第14話 元信、三河に戻る
空裂けしは、昼の刻にて候ひける。
その頃、三河・大高の陣にありて、兵の整理に追はれ給ふ松平蔵人佐元信、空に轟き渡る雷鳴をば、はじめ風の戯れかと、空耳にこそ思ひけれ。
されど程なく、伝令一人、風に逆らひ馳せ来たりぬ。
その口より洩れ出たる言の葉、あまりに現のこととも覚えず。
「……義元様、討死――桶狭間にて……今川本隊、壊滅せり……!」
声は細く、風のなかに紛れければ、夢か幻かと、元信、ただ耳を傾けしのみ。
「今……何と申したか」
と、声もかすかに問い返し給へば、
「義元様、織田信長の軍勢に突如襲はれ、ご首級、奪はれ候ふとの報にございまする」
と伝令、頭を垂れて答ふ。
刹那、時止まりて、周囲の音、すべて絶えたり。
あの義元公、討たれ給うたか――。
沓掛を出でし折は、兵の意気昂然として、勝ち戦の気配濃かりしに、いかにしてかこの有様。
元信、ふと天を仰げば、空の色、先ほどとは異なり、風もまた、かの時と違ひけり。
まるで立っていた地面が、忽然として足許より抜け落ちるがごとし。
(義元公、今は亡し……)
さすれば、自身を守りし“楯”、もはやこの世になきことと知る。
そして、その“楯”を打ち砕きしは――織田信長なる、嵐のごとき若武者なり。
拳、静かに震えぬ。
「聞け、皆の者――!」
元信、声低くして、されど確かに語りぬ。
「われら松平は、義元公を失いぬ。されど、ここで滅びの道を選ぶには及ばぬ。我が三河へ戻り、再び立つべし!」
家臣たち、驚きつつもその言葉に従いぬ。
その背には、もはや少年のあどけなき影、微塵もなくなりけり。
その日の夕暮れ。
元信、ひとり人影なき社の石段に腰を下ろし、ひとこと呟きける。
「……霊狐さま。これは、そなたの仕業にて候ふか」
風、木々を渡りて鳴れども、答ふる声はなし。
されど、元信は知れり。
――嵐のごとく戦場を駆けし男、信長の背に、何者かの影、常に寄り添ひたりしことを。
後に伝はるところによれば、今川の被害、筆紙に尽くし難し。
当主・今川義元をはじめ、松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳など、名だたる将、三千余名、駿河より失はれたり。
嗚呼――
盛者必衰の理、この戦にてまた一つ、証さるるなりけり。