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春乃太夫の命をかけた恋 その十一『春光美麗の候』

ついに気を取り戻す事が出来た春乃太夫。

本当に奇跡のような出来事が起きました。

朴庵先生の見立ては間違っていなかったのです。

しかしかえでとふじ枝はまだその事を知りません。

そして春乃太夫と銀次はこれからどうするのでしょうか?

かえでとふじ枝が春乃太夫に会えたのはそれからすぐの事だった。

春乃太夫は相州屋の大旦那に自分が息を吹き返した事を知られるのを躊躇していたが、やはりどうしても二人に会いたかった。

そこで朴庵先生に頼んで短い時間でも良いから二人を呼べないかと相談したのだ。


またかえでとふじ枝も春乃太夫の事が気になって仕方がなかった。

なので朴庵先生が二人を呼びに相州屋に来た時は、二人共不安と心配が入り雑じった気持ちだった。

朴庵先生がつとめて冷静な表情を崩さず、無表情なままだったからだ。


お歯黒どぶにかけた板屏の橋を渡って人目がなくなってから二人は朴庵先生に話しかけた。

「ねぇ先生、ねえさんは?どうしたの?」

「なんであっちらを呼んだの?まさかねえさんに何か悪い事があったの?」

「悪い事があったらわざわざお前達を呼びに来たりせんよ。」

「え?じゃあ先生、春乃ねえさんは?」

「もしかして?気がついたの?」

朴庵先生はにっこり笑って振り向いた。

かえでとふじ枝は思わず叫び声を上げたいくらいに喜んだ。


朴庵先生も春乃太夫の事情を慮って相州屋では相好を崩さず無表情でいたのだ。

春乃太夫の生還を知った二人は子供らしくはしゃぎながら朴庵先生の庵に向かって駆け出した。

戸を開けるとその喜びが抑えきれなくなった。

「春乃ねえさん!」

ねえさーん!」

春乃太夫は銀次に支えられながら身体を起こして二人を待っていた。

そして優しい微笑みを浮かべて二人を迎え入れた。

二人は春乃太夫の膝元に抱きつくように飛び込んだ。


ねえさん、本当に気がついたんだね。」

「良かったぁ、良かったぁ。」

かえでは涙が溢れて止まらなかった。

「お前達、心配をかけたね。あちきの面倒を見てくれていたんだってね。ありがとう。もう大丈夫だからね。」

ねえさぁん、ねえさんの声だ~。」

「本当だぁ。」


春乃太夫は心配されていた気がなかった時の脳の痛手もなく、以前のままの太夫だった。

「春乃ねえさん、もう御隠居様の事なんか考えずに銀次どんと幸せになれるんでありんす!」

「相州屋で客を取らなくても良いんでありんすよ!」

春乃太夫も黙ったまま涙を流して頷いた。


「不思議なもんでありんす。あちきはここにこうしておりやんすけど、もう相州屋の春乃太夫は居ない。その代わりにただのお幸という一人の女がここにいるんでありんす。長く眠っていた間にあちきの身の上がこうも変わってしまうとは…。ほんに世にも奇妙な事で(しょ)う。」

「お幸、もう何も心配いらない。相州屋はもうお前を遊女として雇う事はできねぇ。番所に自分の痛い腹を探られる事になるからな。他の男も、ましてや添島様の御隠居もお前に指一本触れる事はできねぇ。お前は俺の女房だ。」

「お前さん。」

お幸は銀次の肩に顔を寄せて何度も泣きながら頷いた。


その様子を見ながら朴庵先生は言った。

「これから毎日少しづつ粥を食べて身体に力をつける事じゃな。その内歩く練習もすると良い。まだ若いんじゃから快復も早いだろうて。」

「朴庵先生、ありがとうございます。先生のお陰でおいら達は…。」

「いやいや、これも医者のつとめじゃて。この吉原じゃ女子おなごが悲惨な目に遭いすぎる。折檻もするなとわしは言いたいのじゃがの。忘八どもは聞く耳持たん。わしの様な者さえ疎ましく思う人間も居るほどじゃ。わしが居なくなったらあとを継いでくれる者は居るだろうか?そればかりが心配じゃ。」


