第15話 信長の次の一手
永禄三年、初夏のことなり。
桶狭間の戦において、織田上総介信長、東海随一の軍勢を率いし今川義元を討ち果たしける。
尾張の国、これを聞いて沸き立ちぬ。
名もなき若武者、雷の如く現れ、雲を貫くがごとく大軍を破りしは、まこと人の業ならずと、老若男女こぞりて讃へける。
「尾張に神将現る」と囁かれ、諸国の諸侯も、ひそかに膝を正しけり。
さるほどに、信長の城内においては、早くも次なる策の声、満ち溢れたり。
「次なるは美濃なるべし。斎藤道三殿の仇、ここに討たねば名折れにて候」 「義龍など、今川にも及ばぬ小兵なり。今こそ一気に攻め入るが時にて候!」
士卒の気は高まり、城内はまるで出陣前夜の如き熱気に包まれたり。
されど――
その最中、信長、静かにして曰く、
「――われ、熊野へ参らん」
かく言ふや、座に沈黙走る。
柴田修理亮勝家、怪訝なる面持ちにて問いける。
「く、熊野……にございますか? これはいかなるお考えにて……」
信長、目も動かさず答ふ。
「熊野は霊地なり。戦に勝ちて威を振るふとも、理を失せば民心離れん。そして何より、われは“神の見ておる方角”を知りたきものなり」
その言葉、家中を走りて、皆、困惑の色を隠せざりけり。
されど、すでに信長の決意は固く、供の者わずか数十、形ばかりの私的巡礼として道を発てり。
さればその行列、熊野街道を進むごとく見せながら、伊勢路に入りしのち、そっと道を外れて北へ向かふ。
目指すは、都・京の空なり。
この時、京の都には、なお室町幕府の名目の権威ありて、天皇・公家・将軍家・寺社勢力、いずれも複雑に絡み合ひ、百花繚乱の政の舞台たる。
かの信長、若き田舎武者なれど、名声すでに都にも届きたり。
「今川義元を討ち取りし火の将、信長来たる」と、人々ささやきあふ。
都の者ども、その来訪を「熊野帰りの立ち寄り」として表しながらも、心の内は騒然たり。
「尾張の田舎侍、果たして幕府の礼を弁へるか」 「いや、あれはただのうつけにあらず。義元を屠りし炎、侮り難し」
かくて朝廷・公家、摂関家に至るまで、眼を光らせて信長を見据えり。
一方、信長もまた冷ややかなる眼差しにて、内裏の動静、朝儀の作法、公卿の所作、摂家の言葉、そして――御門の気配を細やかに観察しけり。
あたかも、いまだ現れぬ嵐の風向きを、誰よりも早く感じ取らんとするかのごとく。
されば――
この旅、単なる巡礼にはあらず。
まこと、次なる風を読む者、信長の謀りし“火種”のひとつなりけり。




