第57話 木津川口の戦い
天正四年(1576年)
浪速の海にて、また一つの戦起こりぬ。
石山本願寺の顕如上人、なお信長に従わず、門徒を集めては、堺より木津川の河口を扼し、大坂の海上に、毛利の水軍を招き入れたり。
八月の頃、織田方の九鬼嘉隆、これを攻めんと艦隊を差し向けるも、毛利の大船、鉄の船体を以って火矢を弾き、織田水軍、煙に巻かれて敗走す。
これぞ、「木津川口の戦い」と世に言い伝う。
さても、九鬼嘉隆というは、伊勢国志摩の海に根を張る水軍の大将にて、波と風を友とし、潮を読むこと鷹の如し。
信長公、畿内平定の途にて、陸の大軍に加え、海を制することの要を悟り、嘉隆を召し抱えて「我が海軍の柱たれ」と任じられたり。
この九鬼家、代々志摩の海賊として名を馳せし者なれど、嘉隆に至りてその技を整え、武士の礼を弁え、織田の天下統一の戦にその才を遺憾なく発揮せしなり。
信長、嘉隆に命じて兵船を数十艘建造させ、これをもって木津川の河口にて毛利水軍と雌雄を決せんとす。九鬼の兵船は漕ぎ手百余人を擁し、火矢・火器を積んだる軍船なり。
さるほどに、毛利方の村上水軍、また芸州小早川勢の船団、海の猛者として西国に知られ、ことにこの時用いたるは「鉄張りの大船」なり。これ、鉄板を張りたるゆえ、火矢も火薬玉も寄せつけず、まさしく「水上の城」とぞ人は讃えたり。
九鬼の船団、波に乗じてこれを攻めんとすれども、火計かなわず、矢雨の中に混乱し、舟は炎に包まれ、海は血に染まりたり。かくて、織田方、無念の敗走に追いやらる。
されど嘉隆、これに屈せず。
信長公に謁して申しけるは――
「毛利の鉄船、火を恐れぬは鉄ゆえなれば、我らもまた鉄にて船を造らせよ」
信長、これを聞きて頷き、
「そちに、鉄甲船を任ずる」
と命ぜられぬ。
ここに、嘉隆は堺・大坂の鋳物師を招き、伊勢・尾鷲の海辺にて密かに「鉄甲船」を六艘造らせたり。これぞ、のちに信長が本願寺・毛利連合軍に報いをなす「第二次木津川口の戦い」の前触れなる。
すなわち、海にあっても信長の先見の明と、嘉隆の才覚とが交わり、新しき戦の形を作り上げたるものなり。




