第42話 信玄、動く
浜松の城に、徳川家康、急報を聞こし召して、眉間に皺を寄せらる。
「比叡の山、焼かるるとな……?」
言上せし使者、蒼ざめたる顔にて、伏し拝み申す。
「しかと。織田上総介信長公の軍、全山に火を放ち、僧徒をはじめ浅井・朝倉の兵も、ことごとく討たれ候。」
家康卿、拳を堅く結びて嘆き給ふ。
「力ある者、力に呑まるるは、常の理なりや……」
その御言葉、傍に侍る家臣ども、息をも呑みぬ。
或人曰く、「されば、われらは、いかに振る舞うべきか」と。
家康卿、答へず、ただ虚空を仰ぎて、つぶやき給ふ。
「いま一度、信玄公の軍、動き出さん頃か……」
かくて時は移ろひて――
元亀二年の冬、山の気は冷え、霜の風は甲斐の地を吹きすさぶ。
甲府の城の天守に、武田大膳大夫信玄公、静かに立たせ給ひ、眼下に広がる城下を望まる。
馬の嘶き、兵の掛け声、槍の鈴鳴り――戦の兆し、辺りを満たせり。
この時、御後より声あり。
「いざ、出陣の刻、参りました。」
声の主は、板垣信方、原隼人佐虎胤なり。
信玄公、ゆるりと振り返りて、静かに申されぬ。
「甲府の留守、しかと頼むぞ。」
両将、深く頭を垂れて答へぬ。
「御意にござ候。城の守りは万全にいたし申す。」
ここに板垣申す。
「されど、徳川の軍、未だ動かず。拙速は危うく存じまする。」
信玄公、微笑を浮かべて曰く、
「敵、動かぬがゆゑにこそ、我らが先んずるの理あり。」
その言葉、信方、覚悟の色を浮かべて黙しぬ。
時に、陣太鼓の音、空をつんざきて鳴り響き、兵ども一斉に槍を掲ぐ。
信玄公、黄金の兜を戴き、朱の甲冑をまといて、愛馬にまたがり給ふ。
その御背には、山県三郎兵衛昌景、高坂弾正少弼昌信、馬場美濃守信房など、いずれも武田の柱石たる勇士、続き従ふ。
信玄、高らかに号令して曰く、
「いざ、出陣――!」
大地を鳴らす軍馬の蹄、響き渡りぬ。
赤備えの武田軍、甲府の街を抜けて、いままさに進軍せり。
その先に控ふるは、遠州・三方ヶ原の原野――
名将と名将、命を賭して相まみゆる、宿命の戦場なりけり。




