第4話 大原雪斎
春の風、青き麦の穂を撫でて往く。
時の流れもまた、見えねど確かに巡り、世の乱れは未だ収まらず。
安祥城、開かれて三日目のことなり。
駿府へと向かう一行、今川の旗風になびきつつ、山河を越え、野を越え行くその中に、ひとりの輿、静かに揺られけり。
輿の中におわすは、松平竹千代公。
いまだ十歳に満たぬ小さき身に、重き運命を背負いし御子なり。
その傍らに座すは、一見ただの落ち着きたる僧のごとし。
名をば、大原雪斎と申す。
今川義元の腹心にして、僧籍にありながら軍を統ぶる、まこと智将にて候。
「風の流れ、読めるかね」
静かに問うその声に、竹千代、目を伏せてしばし沈黙の後、素直に答えけり。
「……読めるようになりたいと、思っております」
雪斎、目を細め、心に何かの火を覚えし。
媚びも恐れもなき答えに、幼子ながら魂の気高さを見いだしける。
「……怖くはないか。これより行くは、他人の地、他人の城ぞ」
されど竹千代、懐にしまいたる小さき狐守を、そっと握りしめて申す。
「はい。されど、わたしは“つなぐ者”であれと教えられました。戦にあらず、言葉と信にて、人と人を結ぶ者にと」
その言の葉、雪斎の胸に深く届きし。
かつて僧たる身にて、争いを鎮めんと願いたる雪斎も、祈りのみでは世は変えられぬと知り、兵法を選びし身なれども――その理想、未だ心に絶えず。
「……そなた、もしや“狐”に守られておるのか?」
竹千代、ただ静かに頷きぬ。
「いつも傍らに、気配があるのです。姿見えずとも、確かに」
その答えに、雪斎の目、ふと揺らぎたり。
もしそれが空想にあらずば、この御子の背に、何か人ならぬものが宿るやもしれぬ。
その夜――
宿場の庭にて、雪斎はひとり、松の下に座し、月を見上げてつぶやきぬ。
「竹千代……この子は、乱世に終わりをもたらす者かもしれぬのう……」
そのとき。
風もなきに、背後より静かな気配近づきける。
「……気づいておられたのですね、雪斎殿」
振り返りて見れば、そこに立つは、白狐の面を手にした一人の男。
竹之内宗玄――いや、霊狐リク。
千年を生き、神に誓いし者にして、竹千代の守護を担う者なり。
「おぬしが……神の眷属であったとはな」
「正体に価値はありませぬ。なにを護らんとするか、それこそが肝要」
言の葉の間に、沈黙流れけり。
しばしの後、雪斎、老いた瞳に光を宿し、語り継ぐ。
「……あの子を、我がもとで育てさせてはくれまいか。戦の終わりを夢見し、この老いの、最後の願いにてある」
リクは目を細め、ひとつ息を吐きて応えける。
「ならば申しましょう。我も同じ願いを抱いております。されど、終わりをもたらすは、力にあらず。意志と希望――それを貴殿が抱き続ける限り、我もまた信じましょう」
かくして、竹千代は駿府へと入られけり。
これより雪斎のもとにて、文を学び、武を修め、人を知り、国の道を悟られん。
そのそばには、影のごとく寄り添いし、白き狐――霊狐リクの姿あり。
戦乱の世に、小さき火ひとつ灯りぬ。
その芽吹き、いまだ人知れずとも――やがて世を照らす光ともなりなん。