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第56話 謙信、動く

天正四年 越後春日山城の楼上にて


雪未だ山襞に残れども、春の風すでに海を渡る頃――

春日山の楼上にて、越後の龍・上杉謙信公、

白鷺のごとき衣を纏ひ、静かに京よりの飛脚の書状を開かせ給ふ。


その文、金泥にて飾られ、端に刻まれしは朝廷の花押。

書の中ほどには、かの名ぞ記されぬ――


> 「織田信長公、右近衛大将・権大納言に叙せらる」



この文を読みし瞬間、謙信の眉、わずかに動きぬ。

目を伏せ、長き沈黙ののち、そっと口を開き給ふ。


「……されば、信長、ついにここまで登りつめたりか」


その声、怒りでもなく、妬みでもなく、

ただ冷ややかなる風の如し。


側に控へし直江実綱が、顔色をうかがい申しければ、謙信、公達のごとく笑みを浮かべて、なお言葉を継ぎ給ふ。


「帝より官を受けるは、古来より武家の誉れなれども……

信長がそれを望んだとは、いささかごう深きことよ」


風、春日山の楼上を吹き抜け、金の瓔珞がほそやかに鳴る。


「武の誉れは戦場にあり。官位にて天下を制すは、

かの平氏の如く、終にその身を焼き尽くす道と知るべし」


謙信、立ち上がり、障子を開け放ちて、遥か西の空を見給ふ。


「信長、長篠にて勝ちたりと雖も、その勢い、あまりに傲り過ぎたり」


と、ひとりごち給へば、傍らに侍りし家老・直江大和守兼続、ひざを折りて申す。


「殿、これより先は、もはや越後のみを守るにはあらず。東は関東を正し、西は天下の正道を導かれ候へ」


謙信公、静かに頷き給ひける。


「足利義昭公より、再起の密使あり。顕如の本願寺も信長に追われ、安土にては天台宗の炎も絶えしと聞く。義をもって剣を執らずして、いかで我ら毘沙門の名を継がんや」


そうして、謙信公、白き甲冑を召し、床几に腰を掛けて兵を召し出し給ふ。


「越後の勇士どもよ、今ぞ時は来たれり。

正しき将軍を京に戴き、無道の徒を討つは、我らが天命にて候!」


その声、春日山の谷間にこだまし、雪を割って太鼓鳴り響く。

諸国の国人衆、兵糧・軍馬を携え、越後の地に参集しけり。


---


その後、謙信公は越中を南下し、加賀・能登を席巻。


一にして十を討ち、まこと戦神のごとく軍を進め給ふ。

織田の西の守り、柴田勝家これを迎えんとするも、謙信の勢いには抗し難く、加賀の地にて相対す。


ここに、天下の形勢、再び大きく揺らぎ始めける。


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