第44話 三方ヶ原の戦い
時に元亀三年十二月、
空には灰雲棚引き、風は吠ゆるが如くにして、
遠江の地、冷え凍てつきて、草も木も、ことごとく霜を帯びぬ。
三方ヶ原――
それは浜松の北、曳馬野に広がるる丘陵地。
山と沼地とに囲まれ、逃げ場なき戦場にてありけり。
家康は、浜松城を発し、五千余騎を率いてここに布陣せり。
その御胸の内には、もはや思慮も策もなかりけり。
ただひとつ、胸に燃ゆるものあり。
「いかなる屈辱あれども、いかなる死地に臨もうとも、武田勢に断じて屈せぬ。その気魄こそが、徳川家康なり」
されば、これは戦にあらず。生死にあらず。
天地に向かいて、己が存在を、叫びし魂の咆哮なり。
男の生涯に、一度は来たるものあり――
血潮、煮え立ちて身を焦がし、魂、天を貫かんと欲すとき。
さる時、もしや家康に憑きしものありとすれば、
それは鬼神にあらず、魔にあらず、怨霊にも非ず。
まさしくそれは――
織田上総介信長、そのものの気魄なりけり。
無二の盟友にして、時に畏怖すべき魔王のごときその人。
されど信長公こそ、この戦に臨む家康の姿を見ずして、すでに見抜いておられたに違いなし。
「家康のみは、裏切ることなし」と――
四面楚歌、味方に裏切られ、京に追われし逆境の只中にあっても、ただ一人、信じる者があったなら、それこそが、徳川家康。
信長公の眼が見抜きしは、理ではなく、運命に刻まれし“男の業”なりけり。
「いかに不利とて、退くは恥なり。進まば勝機あり。」
家康、兜の緒を締め、馬上にて兵を鼓舞し給ふ。
されどその敵、武田信玄――
その威、天下に轟き、しかも今、二万五千を率いて怒濤のごとく押し寄す。
先陣には、赤備え山県三郎兵衛昌景、雷のごとき勢いにて突撃し、高坂弾正少弼昌信、馬場美濃守信房、内藤修理亮昌秀、小山田信茂、秋山信友、続々としてこれに続く。
それ、赤き鎧は火の如く、槍の穂先は光を裂くがごとし。
まさに地鳴りの如く進むさま、天も恐れぬかとぞ思わる。
徳川勢、まずは奮戦し、幾度か敵を押し返すも、軍勢に劣り、地の利にも劣り、ついには左右を包囲されぬ。
忠勝、康政ら、怒涛のごとく斬り結び、敵の波を断ち切らんとするが、将兵、次第に討たれ、あるいは傷つき、ついには防戦一方と相成りぬ。
家康公、馬上より戦局を見つめ、苦渋に満ちた眼にて叫ばる。
「退け! ここにて皆を失えば、徳川の命脈、尽き果てん!」
その声、風に乗りて軍を伝わる。されど、すでに退路は狭し。
ここに、忠臣大久保忠佐、命を賭して殿を務め、槍を横に構え敵を防ぐ。
また榊原康政、馬を返して敵の追撃を断ち切り、家康を救いぬ。
かくて、三方ヶ原の原に敗れたとはいえ、家康が折れしことは一度もなかりけり。
この日の一戦は、血と泥に塗れながらも、徳川が未来へと繋ぐ礎となりにけり。