朴庵先生は溜息まじりにつぶやいたが、話題を変えて二人に尋ねた。

「それよりお前さん達はこれからどうするつもりじゃ?」

「実はおいらは会所を辞めてから芝で大工の棟梁の世話になっておりやした。知人のつてで紹介して貰ったんでやすが、そこで見習いの大工として働いておりやした。棟梁が随分とおいらを可愛がってくれやして、お幸の事を話したら早く女房として連れて来てやれと…。」

「ほう。」


「江戸で大工の夫婦として暮らすのも良いんでやんすが、棟梁のさとで跡取りの兄さんが亡くなったそうで。その兄さんは病弱で妻も子も無く、棟梁は親御さんからさとに帰って家を継げと言われて困っておりやした。棟梁は芝で大工の元締めをしておりやす。大勢の子分の大工達を見捨てて、とてもじゃねぇけどさとには帰ぇれねぇと…。しかし棟梁のさとの家も古くから続くしっかりとした地主で跡取りが居ねぇと困るんだと。棟梁が駄目なら生まれたばかりの棟梁の一人息子を養子にと。棟梁の所もやっと生まれたお子で、とんでもねぇと断りやした。それで棟梁はあっしらに夫婦でさとの家の養子に入ってくれねぇかと…。」


「それはまたな事じゃな。さとには他に縁者はおらんのか?」

「へぇ、何でも親類筋の分家の家が何年か前の大雨の災害で山崩れに遭って一家丸ごとみんな死んでしまって…。今は年老いた棟梁の親御さんが二人だけになってしまったそうなんで…。」

「そういう事か。」

「俺らもお幸の身元が亡くなった事になっている以上、江戸で暮らすのは何かと面倒な事が出て来るんじゃないかと棟梁も言うもんで、この話しをお幸にもして、お受けする事にしたんでやす。」

「そうか。先方の棟梁の親御さん達も承知したのかい?」


「はい。棟梁が江戸で沢山の大工を抱える大物になっている事を説明した所、子分の大工達を見捨てる事はお天道様が許さねぇ、人道に背く事だとさとの親御さんも言ったそうで。かと言って地主の家を無くす事も出来ねぇと困っておりやした。そこでおいら達の話しを持ちかけたら是非にと…。」

「ほう。」

「お幸の身の上に痛く同情してくれて、見目麗しい嫁御が出来ると喜んでいるとの事でやす。」

「それは何よりじゃ。江戸の地を離れれば身元なんぞどうとでもなる。吉原と違って女子おなごはそううるさくもいわれまいて。それじゃあお前さんたちはこれからはその棟梁さんのさとでのんびり幸せに暮らす事じゃな。」

