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気ふれの遊女の話

今回はかえでが春乃太夫付きの禿に抜擢される少し前のお話しです。

まだタヅと呼ばれていた頃の事、やっと廓言葉を話せるようになったタヅは、いつもある一人の遊女の事が気になっていました。

その遊女は毎日一人で中庭の手摺に寄り掛かって空を眺めていました。

ある日タヅは勇気を出してその遊女に話し掛けてみたのです。

 その女郎には仲の良い女郎が誰もいなく、他の女郎達から距離を置かれいつも一人でいた。

 

その女郎の顔は触れると消えそうなくらいに生気がなく、目が虚ろで何の表情もなく瞳に光を写す事はなかった。

しかしタヅは何故かその女郎の事がいつも気になっていた。

そしてある日勇気を出してその女郎に話しかけてみた。

「おあ(ねえ)さん、どうしていっつも一人でいるんでやんすか?」

「…おまえは、だぁれ?」

「わっちは引込禿(ひきこみかむろ)のタヅといいやんす。」

「へぇ…、そうかい。」

「おあ(ねえ)さんいつも一人で居りやんすけど、一人でいるのが好きなんでやんすか?」

するといきなりタヅは着物の衣紋を後ろから引っ張られて、馴染みの女郎に奥座敷に連れて行かれてしまった。


「な、なんでやんすか?」

「おやめったら!この子は!あの女郎はね、気がふれちまってるんだよ。」

「気がふれちまってる?」

「気ふれの病さ。」

「え、病?」

「自分の事も相手の事も誰が誰だか、何の話をしているのかもさっぱり解らなくなる病さ。話しかけてもあの娘にゃ通じやしないし、いっつも変な事を言い出したりするんだよ。あっちらは気味悪がって誰も近寄らない。朴庵先生の話じゃ大方治る見込みはない病だそうだよ。」

「そんな病があるんでやんすね。」

「さぁね?まぁあるそうだね。」

「何でそんな病になっちまったんでやんすか?」

「何でもあの娘にゃ気の毒な過去があったらしい、それで気ふれの病になっちまったんだと。可愛そうな話だけどな。」

「相州屋で?」

「え?…あ、…ああー。お前に言うんじゃなかった。つい引きずられちまったよ。」

馴染みの女郎は天を仰いだ。

「そうさ、これは見世の不始末にも関わってた事らしいからあの娘に近付くのは大旦那さん達にも憚れるんだ。だからあの娘の病はあっちらにはどうしようもない事さ。お前が気にかけるのは勝手だが深入りはやめときな。お前は引込禿(ひきこみかむろ)なんだからね。」

「…あい。」


 その場は引っ込んだものの、タヅは今度はお登喜おばさんにその女郎について聞いてみる事にした。

「お前はまた余計な事に首突っ込んで…!なまじ頭が良いと色んな事に興味持ちすぎて困ったもんだね。」

「すんません…。」

タヅは亀の子みたいに首をすくめて言った。

「…でもお前は将来太夫になるかも知れないんだ、何でも知っておいた方が良いかも知れないねぇ。お前なら腹も座ってるだろうし。」

 お登喜おばさんは煙管(きせる)を吸いながら話し始めた。

「あの娘がここに来た時はもう十五くらいだったかね…。でもその時はまともな普通の子だったんだよ…。貧乏な田舎から売られて来て、もう(さと)で男を知った身体だったからすぐに見世に出されたんだ。もちろん(さと)に亭主なんざ居ないよ。田舎の年頃の男女がよくやる寄り合いで、遊んで男を知ったんだよ。田舎には遊ぶ所が無いからね。」


「ところが初顔見世で運悪くとんでもねぇ野郎に出会っちまった。」

「とんでもねぇ野郎?」

「ああ、この相州屋に来て女郎としての最初の客が悪かったんだ。そいつはあんまり良い噂のないエテ公だった。あの娘が生娘(きむすめ)じゃない新顔だってんでね、興味を持って一刻程買ったんだよ。今からすれば見世として断れば良かったんだ。あの娘は端女郎だったから大部屋で衝立だったんだけど、そのエテ公が大枚払うから部屋を用意しろってね。こちとら商売だから意のままに一部屋貸したんだ。」


