春乃太夫の命をかけた恋 その十『春時雨』
次の日の昼見世が終わった後、かえでとふじ枝は二人で千羽屋の手代に文を渡しに行く事にしました。
二人の願いを確実に銀次に聞き届けて欲しかったからです。
銀次は来てくれるのでしょうか?
次の日、昼見世が終わった時刻に千羽屋の手代が来るので文を渡しに行くとふじ枝はかえでに話した。
するとかえでは自分も一緒に行きたいと言った。
「わっちらが二人で千羽屋の手代にお願いした方が、願いが強くなると思うんよ。必ず銀次どんにわっちらの文を渡して欲しいって願いが。それにわっちもこの思いを遂げたい。」
「うん、わかった。二人で渡しに行こう。」
ふじ枝は言った。
かえでとふじ枝は二人で行動すると人目につくと思ってはいたが、実は春乃太夫が死んでおらず、目を覚まさないで眠ったままでいる事がたとえ人に知られても、最早誰も咎める者は居ないだろうと確信していた。
そして二人が相州屋に戻っている間の春乃太夫の様子見は、朴庵先生の庵の掃除をしている年老いた下男夫婦に頼んだ。
相州屋に戻るとかえでとふじ枝はすぐに安曇と鷺ノを見つけて側に寄った。
すると目敏く二人を見つけた遊女が早速ちゃちゃを入れてきた。
「アレ、近頃トンと姿を見なかったけど二人共何してたんだい?またぞろ二人で引っ付いて何かやらかそうってんじゃないだろうねぇ。」
二人は遊女達にからかわれて笑われてしまった。
「ナンにもありゃせん。わっちらは仲よしなだけでありんす。」
「オヤオヤ。」
やがて相州屋の店の上がり口に商人や小間物屋が商売をしにちらほらと集まって来る。
かえでとふじ枝も店の上がり框にちんまりと座って千羽屋の手代が来るのを待った。
商品を頼んでいた遊女に取り次ぎを頼む者や持ってきた品々を広げて売り込みをかける商人達で店先はたちまち賑やかになる。
「千羽屋さんはまだかねぇ。」
「そうだねぇ。」
二人はじりじりとして待った。
すると見覚えのある男が見世にやって来た。
「あ、アノ人が千羽屋さんと違う?」
「うん、多分そうだね。」
二人はすぐにも千羽屋の手代に文を渡したかったが、我慢して待った。
「商売の邪魔をしちゃいかんもんね。」
「千羽屋さんの用が済んだら声をかけよう。」
鷺ノが頼んでいた花簪を渡されて嬉しそうにしている。
「きれいやね。」
「そうだねぇ。」
それは手の込んだ造りの美しい簪だった。
その内に千羽屋の手代は商売を終えたようで品物をしまって帰る準備を始めた。
「あ、帰るよ。」
「うん。」
遊女達に軽く挨拶をして千羽屋の手代は見世を出ようとした。
その時にかえでとふじ枝はあわてて草履を履いて後を追った。
「待って!待って。」
ふじ枝は千羽屋の手代に声をかけて呼び止めた。
「おや、お前ぇさん達は春乃太夫の禿だったおチビさん達だね。何ぞあっしに用でも?」
かえでは大きく頷いて手代の袖の裾を握った。
「今、あ姐さん達に聞いたけど、春乃姐さんは可哀想な事に急に死んだんだってね。お前達もさぞ寂しかろう。」
千羽屋の手代はそう言った。
「ううん!ううん!」
二人は首を振って答えた。
「違う、違う。死んでなんかない。」
「そう、生きてるんよ。」
「えぇ!」
手代は驚いて立ち尽くした。
「何を言ってるんだい?お前さん達は。」
「あんた、銀次どんの文持ってきてくれたろう?」
「ああ、前にね。」
「また渡して!」
「渡してって誰に?今度は銀次にかい?」
「そう。」
「春乃姐さんが生きてるって。添島の御隠居さんの所になんか行ってなくて、生きて銀次どんを待ってるって。」
「ちょっと待っておくれ、話がよく分からないよ。」
「この文に書いてあるから。」
ふじ枝は二人で書いた文を手代に渡した。
「この文を銀次に渡せば分かるのかい?」
「そう、渡して。」
「銀次どんに早く来てって言って。」
「来てってどこに?相州屋かい。」
「朴庵先生の家!」
「朴庵先生って、じゃあ春乃太夫が生きてるっていうのは…。」
「本当の事!みんなは知らん事!」
「春乃太夫はどこぞ怪我でも?」
「ううん、怪我はないんだけど…。眠ったまま起きない。」
