第19話 家康と瀬名
桶狭間にて今川義元討たれてより、はや二年の歳月流れぬ。
若き氏真卿、齢二十四にして父の跡を継ぎ、駿府の中枢に立たれけり。
されど、その御足下、誠にもろくして、朝比奈・庵原・井伊といったる重臣ら、不満を胸に積み、国中の諸士、命を背に受けながら従わざりけり。
かくて、今川家の威、往時のごとき光を失ひ、駿府の城中には沈みたる空気漂ひける。
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その頃、三河・岡崎の城にありては――
松平元康、清洲にて織田上総介信長と盟を結び、名目こそ従属に見えても、すでに今川家より実質離れたる独立の身なり。
されど、元康の胸中には、重き悩みひとつあり。
それは、妻・瀬名、並びに嫡男・竹千代のことなり。
瀬名は、今川義元の重臣・関口氏純の娘。桶狭間の戦いの後、母子ともに駿府に留まり、人質として扱はれておりぬ。
それはすなはち、元康が今川に従順たるを示す“楔”なり。
家臣ら、口々に進言して曰く、
「すでに殿は独立を果たされました。妻子のこと、今は断たるべき時にござりましょう」 「駿府があの二人を、易々と返すとは思われませぬ」
されど、元康、首を横に振りて、眼に強き光を宿し言ひける。
「我が道に、裏切りの影を落としてはならぬ」
かくて、元康、ひとつの策を巡らせり。
その標的は、鵜殿長照。
彼は今川家の重臣にして、義元の妹を母に持つ、まさしく家中の柱のひとつなり。
元康は軍を発して鵜殿が城を攻め落とし、長照ならびにその母子を虜にせり。
この母子を以て、瀬名と竹千代を取り戻す交渉の具とせしなり。
かくして――
駿府よりの使者に伴はれ、瀬名と竹千代、岡崎に戻ること決まりぬ。
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その日、岡崎の城門開かれぬ。
春の風そよぐ中、白き旅衣をまとひたる女の姿、門を越えて現れたり。
是れ、瀬名なり。
旅の疲れ、面に残るも、その瞳には確かな光宿せり。
その手を握るは、幼き竹千代。
あどけなき顔にてありながらも、その目に宿るは、覚悟の色。
元康、門より静かに歩み寄り、瀬名の前に立ちて、言葉短く発しける。
「……遅くなったな」
瀬名、深く頭を下げ、唇を噛みて、かすかに震えながら答ふ。
「待っておりました」
その一言に、喜びの情を超えて、深き決意の響きあり。
まこと、新しき戦いの幕、ここに上がれり。
元康は竹千代の髪をそっと撫で、瀬名の背にまなざしを注ぎぬ。
己が名を“家康”と掲げ、ゆくべき道――その始まり、まさにここにあり。
その時、空より一筋の風、音もなく吹き抜けたり。
それはまるで、ふたたび結ばれし家族の門出を、天が祝ひたるかのごとくに――
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かくして、松平家、再びひとつとなり、
嵐吹きすさぶ世を渡る旅路の第一歩、ここに踏み出せしなり。




