第11話 今川義元、上洛の途に上がりぬ
されば世の習ひといふもの、栄華は久しからず、火のごとく燃ゆるとも、風にあへば忽ちに消ゆ。
時に永禄三年、春のころ――
東海道に大いなる報せひとつ走りたり。
駿河の守護、今川左京大夫義元、年四十二、四万余騎を率ゐて上洛の途に上がりぬと聞こゆ。
これ、将軍家の威を笠に着せて、天下の政を我が手に取らんとする野心の顕はれなり。
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この沙汰、たちまち尾張の国をかけめぐり、国人・百姓の胸を騒がし、諸士おのおの色を失ひけり。
織田上総介信長公、清州の城に籠り、日夜軍議を開かるるも、良き策いまだ浮かばず。
兵の数少なく、兵糧乏しきうへに、城郭の備へもまた不完全なり。
信長、城の縁を黙して巡られ、眼中には憂ひの焔ひたひたと揺らぎぬ。
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さる夜のことなり。
信長のもとに、名を記さぬ一通の書状、ひそかに届けられたり。
紙上には、筆細く、しかと書かれてありぬ。
――「城下の古井戸小屋にて、お待ち申し上げ候」
文末に署名はなけれど、末尾には狐の爪痕にも似たる朱の印、ひとつ押されてありける。
信長、思ふところありて、その夜ひそかに古井戸の小屋へと赴かれたり。
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そこにありしは、異形の三人なり。
まず一人は、旅の文士と見ゆる男――名を竹之内宗玄と称す。されどその正体は、千年を生きし神狐、霊狐リクにて候。
また一人は、機知の者らしき風体の若者――名を木下藤吉郎といふ。笑みの奥に野望を隠し持ち、世を読むに長けたる男なり。
また一人は、風貌剛毅にして大刀を背負ふ野武士――蜂須賀小六。
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藤吉郎の導きにより来たりし小六なれど、直ちに信長に従ふにはあらず。
その眼にて人を測り、「この男、真に従ふに足るか否か」と、黙して見定めんとす。
ここにて信長、臆せず、声を荒らげて言ひ放たれける。
「いま義元公、都を指して兵を挙ぐ。されどその志、民のためにあらず、ただ己が驕慢と栄耀のために候」
「もし従はずと申さば、我みづから貴様の首を刎ね、舌を引き抜くべし!」
「行動なくして義を語る者、野武士にあらず、唯の賊徒なり。心得よッ!」
この気焔、凄まじくして、座中静まり返りたり。
蜂須賀小六、その気迫に打たれ、しばし沈黙したるのち、深くうなづきて曰ふ。
「御意……この御方、ただならぬ“火”を抱きし御仁なり」
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ここに、霊狐リク、静かに言葉を添へて曰く。
「信長様。今川義元公は、“理”をもって天下を制せんとすれども、理には“想定外”といふ弱みあり」
「それを突く者こそ、燃ゆる火のごとき殿下にてこそ適へり」
これを聞きて、信長しばし眼を閉ぢ、やがて笑みを浮かべて曰く。
「……よきかな。面白し。道三様の言葉借りれば、“火傷する覚悟なき者、天下を得ず”といふべきか」
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かくして、狐の導きによりて信長のもとに集ひしは、三人の異才なり。
木下藤吉郎、蜂須賀小六、そして名を記されぬ白狐の軍師、霊狐リク。
この出会ひ、やがて桶狭間の戦へとつながり、歴史の風は激しさを増して吹き荒れなんとす。
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火はただ燃ゆるにあらず。火を煽る風ありて、はじめて天下を変へる焔となる。
そして風を呼ぶ者、記録に名を残さずとも、確かにそこに在りたり。




