第35話 金ヶ崎の引き口
元亀元年(1570年)――越前国・一乗谷城のことなり。
日はすでに西に傾きて、谷の山々は紅に染まりけり。
風は冷ややかにして、松風の音のみ谷間に響きぬ。
朝倉左衛門督義景卿、齢三十七、屏風の前にて立ち尽くし給ふ。
その屏風に描かれしは、一乗谷の繁栄なり。
金襴に映えし堂宇、曲水の宴、紅葉に染まる庭園――
しかれども、その絵の隅に、見えぬはずの影ひとつ、
信長が軍勢の如く、静かに迫る兆しなりけり。
義景、つぶやくこと低くして、
「信長ごときに頭を垂れて、何の義理あらんや……
されど、このまま手をこまねけば、越前もまた滅びの淵ぞ」
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同じ夜、奥座敷にて、義景、正座して待ち給ふ。
向かひては、近江の若武者、浅井備前守長政卿、齢二十五。
その顔にては、迷ひの色深く浮かび、言の葉少なし。
義景、じっと目を据ゑて、低く申す。
「長政殿、我が朝倉、貴殿の父祖を支へしは、記憶にあらん。
いまこの恩を、忘れ給ふか?」
長政、答へず。只だましめにて首を伏せける。
「信長は貴殿の義兄なるは承知せり。
されど、このまま我らが討たるれば、次なるは浅井家ぞ」
長政、拳を握り、唇を噛み、低く申す。
「……されど、市が……」
義景、その声を切るようにして冷たく言ひ放ちぬ。
「市がいかにあらんとも、
織田が越前を滅ぼさば、浅井もまた終はりぞ」
ここに長政、深く息を吐きて、頭を垂れ、
「承知仕りました。義景殿と共に、信長を討ち申す」
義景、杯を取りて曰く。
「これにて、討伐の盟を結ばん」
二人、杯を交はしぬ。これこそ、後に曰ふ「信長包囲の嚆矢」なり。
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さてその後、信長公、義昭将軍の命を奉じて、朝倉討伐の兵を興し、越前へ向かひ給ふ。
この折、浅井家よりも援軍を求め、長政もまたこれに応ずる姿を見せけれど、その心、既に裏にて定まってゐたり。
小谷の姫・お市の方、密かに兄へ知らせを送る。
小豆の袋に金子を忍ばせて――
「挟まれん」との暗示なり。
ここにして、信長軍、金ヶ崎にて朝倉・浅井に挟まれ、死地に落ち給ふ。
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このとき、羽柴秀吉、殿軍をかって引き受け、命を賭して信長を逃がし奉る。
また、明智光秀、道を裂きて策を施し、
徳川家康、遠くより兵を発して側面を守り給ふ。
信長、命からがら脱し給ひて、京へ戻りぬ。
これを後世、「金ヶ崎の退き口」と称し、武士の鑑と賞せらる。