 そこでお登喜おばさんが黙って煙管(きせる)を火鉢に叩いて吸殻を落とした。

そして煙管(きせる)に新しく煙草を揉み入れながら思案顔でいた。

「どうしたもんかね…。これから先話した方が良いだろうかね…。」

そこまで話してお登喜おばさんはまだ迷っていた。

「話しておくんなまし。」

タヅはハッキリと言った。

「でもお前はまだ子供なんだよ。」

「子供でもわっちは知りたいんでやんす!何でかあの(ねえ)さんの事が気になるんでやんす!」

「お前はヘンな子だねぇ。お前にゃ負けたよ。」

 お登喜おばさんは煙管(きせる)を吸ってフーッと煙を吹きながら話し始めた。

「あの時、あたしらは嫌な予感がしてたけど貸した部屋からは声一つしない。だからあのエテ公が帰るのを待ってたんだ。そしたら二刻程してもまだエテ公が部屋から出てきやしない。痺れきらしてコッチから早く出て行ってくれるよう廊下から襖越しに催促したんだ。昼見世だったから暇だったけど後の客も詰まってたしね。そしたらエテ公がね一人で出てきたんだよ。薄ら笑いを浮かべて何だかそら恐ろしい気味悪い顔をしていたよ。」


「おかしいと思ってたんだ。お前も客が帰る時にゃ見送るために女郎も客と一緒に部屋から出て来るのは知ってるだろう?あの娘にもそれ位は教えてたんだ。だけどあの娘は出て来なかったんだ。おかしいと思ってすぐに若い衆を部屋に見に行かせたよ。そしたら…。」

「どうしたんでやんすか?」

「あの娘が縄で縛られていたんだよ。しかも裸で。口に猿ぐつわをされてね。」


それを聞いてタヅは強い衝撃を受けた。

「米俵を知ってるだろう?あんな風にダルマみたいに手足を縛り付けられて身動き出来ないようにね。しかも顔に刃物で脅された様な傷痕もあって実際に切り付けられた傷も身体中にあった。」


 過去を見るようにお登喜おばさんは言葉を続けた。

「ここは妓楼であの娘は女郎だ。その上であの娘がエテ公に何をされたのか、お前にも分かるだろう?」

縄で縛られ刃物で傷つけられた後、その女郎がその男に何をされたのか、その頃のタヅにはまだはっきりとは分かっていなかった。

しかしその状況を思い浮かべるだけで、タヅはもうただ恐ろしくて真っ青になってうつ向いて頷く事しか出来なかった。


「場なれた女郎や部屋持ちの遊女なら客が少しでもおかしな振るまいをしようモンなら大声を出して相手を罵ったモンさ。そうすりゃ若い衆が飛んで来るからね。でもあの娘は初めての顔見世だったから部屋に閉じ込められても道理が分からなくて声が出せずに猿ぐつわをされちまった。それで客の言いなりになるしかならなかったのさ。刃物で脅されて。」


「もちろん相州屋としてはそれからは二度と同じ様な事がないように初見世の女郎には気を使うように改めたさ。だけどよほど恐ろしかったんだろうね…。それからあの娘は気がおかしくなっちまったんだよ。純朴な田舎育ちの娘だったからね…。」


「女郎がいくら金の為に身を売るっていってもしきたりってモンがあるってんだ。この吉原はその厳格な決まりを守ってこそ遊廓として成り立っているんだ。」

「その客はそれからどうしたんでやんすか?」

「吉原では出入り禁止になったよ。あんな行いをした上に刃物を隠し持ってたんだからね。侍だって吉原に入る時ゃ大小を番所に預けるってのに。その後は岡場所でも相手にされなかったんだとさ。どこかの売女か夜鷹でも相手にしてるだろうよ。だがあんな事続けてたらどのみち長生きは出来ないね。神様だって許しゃしねぇだろうよ。ふん!或いはもうこの世にはいないのかも知れないねぇ。」

お登喜おばさんは煙管(きせる)を深く吸って長く息を吐いた。


「もちろんこれは相州屋の責任さ。初顔見世の女郎をエテ公にあてがってしまったんだからね。それから大旦那とお内儀(かみ)さんは相州屋の改革に取り組んだのさ。女郎にだって人としての自尊心がある。それを蔑ろにするような客はお断りだとね。初顔見世の女郎の相手には充分気を配る、ヘンな趣味嗜好のある客は若い衆がすぐに追い出す。まぁ尤も(ねえ)さん達の気迫にゃ若い衆でも勝てねぇけどねぇ。」

お登喜おばさんは少し苦笑した。

「後は番所と会所にも客の持ちモンの取り締まりを一層厳しくして貰う様にしたのさ。刃物と縄を持ったエテ公を見逃して中に入れちまった責任は番所と会所にもあったんだからね。」


「…そうだったんでやんすね…。あの(ねえ)さんが可愛そうでやんす。」

「…時の運だねぇ。見世の責任でもあるけど、どういう巡り合わせであの娘があんな目に遭っちまったのかは神様しか分からねぇ。けどね、でもその前にあたしらで女郎の身に降りかかる危険を防げる手立てはあるってこった。それをまざまざと知ったんだよ、あたしらもあの一件で。神様がどんな意地悪をしようともね。」


