田信茂などは密かに織田方と通じていたとぞ。
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三月、勝頼は嫡子信勝・夫人と共に新府城を落ち、天目山へと逃れたり。
その道中、雪解けの水に道はぬかるみ、兵は疲れ、食も尽き、遂には十数騎にまで減じぬ。
この頃、信長公はすでに甲府に入り、躑躅ヶ崎館を掌中に収めたり。
徳川軍はその後を追い、家康公は信長より拝領された馬に乗りて、先陣を切る。
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天正十年三月十一日――
甲州天目山の麓にて、ついに武田勝頼、これを討たれる。
そのとき勝頼、夫人・北条氏、嫡子信勝を抱き、山の小屋に火を放ちて自刃したり。
家臣・土屋昌恒、ただ一人、主君を護らんと数百の敵に斬り込み、屍の山を築きしが、遂に力尽きて斃れたり。
これぞ、武士の忠義、後世に語り継がれたり。
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かくて、甲斐源氏の嫡流、武田家はここに滅亡す。
信玄公以来の名門、五百年の血脈、まことに一朝の夢となりにけり。
織田信長は甲府にて勝頼の首実検を行い、これを安土に運ばせ、戦果を天下に示せり。
その首を見て、信長曰く――
「信玄の子といえど、運尽きし者は斯様なるものか」
と、冷然と語り、杯を干したとぞ。
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されど、これより百日と経たずして、信長公みずからもまた、本能寺の変にて、一期の花を散らすことになるとは、この時、誰ぞ思い知りけん――。