第53話 徳川家にかかる妖雲
それは天正三年の春のころなりけり。
遠江の国・浜松城に坐しますは、徳川三河守家康公。甲斐の武田信玄の遺烈を継ぎし、その子・武田勝頼との雌雄を決せんとの秋なり。
「されば、いよいよ軍機は長篠に熟し、事ここに至る――」
かくして、長篠の城には、家康公の嫡女・亀姫、その夫・奥平九八郎信昌、すでに入城を果たし、兵を整へて待つものなりけり。しかのみならず、甲州へ潜らせし間諜どもも、刻一刻と報を寄すによりて、家康公、即座に軍を動かすべき緊張の只中にありける。
されども、内には波風の絶えず。
このとき、竹之内宗玄こと、霊狐リクより訴へありけり。
「大賀弥四郎、逆心を起こさんとす」
驚きたる家康、「狐殿?」と問えば
「実直にして骨柄の者、あまりに早く重き任に就けしは過ぎたりき。才と忠を見誤り、夢と現との境、ついに弥四郎の眼にも曖昧となりにけり」
竹之内宗玄、静かに申す。
家康、静かに額を押さへ、
「おのれが過ちに候……」
と、深く嘆息したまふ。
「徳川殿、見極めが肝要にございますぞ。忠と野心、栄と破滅、その境こそ最も細き道にて候」
家康、深くうなづき、己が油断を恥じ、諸将の任を再び見直しける。
大賀弥四郎の逆心は事なく鎮まりしが、城内に漂ふ妖しき雲、いまだ晴れず。
岡崎の昔を思へば、家康が元康と称しし頃、城中に心の通ひ、士卒の間に明るき気風漲りけり。皆、貧にあっても笑みを忘れず、心気溌剌たりき。
然るに今は――。
信康公の代となりてより、面々の面影、どこかにもの憂げな沈滞の色を帯び、
「下情、君に達せず」
と諦むる声、あちこちより聞こゆる。
人の和薄れ、忠の糸切れ、士気は倦み、志は霧の中にまどろむばかりなり。
されば――盛者とて、心を怠れば亡ぶる理、この岡崎にて、また一つ、歴史の予兆を見たりけり。