二人は千羽屋の手代に事のなり行きを話した。
「そうかぁ、わたしが託した銀次の文はあの後、そんな事になってしまったのか…。これはわたしにも少からず責任があるなぁ。よし!お前達の文は必ず今日中に銀次に渡すよ。二人共よく頑張ったな。」
手代のその言葉を聞いて二人ははじめて涙をこぼした。
まだ十一歳の少女が背負うには大きすぎる秘密と難題を今まで二人で担ってきたのだ。
その緊張と重責が溶けた様に感じて二人は泣いてしまったのだ。
これで銀次が来てくれる。
二人は肩の荷が降りたかの様な気分だった。
千羽屋の手代は二人が書いた銀次への手紙を胸に、必ず渡すと約束して江戸の店へと帰って行った。
「大丈夫、きっと銀次どんが来れば春乃姐さんも気がついてくれる。」
「そうだね。やっと姐さんと銀次どんが二人で逢えるんだもん、きっと起きてくれる。」
それからすぐに二人は春乃太夫の元に帰った。
そしてその日の夕方、春時雨が降る中、待ち人はやって来た。
朴庵先生の庵の戸を開いて銀次はやって来た。
「お幸!お幸!お前なんだってこんな…!」
布団に寝かされている春乃太夫を見て、銀次は呆然として言った。
「おいらの文がお前をこんなにしちまったのか。お幸、お前の事も考えず一人勝手にしてすまねぇ。」
春乃太夫の身体を揺すりながら銀次は言った。
「銀次どん…。」
かえではつぶやいた。
そこへ朴庵先生が帰ってきた。
「おお、これはやっと亭主がやって来たか。」
「先生、お幸は目覚めるんでやんすか?」
「分からんな。わしも初めての患者じゃからの。」
「お幸!おいらがお前をこんなにしちまった様なもんだ。詫びても詫びても足りねぇが。」
「そうじゃな。今はもうせんがない事じゃ。これからが山じゃ。お前がしっかりせんと、帰って来るもんも帰ってこんじゃろて。」
「おい、起きろお幸!起きてくれ。頼むお願いだ。」
取り乱す銀次を朴庵先生は叱りつけた。
「お前がそんなんでどうする!このチビ二人の方がずっとしっかりしておるぞ。お前が現れるまでこの二人がどんなに懸命に春乃太夫の面倒を見てきたか。お前も見習ってしっかりせい。」
「…ああ、すまねぇ二人共。」
「この二人はな信じておるんじゃよ。春乃太夫は帰って来ると。」
銀次は春乃太夫の枕元に並んで座るかえでとふじ枝を見た。
「春乃太夫はこうなってもう二日目じゃ。死ぬ運命ならとっくに青白く固くなっている頃じゃろうて。しかし見てみい、この肌の色つやといい頬の赤みといい、まるで寝ているだけのようじゃ。脈もあるし息もしておる。これを見て諦められるはずもなかろう。」
「そうだな。本当に眠っているだけのようだ。お前達はずっとお幸の世話をしてくれてたんだな。」
「あい。身体を拭いて髪をとかして着物を替えて。薬湯とお水飲ませて。」
「ありがとう、ありがとう。」
銀次は男泣きに泣いた。
「あとね、銀次どん、毎日話しかけて名前を呼んで、耳元で歌を歌ってたんよ。」
「春乃姐さんには聞こえてないんだろうけど、少しね笑った様な気がした時もあった。」
「話しかけて名前を呼ぶのが良いのか…。」
「昔から“たま呼び”いうてな、ある地方では死んだ者の魂返せって屋根に上って枡を叩きながら天に向かって叫ぶ風習がある。それでごくたまに死人が息を吹き返す事があるんじゃ。恐らく一時的に仮死状態に陥った者が息を吹き返したんじゃろう。春乃太夫もそれに近い。まぁ、春乃の“たま呼び”はそれの真似事じゃがの。三途の川渡りかけとる死人に戻って来いとこっち側から呼び戻すんじゃ。」
「お幸、戻って来い。俺は来たぞ。お前を迎えに来たぞ。迷わず早くこっちに来い。」
銀次は春乃太夫に話しかけた。
「もう何も心配はいらねえ。俺達の事を誰に憚れる事もねえ。だから戻って来い。」
「春乃姐さん!銀次どん呼んで来たでやんす。かえでと二人で、どうしても姐さんに帰って来て欲しくて!」
「姐さん!銀次どんと幸せになりたい言うとったでないでやんすか!だからあっちら負けないで頑張りんしたえ。」
春乃太夫の絞められた首の痕はもうすっかり消えてなくなっていた。
