第6話 斎藤道三
盛者必衰の理は、ただ時の流れに従ふにあらず。
人の命尽くるとき、国の運命もまた揺らぐものとぞ見えける。
天文二十年の春のころ――
織田上総介信秀、薨ぜられ、かの死とともに、その威光もまた、春の霞にまぎるるがごとく掻き消えにけり。
信秀が築き上げしもの、堅固なれども、その柱ひとたび失せば、たちまち国は動揺し、四方にて野心の風吹きすさびける。
中にも、美濃の国主・斎藤道三、その動き最も早く、鋭きものにて候ひき。
道三はもと油売りの身なれど、下克上の波を乗りこなし、主を逐いて国を奪ひ、つひに美濃一国を掌中に収めたる梟雄なり。“美濃の蝮”と呼ばれ、恐れられしは、伊達ならず。
すでにその娘・帰蝶を、信秀が嫡子・吉法師に嫁がせおきながらも、それは和睦のためにあらず、むしろ尾張を蝕む毒の種と仕掛けし計なり。
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信秀薨去の報を受けてより、道三、速やかに使者を発しける。
書状には、かく記されてありけり。
「信長殿。父君御他界の由、まことに惜しみ候。さればこそ、今後の御歩みにつきて、ゆるりと語り合はんと存ずる。美濃・稲葉山の城にて、御待ち申す」
その詞こそ柔らかなれど、奥に潜めるは――従ふか、滅ぶか――その二つに一つの威なり。
これに対し、信長、言葉短くして答へける。
「参る。されど語るは、我が“道”なり」
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かくて尾張を発ち、美濃へと入られたり。
稲葉山城の大広間にて、はじめて相まみえしは、老練の毒蛇と、若き炎。
四座の者すべて退けられ、ただふたりきりにて、密談の座設けられにけり。
道三、薄ら笑みを浮かべて、まず言葉を投げかけける。
「よくぞ参られた、小僧。尾張の火を消しにでも来たるか?」
信長、片口を吊り上げて、すかさず返しける。
「火を見に来たのは、そなたにこそあらん。……されど、火傷せぬよう、お気をつけなされよ」
これを聞きて、道三その眼を細め、「うつけ」と噂されし少年に侮れぬ気配を見出しける。
酒の肴運ばれ、盃交わされるうちに、いつしか言葉の綱は、信長の掌中に移りぬ。
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「なあ、義父上。美濃こそ危ふう見ゆるぞ」
「御嫡子に政を任せ、家中は分裂し、足もとより崩れつつあるやもしれぬ」
これを聞きし道三、盃の手を止めけり。
「……ならば問ふ。汝の“道”とは、いかなるものぞや?」
信長、静かに立ち上がり、障子を開き、外の空を仰ぎて、美濃の町並を指差しながら、声を高めて曰く。
「我が目指すは“武”に非ず。“道”なり。この国を一度壊し、ふたたび築き直さんと欲す。武士の世も、古き仕組も、すべて塗り替えん。その先に待つは、尾張にあらず――“天下”なり」
この言の葉に、道三しばし沈黙し、やがて大音にて笑ひける。
「見えたり、小僧……いや、信長殿。汝ありてこそ、尾張は滅せず。いや、美濃よりも早く“国”となるやもしれぬわ」
盃を置きて、少しばかり照れたる口調にて、こう言葉を添えられける。
「今宵ばかりは一本取られたり。義父として、面目次第もなきことかな」
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その夜のことなり。
道三、密かに娘・帰蝶のもとを訪れ、胸の裡を洩らしける。
「面白き男を婿に持ちたるな……いづれ美濃も、あやつに呑まれん」
帰蝶、静かに微笑みて、しづかに曰く。
「父上が気に入られる殿方は、いつもそういうお方にてございましょう」
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かくて、炎と毒、同じ盃を交わしし一夜にて、
尾張と美濃の運命、しづしづと動き始めたり。
天下の火蓋、すでにここに切られしこと、いまだ誰人も知らざりき。