第37話 朝倉軍敗走
元亀元年七月――越前・一乗谷
されば、姉川の戦、朝倉・浅井の連合、織田・徳川の軍に破られけり。
越前守護・朝倉左衛門督義景、軍勢潰走し、ただ一騎、泥に塗れたる馬にまたがりて、一乗谷へと落ち行かれける。
その道、山風冷たく吹き過ぎて、草の露は涙のごとく零れけり。
左右に従ふ者は稀なり。
音もなく、道に残るは、失ひし兵の声なき影のみなりける。
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「殿……」と声かけたるは、山崎吉家。
肩に血の滲む傷負ひつつ、尚も主君に寄り添ひける。
「吉家……生きて帰ったか……」
「然れど……皆、散り申した……」
その言葉に、義景、目を閉ぢて首を垂れたまひぬ。
耳にこだますは、かの河原に斃れし者らの、叫びとも呻きともつかぬ声なり。
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一乗谷の城門、夕霞に包まれし折、静かに開きぬ。
出迎ふは、景鏡殿。甲冑姿のまま、深々と頭を垂れて言ひける。
「義景様……御帰還、忝のうございます……」
されどその声の底には、責めの色、薄く漂ひぬ。
「……我が兵、いかほど戻りたるか……」と問ふ義景。
「……」と景鏡はただ黙す。
その沈黙こそ、何より雄弁に、失ひし数万の命を語りける。
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されば、かの戦、朝倉・浅井の連合、戦死・負傷の者、二千を越えたり。
対する織田・徳川の軍とて、決して無傷にあらず。
千余の命失ひ、諸将再編を余儀なくされしという。
信長、この合戦をもって近江の地を制し、義景・長政を退けたれど、その牙未だ折れず、谷の霧のごとく、亡霊の如く残りぬ。
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今はただ、越前一乗谷の城に、風鳴き渡りて、灯ひとつまた消えにけり。
朝倉義景、屏風に描かれし栄華の都を見上げ、声無く佇み給ふ。
かくて、戦の栄華も、名門の誇りも、皆、夢幻の如く、散りにけり。
まことに、諸行無常の響きは、谷にも山にも、絶えず鳴り渡りける。




