第54話 長篠の戦い
天正三年五月、長篠の城に籠もりしは、奥平九八郎信昌とて、若きながらも忠義に厚き者なり。徳川家康の娘、亀姫を娶りしことにより、家康の婿たる縁を得たるが、かの城には、今や武田勝頼の二万を超ゆる大軍が押し寄せたり。
九八郎、精鋭五百余騎をもってこれに備え、昼夜籠城を続けけるが、日ごとに矢も尽き、兵も疲れ、いよいよ危うかりけり。
その報せ、浜松城に届くやいなや、徳川家康、直ちに使者を岐阜の織田信長のもとへ遣わし、「義兄上、いま一刻の猶予もござらぬ」と急を告げたり。
これを聞きし信長、たちまち兵を催し、美濃・尾張・近江・伊勢の諸将に召集をかけ、総勢三万に及ぶ大軍を引き連れて、美濃を発し、設楽原へと赴きぬ。
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されば、信長、設楽原にて兵を敷き、数千挺の鉄砲をもって備ふ――
信長、古今未曾有の策を用いけり。
三重に塁を築き、その背後に三千挺の鉄砲を三段に構え、射撃を絶えず行わしめんと定めたり。
鉄砲隊には、堀久太郎秀政、滝川一益、柴田勝家らの将がこれを指揮し、織田軍は陣容整え、静かに敵を待ち構えぬ。
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かたや武田勝頼、父・信玄の志を継がんと、全軍を動かしてこれを討たんとす――
甲斐の若将、武田四郎勝頼は、「長篠を取らば、東海道の道は我が手に落つる」として、勇み立ち、騎馬軍団を以て塁を突破せんと攻めかかりぬ。
「おお、敵は篭りて迎へぬか……鉄砲など、臆せし者の武具にて何するものぞ!」
と、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ら猛将を率い、一斉に突撃せしが、まさしくこれは、鉄砲三段撃ちの餌食となりけり。
乾いた火縄の音、響き渡りて、武田の騎馬、ことごとく撃ち伏せられたり。
川を越え、塁を越えんとせしも、弾雨に斃れぬ者、数を知らず。
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されど、これに霊狐リク、忽然と姿を現す――
時に、織田軍の本陣近く、ひとりの少年に似たる白狐、火を纏う尾を揺らめかせて現れぬ。
「この戦、武の極みにして、業の果てなるべし……」
その目は、無念に伏す騎馬武者を見つめ、時に浅井、時に朝倉の亡霊までも呼び戻さんとする如き、凄まじき妖気を纏いておりし。
信長はこれを一目見て、「天つ使いか、あるいは亡国の呪詛か」と問いたりしも、リクはただ、風のごとく去りぬ。
「見る者は見る、知らぬ者は知らず……戦とは、かくも儚きものなり」
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そして戦は終わり、武田はその命運尽きたり――
この戦にて、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ら、武田の重臣ほとんど戦死し、勝頼は辛うじて甲府に戻れど、もはや再起の力なし。
信長は勝ち鬨を上げ、家康と共に長篠城を解放し、奥平九八郎を讃えて「奥平美作守」の名を賜わりぬ。
設楽原の地には、斃れし兵の屍、無数に積もりて、夏の蝉の声さえ冥き調べに聞こえける。
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この長篠の戦いにて、信長は鉄砲という新しき力を以て、古き騎馬の軍制を打ち破り、天下布武の道をひた歩むこととなりにけり。
霊狐リクは、また一つ、時代の節目に姿を見せ、人の世のゆく末を、そっと見届けておりける――




