第2話 奇なる子、吉法師
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
戦国の空もまた、春の霞を焦がして、焔と煙にかき消されし。
三河は岡崎の城下に、戦の煙たちのぼりしは、春のある日のことなり。
その日、松平竹千代――いまだ十歳にも満たぬ御子、駿府へと人質に送られんとせしが、その矢先、突如として現れしは、尾張の兵ども。
時の織田信秀、巧みにも軍を繰り出し、かの御子をさらいけり。
「子どもとて、使い方ひとつで利あり」と、信秀ほくそ笑み、竹千代を名古屋へと移し、屋敷の奥に幽閉せしめたり。
されど、その信秀には、奇なるひとりの子あり。
名を吉法師と称し、のちの織田三郎信長公にて候。
奇矯にして奔放、ただならぬ気配をまといし少年、竹千代を前にして曰く――
「ふむ、これが三河の小僧か……へえ、目が死んでねえな」
されど、竹千代、眉一つ動かさず。
おのれを奪いたる者の子に、真っ直ぐに視線を返したるは、まさに器の深きを思わせし。
これぞ、後の天下を左右せしふたりの初めての出逢いなり。
かの夜――
織田の屋敷に、風のごとく現れしは、一人の風変わりなる文人。
名を、竹之内宗玄と申しける。
「三河にて、竹千代様の学問を賜りておりました。このたびのご縁、礼を申しに馳せ参じ候」
かしこまりたる言葉、和歌を交え、落ちついたる口ぶり、誰しも彼を文雅の士と見誤いける。
されどその正体、言わずもがな、霊狐リクにて候。
宗玄、巧みに信秀に言葉を尽くし、竹千代と吉法師との間に、語らいの座を設けんことを願い出たり。
「若さとは、火にも似たり、水にも似たり。ぶつかりてこそ、器もまた磨かれ候」
かくて、ふたりを茶席に向かい合わせ、静かにその時を見守りける。
竹千代は語らず。されど、その目にこそ、恐れも媚びもなく。
吉法師、興を覚え、にやりと笑いて、菓子ひとつを差し出し――
「お前、俺のこと、怖くねぇのか?」
と問えば、竹千代、声を低くして応えたり。
「あなたの目は、獣の目にあらず。烈しき炎のごとし。触れれば火傷せん……されど、道を照らす光ともなりましょう」
その言の葉、吉法師の笑みを止めしなり。
しばし沈黙ののち、ぽつりと曰く。
「こいつ、気に入った。返すのは……もうちょっと、あとでいいや」
それより、竹千代、奇妙なる立場に身を置く。
捕虜にもあらず、客人とも言えず。
ただ、吉法師の傍らにありて、静かに時を過ごす存在となりにけり。
そのすべて、霊狐リク――竹之内宗玄の導きなり。
いかにして、火と火を争わせずに、交わらせ、未来を育てんとするか。
まこと、それは、破壊と継承のはざまにて仕組まれし、白き狐の企みにて候。
やがてふたりの少年、己が道をゆき、別のかたちにて天下に至らん。
されど、その始まりに、影より支えしものあり。
名をも残さず、姿も語られず、歴史の流れに消えしもの――
白狐・リク、その知恵と誓いこそ、未来をつくりし礎なりけり。