太夫は安らかな眠りの中で漂っている様だった。
「脈も力強くなっているし、呼吸も深くなっておる。心の臓の音もしっかり聞こえる。水や薬湯も飲み込む事が出来る。後は呼気が無かった間に脳がどれだけ痛手を受けたかじゃ。大した事がないに越した事はないが。」
銀次とかえでとふじ枝は一晩中春乃太夫に呼掛け、身体をさすって刺激を与えたりした。
次の日も、次の日も…。
銀次は朴庵先生の庵に泊まり込み、春乃太夫の隣に布団を敷いて二人で並んで眠った。
かえでとふじ枝は相州屋に帰り、春乃太夫の世話は銀次が一人でする事になった。
銀次が来たからには、さすがに引込禿の二人をこれ以上吉原の外の朴庵先生の庵に留まらせておく訳にはいかないと大旦那が向かえに来たのだ。
かえでとふじ枝は後ろ髪引かれる思いで朴庵先生の庵を後にした。
春乃太夫は目覚めるのを拒んでいるかの様にも見えた。
目覚めても遊女に戻るだけであり、或いは御隠居の妾になる事からも逃げ出したいと思っているのかも知れない。
それほどまで春乃太夫は一人追い詰められ思い悩んでいたのだ。
しかしもうその心配は必要ないのだと誰が眠ったままの春乃太夫に教える事が出来よう。
世話をする銀次も日に日にやつれて行った。
ある日、世話に疲れた銀次は寝ている春乃太夫に涙を流しながら話しかけた。
「お幸、おいらは信じてる。たとえお前がこのまま目が覚める事がなくても、おいらはお前を連れて江戸の町に帰る。狭い長屋住いだが、そこで二人で死ぬまで一緒に暮らそう。」
その内に銀次は春乃太夫の胸の上に覆い被さる様に倒れ込んでつい眠ってしまった。
今までは赤子に触れる様に大事に大事に春乃太夫の世話をしていたが、さすがに心身共に疲労が蓄積していたのだろう。
銀次の体重が春乃太夫の胸の上にかかり息が苦しくなったのだろうか、春乃太夫の右腕が微かに動いた。
銀次はそれに気がつかず倒れ込んだまま寝入ってしまっている。
春乃太夫の身体が微妙に左右に揺れ明らかに銀次の重みから逃れようとしていた。
その動きで銀次はやっと目を覚ました。
「お幸?お前、今動いたか?」
春乃太夫は眉間にしわを寄せ、確実に銀次の声を聞こうとしている。
「お幸?」
銀次は春乃太夫の頬に手を当てた。
「お幸?聞こえるか?俺だ、銀次だ。」
「うう…ん。」
初めて春乃太夫の口から声がこぼれた。
「お幸!気がついたか?俺が分かるか?銀次だ。」
春乃太夫はうっすらと目を開けた。
「お、お前…さ…ん?」
「そうだ!俺だ、銀次だ!」
「ぎ、銀…次…さん。」
「そうだ!お幸!気がついたか。」
春乃太夫はしっかりと銀次の顔を見た。
「あっちは…、どうして…。お前さん…、どうして、ここに?」
「ああ、無理するな。もう何も心配する事ぁねぇんだ。」
銀次は春乃太夫の額の汗を手拭いで拭いた。
春乃太夫の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「お前さん…、あっちは…辛くて、哀しくて、苦しくて、耐えられんかった…。だから…、イッソもう、どうなっても…、いいと…。」
「もう何も言うな。もう何も心配ないんだ。おいらがこれからはずっとお前の側に居る。」
春乃太夫は大きく頷きながら、瞳からは涙が止めどなく流れた。
かえでとふじ枝、朴庵先生、そして銀次の強い熱意で、春乃太夫は向こう岸に渡る事なくやっと気を取り戻す事が出来ました。
もう二人を引き裂くものは何もありません。
かえでとふじ枝もどんなにか喜んだ事でしょう。
「たま呼び」の儀式は実際に明治時代の中頃まで行われていた風習だそうです。
屋根の上で名前を呼ぶ事と意識を取り戻す事に因果関係はありませんが、魂は宙をさ迷いやがて天に召されると信じていた当時の人々には、重要な意味があったのだと思われます。
仮死状態と本当の死亡状態の区別は当時では判断がつけ難くこの様なおとぎ話みたいな事があれば、人々と摩訶不思議な世界の境界線はより身近なものと考えられたのも当然の事だったのかも知れませんね。(*^_^*)