第20話 三河一向一揆
永禄五年(1562年)――。
松平元康公、名を改めて「松平家康」と号し、岡崎に拠りて、ついに独立の大名として世に歩み出でらる。
織田信長との清洲同盟を結びて、今川の影を脱し給ひしその歩みの先には、いくつもの吉兆の報あり。
まずは、かねて離れておられた生母・於大の方を、ようやく岡崎に迎え奉ること叶いぬ。
母子の再会、涙なくして語れぬものなり。
さらにその折節、信長よりの文、風を切って届きぬ。
「竹千代殿に、我が娘・一の姫を嫁がせたく候」
されば、ただの軍事的盟約にとどまらず、両家は血縁によりて結ばれんとす。
家康、公達の面を上げ、深く頷きて曰く、
「この縁こそ、松平の未来を守る楯とならん」
されど――
喜びも束の間、岡崎の地には、静かに不穏の兆し忍び寄りぬ。
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ある夜のこと。
城下の農村にて、米の種籾、忽然と消え失せたり。
その些細なる出来事を契機として、三河各地にて一向宗の門徒たち、蜂起を始めけり。
かつての忠臣すら裏切りの道を選び、岡崎城の周辺は騒然たり。
その中に、若き日の本多正信の姿あり。
信と理想とのはざまにて苦悩しつつ、彼もまた家康に背を向けける。
家康、深く傷つきて曰く、
「信じし者までもが、なぜ……」
されども、城を棄てず、なおこれを守り続け給ふ。
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時に、影にて動く者あり。
その名は竹之内宗玄、すなはち霊狐リクにて候。
彼は城を離れ、農村に潜みて風を読む。
ときに一揆の門徒に囁き、ときに密かに書をしたためて家康に届けたり。
「今は剛をもって押し返すに非ず、“流れ”を読まれませ。 民の心は理屈にて動かぬ。されど、飢ゑと孤独には敏感なり。 火を消すに水をもってするにあらず。風向きを変えるが肝要にて候」
家康、その言を噛みしめ、ただ力に頼らぬ道を求めたり。
やがて、一揆の側にも疲れ現れ、信仰と現世のはざまにて、動揺の声広まりぬ。
「……家康殿は、我らにひどき年貢を課したわけではなきや?」
その囁き、村々にて流れ、民の心、徐々に戻りて、一揆の勢い、次第に衰えたり。
その陰にて糸を引き、風を変えしは、まこと霊狐リクの仕業なれど、それを知る者はなかりけり。
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やがて――
永禄六年のこと。
三河一向一揆、ついに鎮圧されぬ。
家康、三河一国を掌中に収めることに成功し給へり。
されど、その勝利は、歓喜にて飾られず、深き傷を伴ひしものなり。
家康、ふと独りごちて曰く、
「人は、心より裏切るにあらず。裏切らせる何かがあるのだ」
その横顔を、影の中より静かに見つめるは、リクなり。
彼、誰にも聞かせぬようにして、そっと呟く。
「これにて、殿は“真の国”をつくらんとする道に立たれた」
かくして霊狐の姿、風に紛れて再び影へと消え行きぬ。
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かくのごとくして、松平家康、ついに一国一城の主となられしなり。
されどその道、ただ血と鉄によるにはあらず。
火と風と、影の智慧とをもって築かれし、未来を照らす第一歩なりき。




