第1話 竹千代おわしませり
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
戦国の世の嵐もまた、盛者必衰の理を伝ふるものなり。
これは、神も仏も背を向けし混沌の世、兵の血、田野を染めし時代にて候。
そのころ――
天文十一年の春のころ、三河国は岡崎にて、ひとりの御子おわしませり。
名をば、松平竹千代と申す。
いまだ幼くして父・広忠を喪い、家は乱れ、行く末暗き運命と人は見たり。
されど、かの御子の背には、常ならぬ影ひとつあり。
名をば、霊狐・リクという。
その身、千年の齢を重ね、白き毛並みをたたえたる神の使いなり。山深くに棲まい、人の姿をもとり、風のごとく現れては、影のごとく去る、まこと得体知れぬ存在にて候。
されど、この霊狐、ただの妖にはあらず。
いにしえの神に誓いしは――「武をもって国を治むる者にはあらず、心をもって世を鎮める者を助けん」と。
この誓い、忘るることなく、国乱るる戦乱の世にて、ただひとり、しずかに立つ童子に出逢ひたり。
「狐さま……我をお守りくださるか」と問ふ童に、霊狐は静かに曰く。
「違ふぞ、竹千代。お前こそ、この国を守る者ぞ。そのために、我は影となろう」
かくて、霊狐リクはその身を人となし、ときに忍びとして敵の謀を探り、ときに商人となりて金と策を廻らし、ときに竹千代の影武者ともなりて、世の乱れを静めにけり。
「真の強さとは、刃を振るうにあらず。争わずして、ことを収むる者こそ、強きなり」
この言の葉、竹千代の胸に深く刻まれたり。
その後、リクの秘策は、武田に約を破らせ、上杉の兵を他国へ逸らし、織田信長の志を陰に支へ、ついには竹千代に「天下泰平」の器を備えさせたり。
そして人々は、竹千代を「徳川家康」と呼ぶに至りぬ。
されど、そは表の名なり。
その背にて、名も記されず、姿も語られず、ただ歴史の闇に身を潜めし、白き狐の面影を知る者、いかほどあらんや。
ただ風のごとく、ただ影のごとく。
日本を一つにまとめんとせし、影の英雄――霊狐リクの物語、ここにあり。