第16話 信長と山科言継
かくて、都の動きを静かに測らんがため、織田上総介信長、霊狐リク――竹之内宗玄の導きにより、しばし密なる訪問を重ねける。
その中において、宗玄、特に引き合わせたるは、山科言継卿なり。
此の人、堂上家の家筋に連なり、公家の身なれど、世の乱れを憂ひて朝廷の気風を探り、事の裏を写し留むる、優れたる記録の才ありけり。
その夜のことなりけり。
対面は東山山科の離れ屋敷にて、月冴ゆる下、ひそやかに行はれぬ。
簡素なる座敷にて、信長と言継、向かい合いて言葉を交はす。
信長、いくさ人の甲冑を脱ぎて、文人めきたる旅装に身を包み、されどその眼光、鋭くして剣の如し。
言継、彼の様をつぶさに見て、しずかに口を開く。
「今川義元を討たれし御方と承りしが、思ひしに違ひ、静かなる火を宿し給ふ」
信長、唇の端にほほ笑を浮かべ、
「火とて、烈しければ野をも国をも焼き尽くす。されば風を読む者こそ、我が求むるところなり。卿はその“風”の中にあると聞く」
言継、わずかに目を細め、頷きて曰く、
「風は留まらず。将軍義輝公の御威、いま危ふし。三好の勢いは増し、朝廷の柱も揺れ動きぬ。されど人々、皆、“新しき火”の出づるを探し候ふ」
二人、しばし語りて、言葉は少なけれども、思いは深く交わされぬ。
ひとりは、“継承”を信じる公家。 ひとりは、“破却”をもって世を築かんとする武者。
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――その夜、山科言継、筆をとりて日記にこう記しぬ。
【永禄三年五月某日 山科言継記】
永禄三年五月某日、夜更けに至りて、尾張国織田三郎信長、洛に入るの報あり。宗玄坊が導きにより、我が山科邸に来訪す。
信長、容貌粗にして剛毅の相を具すれど、眼光炯々、常人にあらず。 衣は質素にして旅姿、詞は率直にして礼を失はず。
余、問ふて曰く、
「殿は、天下を望み給ふや」
信長、静かに応へて曰く、
「望むにあらず。ただ、焼け落ちた後に、何を建つべきかを見定めるなり」
其の詞、猛火のうちに理を宿せり。
また曰く、
「いずれ帝の御傍に立つことあらば、筆を執る者として、卿の如き者を望む」
余、これに答えて曰く、
「記録とは、ただ事を記すにあらず。“歴”をつなぐ者なり。殿の如きは、書き記すに難しけれど、誠に記し甲斐ある人にて候」
是夜、風は冷やかにして、月影いよいよ深し。
筆をとどめ、言継、独り思ひぬ。
「都にて、斯くなる火を見たるは、久方ぶりなることなりけり」
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風のごとく移ろふ世に、火を携へて現れし者―― その名、信長。
物の哀れを知りつつも、世を変へんとするその志、記すに価すべきものなり。




