第3話 竹千代、駿河へ向かう
風のまにまに時は流れ、世の乱れは収まらず。
栄華もまた、影を伴い、戦の気は山野を満たす。
天文十八年、尾張と三河の境にて、安祥と呼ばるる堅城に、戦の気配ひしひしと満ち満ちぬ。
この城を守るは、織田信秀の嫡子にて、名を信広と申す。
剛毅果断、策を好むも、その胸の裡には、異母弟・吉法師――のちの信長公への嫉妬とも羨望ともつかぬ、複雑なる想いを宿しおりし。
されば今、安祥城を取り巻くは、駿河の太守・今川義元の大軍なり。
その兵を統ぶるは、禅僧にして軍師、大原雪斎。
静かなるその目に、乱世の道理を読みとる智者にて候。
城攻めは日々に激しさを増し、矢は風に飛び、火は石垣を焦がしけれども、安祥の堅き守り、正面より破るべからず。
ここに雪斎、兵を引くふりをし、密かにある情報をもらしける。
――「松平竹千代、織田にあり。人質となりし」と。
この報せ、安祥の将・信広のもとへと届きける。
「父上が狙いたる小僧、まさか実に今川の手中にありとは……」
と、薄く笑みしが、すぐにその顔、陰りぬ。
「小僧を返せば、我が首が助かる道理はなし……」
かかる折――風のように現れしは、一人の風変わりなる旅僧、または文士の姿したる男。
その名を竹之内宗玄と称す。
されど、その真なる姿は――霊狐・リク。
千年を生きし神の使いにて、竹千代を影より守り続ける者なり。
宗玄、静かに席に座し、茶を所望せられ、柔らかなる声にて言の葉を紡ぎぬ。
「人質とは、ただの交換品にあらず。その使い方一つにて、国も、人の情けも動かせましょう」
「貴様……何者だ」
と、信広の目鋭くなれば、宗玄、笑みを浮かべて答ふ。
「ただの風を読む者にて候。されど、貴殿がここにて討たれなば、織田の家は乱れ、尾張の明日は見えませぬ」
信広、目を細めて曰く。
「それが、我にいかなる益をもたらすというか」
宗玄、なおも穏やかに曰く。
「混乱とは、火を呼びます。その火に、今、種火を灯しておけば、後に燃え上がる時、その始まりを知る者のみが消すこと叶いましょう。……吉法師殿が、大いなる焔となりし時にも、ですな」
その言葉、まるで未来を覗き見する者のごとし。
信広、言葉を失い、その夜、ついに城の門を開きけり。
ただひとつの条件にて――
松平竹千代との人質交換。
---
かくして竹千代、駿河の国・駿府へと向かうこと定まりぬ。
その輿のかたわらには、白き影ひとつ。
言わずもがな、霊狐リクなり。
「駿府は、そなたにとり牢にもなろう。されど同時に、学び舎ともなろうぞ」
「……わたしは戦いたくはありませぬ。ただ、この戦を終わらせたきのみ」
「ならば、剣など要らぬ。おぬしには、言葉と心という刃がある」
かくて、静かに交わされし誓いの言葉。
白き狐の目には、すでに織田、今川、松平の未来が交わり、ひとつの大きなる流れをなしていたり。
その流れの起こりを知る者、歴史の書にも記されず。
ただ一人――白狐リク。その策のもとにて、運命の車は、いよいよ転がり始めたり。