第45話 風の噂
これは近江の北、琵琶の湖を望む虎御前山の砦にてのことなり。
さればこの砦、信長公の命を受け、浅井長政が小谷城の動きを封ぜんと、羽柴筑前守秀吉、営々として築き上げたる要害なり。
今や秀吉は、長浜五万石の主に取り立てられ、砦の大将として威を振るい、これに智謀の士、竹中半兵衛重治を軍師として従えたり。
その夕暮れ、空はすでに西に染まり、湖の面も薄紅に彩られ、遠く小谷城は、影のごとく沈黙に包まれ、風も音なき静寂なり。
その城を望みて、秀吉と半兵衛は床几に並びて腰を掛け、もの憂げに語らいける。
「なあ、軍師殿。甲斐の信玄公が病没なされたとの風聞、うちの御大将、耳に入れておらるるや?」
半兵衛、これを聞きて、あいまいなる眼差しにて微笑み、
「はて、それほどの事にもござりませぬな」
「なんと? 信玄公の死が、問題に非ずとな?」
「さよう。されば、拙者、初めより信玄公の上洛、その計、無謀と見ておりました」
「その心は?」
「第一に、京は遥かに遠し。道険しく、兵疲れ、兵糧尽くるは自明の理」
「なるほど。それにしても、第二は?」
「腹背に強敵を抱えしこと。東に徳川、北に上杉、いずれも若く、士気旺んなれば、甲斐の軍勢、挟まれては心安からず」
「さすが軍師殿。されば第三もあるや?」
半兵衛、微かに首を傾け、声を潜めて曰く。
「ありまする。信玄公、このたび仏心を起こされしとのこと。これは、己が命の尽くる兆と自ら悟りし証にござる」
「なるほど、仏心か……」
秀吉、うなずきつつ、遠く霞む小谷の空を見上げけり。
「人の命、まこと灯火の如し。強者なれど、燃ゆる火も、時至らば風にて絶ゆるもの」
半兵衛、これを聞きてただ静かに頷く。
その目に映るは、野望の果てか、それとも天下の兆しか――。
されば、月は昇りて銀の光を落とし、戦の気配はなお消えずとも、人の世の無常を照らしぬ。