「はい。」

「その内お前さん達も子宝に恵まれるじゃろうて。棟梁の親御さん達を本当の親と思って尽くすと良い。苦労はするかも知れんがの。」

「先生、吉原での苦労に比べたら他のどんな事でも、あちきにはこれ以上の辛い事はありんせんから、何の苦でもありんせん。」

お幸は晴々とした笑顔で言った。


「これから身体を元に戻して早く銀次さんと旅立ちたい。お前達ともう会えなくなるのは辛いけど…。今までありがとうね、お前達も身体に気をつけて頑張りよ。」

「あい。」

お幸はかえでとふじ枝の頭を交互に撫でながら言った。

くるわ言葉も早く忘れるようにしないといけないでありんすね。普通のおかみさんが話すような話し方に直さないといけないでありんす。」

お幸の頬をほころばせた話しようにみなは一緒に笑顔になった。


やがてひと月も経った頃、お幸はすっかりと元気になって朴庵先生の庵の掃除や片付けを細々とするまでに回復した。

朴庵先生の庵を出発する日も近い。


お幸は相州屋で気を無くして朴庵先生の庵で目覚めてから一度も吉原の町へは戻っていなかった。

今日もかえでとふじ枝はお登喜おばさんの目を盗んでお幸に会いに朴庵先生の庵に遊びに来ていた。

大旦那はそれを見て見ぬふりをしている。


かえでとふじ枝はこれからもお幸と文のやり取りをする約束をした。

ねえさん、あっちらの事いつまでも忘れんでおくれやんす。」

かえでがそう言うとふじ枝がすかさず言った。

「バカやねぇ、ねえさんは吉原の事は早く忘れた方が良いんでやんすよ。」

するとお幸は微笑みながら言った。

「お前達の事はいつまでも忘れないよ。あたしの可愛い妹達だもの、吉原の事は早く忘れたいと思うけど。二人ともあたしの門出を祝ってちょうだいね。」

ねえさぁん!」

二人はお幸に抱きついて泣き出した。


そしてお幸と銀次の出発の日がやって来た。

身仕度をした銀次は前の晩からお幸の元にやって来て日の明くるのを待った。

朝の日が明け始めた頃、二人は旅仕度を整えて朴庵先生の庵の戸の前に立った。


お幸はお歯黒どぶの向こうにそびえる吉原の町を深い思いを込めて見つめた。

かえで達のようにお幸も十になる前に吉原に売られて来た。

それ以来ずっと吉原で暮らして来た。

それが自分に与えられた場所だと思い…。


今日もあの町で春をひさぐ女達の一日が始まる。

この町に何千といる女達の哀しみは何処へ吸いとられて行くのか?

それとも何処へも行き場もなくこの町にどす黒く渦巻いて溜まっていくだけなのか?

この奇妙な町は何故こうも凛然としてここに存在しているのか?


「大門を正々堂々とくぐって出してやる事は出来ねぇけど、ここだって吉原の外だ。お前は少しも後ろ暗ぇ思いをする事ぁねぇ。」

「はい、お前さん。あたしは本当に幸せ者です。」


朴庵先生も起き出して来た。

「いよいよじゃな。二人ともどこも身体は悪くないな。」

「へぇ、先生。本当にありがとうございやした。」

「先生には何度お礼を言っても足りないほどです。」

「うむ。二人とも息災で暮らせよ。たまには手紙でもよこせ。」

「はい。向こうで落ち着いたら。」


「それにしてもあのチビ共は遅いのお。二人の出発を見送ると張り切っておったのに。」

「昨日のお座敷でも長引いてまだ寝ているのやも知れません。まだ子供ですもの。」


三人はしばらくかえでとふじ枝が来るのを待ったが、そう長くも待っていられない。

「じゃあ、そろそろ行こうか。待っていても仕方ねぇ。日が暮れるまでに峠を越えなきゃならねぇ。」

「…そうだね。お前さん。」

お幸は残念そうに言った。


お幸と銀次は朴庵先生に深々と礼をすると庵を後にして歩き出した。

田んぼのあぜ道を歩いて吉原大門に続く土手に上がると、背後から二人の名を呼ぶ声がする。

振り向くと大門の下に小さなかえでとふじ枝が手を振っているのが見えた。


お幸は大きく手を振った。

「あさ~ん!」

「元気でね~!文を書くから~!」

「かえで!ふじ枝!元気で!」


見返り柳が風に揺れて二人の姿を隠したり見せたりする。

お幸と銀次は何度も振り返りながら手を振った。

そうしてだんだんと姿が小さくなる。


かえでとふじ枝は大門の下で二人が見えなくなるまで手を振り続けた。

春乃太夫の命をかけた恋も今回で一段落です。

春乃太夫との出来事は幼いかえでとふじ枝に忘れ得ぬ思い出として残りました。

春乃太夫は類いまれなる奇縁にて吉原を出る事が出来ましたが、殆どの遊女は籠の鳥と揶揄して自らを苛んだのです。

何故吉原という巨城が存在得たのか?春乃太夫は最後に疑問を投げ掛けました。

その疑問は現代までも続いて私達に答えを求めています。

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