第28話 浅井長政
永禄十年(1567年)――
近江・小谷城の天守にて、浅井備前守長政、齢二十二、城楼より遠く岐阜の方角を望み給ふ。
その掌には、織田信長よりの書状あり。
すなはち、妹・市を長政の正室として差し出さんとの申し出なり。
「信長の妹……市殿とな」
と、長政、ひとりごち給へば、傍らに控ふる家老・赤尾近江守清綱、憂ひを帯びて申す。
「殿、この縁組、果たしてお受けになるおつもりにて候か。織田信長、美濃を平らげ、岐阜にて天下布武を掲げたる男なれば、これを娶るは、まさにその軍門に下るに等しゅうございます」
長政、眼を逸らすことなく、重々しき声にて答え給ふ。
「心得ておる。されど信長の勢ひ、今や留まること知らず。美濃を制し、次に狙ふはこの近江にてあろう」
赤尾、さらに申さんとすれども、長政、言葉を遮りて曰く。
「ゆゑにこそ、市殿を迎えるのだ」
その一言に、清綱、はっと息を呑む。
長政の眼には、ただならぬ覚悟の光、深く宿れり。
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幾日か過ぎて、小谷城・大広間にて、輿入れの儀、華やかに執り行はる。
市殿、白無垢をまとひて、静かに座し給ふ。
その横顔を見つめる長政、そっと声をかけける。
「初めまして、我は浅井長政」
市、かすかに会釈し、落ち着きたる声にて申す。
「お目にかかれて光栄にございます、長政様」
その声の奥底には、どこか物悲しきもの滲み、
長政、胸中に密かに思ふ。
(此の方もまた、信長という男の駒として、ここに送り込まれしな……)
「市殿、織田の御暮らしはいかがにて候か?」
と問へば、市、やや目を伏せて、
「兄上は、厳しき方にて候。
されど、妹たる我が身を、血筋のみならず、ひとりの人として慈しみ給ひし」
その言葉に、長政、思はず目を見開きぬ。
(信長に……情けが、あると申すか)
「ならば、こちらでの暮らしも、安心していただけるよう、我が守り申す」
と長政、やさしき笑みをたたへけれど、
市の瞳には、未だ消えぬ不安の影、わずかに揺れたり。
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その夜――
市の御間にて、長政、彼女の隣に坐し、しばしの静寂。
外よりは、秋の虫の声、細く鳴きける。
「市、慣れぬことも多からうが、急がずともよい。ゆるりと過ごされよ」
と語れば、市、かすかな微笑みを浮かべて、
「御心遣い、ありがたうございます」
されど長政の胸中、澱む思ひあり。
(市の背には、織田という巨きなる影あり。
この勢ひ、やがて我ら浅井をも呑み込まんや……)
「市……そなたは、兄君をいかに思ふ?」
と問ひしに、市、しばし黙してより、
「兄上は、天下を取るお方です。妹とて、必要とあらば、ためらいなく駒として使うお方……」
長政の胸、きしむように痛みて、
(やはり、この方も……自らが“駒”たるを悟りおるか)
されど、長政、静かにその手を取りて、真を込めて言ひける。
「されど我は、そなたを人質とは思わぬ。そなたは我が妻にてあり、浅井の一員なり。必ず、我が守り申す」
市、その手を見つめ、やがて瞳を潤ませて、
「長政様……ありがたうございます」
その言葉、胸に響くも――
長政、なお言葉を継ぎて問ふ。
「されど、そなたは信長の妹なれば……もし、我と信長が、いずれ刃を交ふる時来たらば――」
市、ふと瞳を伏せ、やがてまっすぐに見上げて、
「我は、浅井の嫁にてございます。貴方の妻にございます」
その一言、まさに剣のごとく胸に刺さり、長政、言葉を失ひぬ。
(……この方もまた、覚悟を定められたか)
されど、その覚悟が、やがて数年の後、信長との決別と小谷城の悲劇を招かんとは――
この時、ふたりは未だ知る由もなかりけり。
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ああ、義と情のはざまに揺るるは、武家の宿命なり。
婚姻とは、ただ絹の袖を結ぶにあらず、血と命をもって誓う縁にて候。