 お登喜おばさんはまるで何かと闘う様に深く煙管(きせる)を吸った。

火鉢の灰はブクブクと真っ赤な火をたぎらせて怪しく揺れていた。

タヅはその赤い火をただ見つめていた。


 その女郎は事件後、はじめはあの恐ろしい出来事の影響で小さな物音にもびくつくような有り様だった。

特に縄と刃物を見た時に更にひどく恐怖に怯えていた。


 朴庵先生が見世に出るのを反対した為、その女郎はしばらく朴庵先生の療養所で静かに過ごしていた。

その内に物事に怯える事はなくなったが、しかし気ふれの病にかかってしまっている事が分かった。


 それからは見世としてはその女郎には相州屋の裏方で何をする事もなく好きに過ごさせていた。

その女郎の先行きをどうしたものかと大旦那とお内儀(かみ)さんが思案していると、ある日突然その女郎が夜の張り見世に姿を現した。

 もちろん正気を取り戻した訳ではなかったが、あのような過去のあった張り見世に来るとはどうした事かとみなが驚いていた。

華やかな灯籠や提灯の灯りに誘われたのであろうか?

或いは賑やかなざわめきに興味が湧いたのかも知れない。

 それからその女郎は化粧もせず質素な着物を着て、いつも何をするともなく張り見世の隅に座って遊女達の商売を眺めるようになっていた。


 そうしたある日、一人の男がその女郎に相手をして欲しいと申し出て来た。

しかし番頭はそれを断った。

「兄さん、あの女郎は駄目なんすよ。何ぶん昔にちぃと都合の悪い事がありぃやんしてね、今は客を取らしてないんで。それにまともに話も出来ねぇんじゃねぇかと…、」

「知っていらぁな、あの女郎の過去の事なんざ。酒場の噂話で聞いたさ。おいらの女房も昔ふとしたきっかけでヤクザな野郎に酷い目にあわされた挙げ句、首くくって死んじまったのさ。その時おいらは女房に何にもしてやれなかった。今でも悔やんでも悔みきれねぇ。だからおいらはあの女郎の事を何だか放っておけねぇ気がしてね。おいらの方から話しかけるだけでも良いんだ。」


 番頭は大旦那と相談して二人を会わせてみる事にした。

不思議な事にその女郎も大人しく男の後に付いて行った。

そうした事が何度かあった内に二人は懇ろになったらしい。


 その客の影響かいつの間にかその女郎は酒の酌をする事を覚えた。

相変わらず会話は成り立たなかったが、その女郎は他の遊女達の様に男に媚びた微笑ではなく、素直な少女の様な笑みを静かに浮かべながら相手を見つめていつも黙って話を聞いていた。

 やがてその女郎の少女の様な笑みの話に惹かれたのか、噂を聞いた別の客もその女郎を指名する様になった。

その客もその女郎が過去に受けた残忍な傷を知った上でその女郎を指名する優しい男だった。

しかもその女郎を指名する男はそれだけではなかったのだ。

みなその女郎の過去を知っており、傷を癒したり分かち合ったりして優しくその女郎を抱いてくれている。

そんな芯から誠実な男達ばかりだった。


 その女郎もたとえ気がふれていても、欲していたのは男衆に包み込む様に抱かれる暖かな温もりだったのかも知れない。


 朴庵先生はその女郎が正気を取り戻す時が来るとすれば、それは女郎としてではなく一人の女として優しい一人の信頼できる男に生涯変わらぬ愛情で愛される時であろうと言った。


 優しい男達が支えてくれているお陰で、その女郎の借金は順調に返済され、年季を終えるのも早いだろうとお登喜おばさんは言っている。

 タヅは年季が開けた後、その女郎が本当に幸せになれるようにと神様に強く祈った。


 しかし一方でこの女郎の話が、それまで(さと)でおおらかに怖いものなどなく天真爛漫に育ったタヅの心にある変化をもたらした。

 この世の中には思いもよらない恐ろしい世界があるのだと、自分はとても恐ろしい場所に売られてきてしまったのだとタヅは初めてさとり恐怖に怯えた。

そしてその事がタヅをとても慎重深い性格に変えてしまったのだった。

密室で客と二人きりになる遊女は誰も守ってくれる人が居ない無防備な状態です。

ただ性の相手をするだけならまだしも、今回のお話の様に異常な性癖を持つ男が客として混ざり込んで来る可能性も多々あったのでは?と思うのです。

それでも拒否は出来ないのが廓の定めだったのでしょう。

あまりにも悲壮で哀しい遊女達に何か救いの手段があったのなら…(涙)と、こんなお話を書いてみました。(T^T)

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