春乃太夫の命をかけた恋 その九『春温む濁り水』
春乃太夫が死んでしまったのは自分のせいだと悩んでいる安曇と話している内に、すっかり心を許してしまったふじ枝は安曇の遊女としての生き方への疑問に同調して不安感を抱いてしまいます。
一方、朴庵先生が提案する春乃太夫への滋養強壮の方法についてあまりに驚く事ばかりで、唖然とする二人なのでした。
ふじ枝と安曇はお歯黒どぶの板塀の脇にしゃがんで話を始めた。
路地の手前には会所の男が二人を見張っていた。
お歯黒どぶからの安曇の足抜けを疑っての事だ。
「あの日あっちは春乃姐さんに言われて小間物屋の手代から銀次の文を受け取ったんでやんすよ。手代からは誰にも分からない様に内緒で春乃太夫に渡してくれって言われてね。」
(間に入ってたのは小間物屋の手代だったのか。)
ふじ枝は思った。
「小間物屋って相州屋の贔屓筋の?」
「ああ、千羽屋さ。だけど春乃姐さんは添島様の御隠居の身請けを受ける身。あの文が誰にも知られちゃならねぇモンだってぐれぇはあっちにだってすぐに分かったさ。だけどその時あっちの傍に一枚上手の奴が居たんでやんすよ。」
「一枚上手?」
「先だって近頃威勢のいい稲本屋に見世変えしたうちの端女郎が居たろう?あいつは稲本屋の手先だったのさ。あいつはあっちの手から銀次の文を素早く奪って中を開いて読んじまったんでやんす。それで銀次が春乃姐さんの身請け後に二人で駆け落ちする算段だって知ってみんなに広めちまった。それを御隠居に知られて…。」
「じゃああの端女郎が急に稲本屋に見世変えしたのは…。」
「取引をしたんでやんしょう。この相州屋じゃあ出世の糸口が掴めねぇ。だけど中見世の稲本屋だったら端女郎どころか太夫にだってなれるかもしんねぇ。」
「取引…。」
「稲本屋の旦那はうちの大旦那が千両の身請け話と引き換えに春乃姐さんの銀次との色恋沙汰を終いにするやり方が気に入らなかったのさ。見世のみんなが太夫が御法度の相手との本気の情にうつつをぬかしてるって不満に思ってるのを知って、うちの大旦那は春乃姐さんの銀次との本気の情のカタをつけなきゃならん事態になった。そこへ来て御隠居の千両の身請け話さ。」
安曇は小石をお歯黒どぶに投げ込んだ。
ポチャンと鈍い音がして流れない濁った水の中に小石は沈んで行った。
「こうなったら言っちまうけど、御隠居は身請けするのは春乃姐さんでなくとも良かった。趣味の骨董集めとおんなじ様に吉原の太夫を妾にしたかったのさ。だけど御隠居のあの気性じゃどこの見世の太夫も嫌がって断ってた。だから御隠居は身請け金を千両につり上げて二の足踏んでる見世の旦那衆をけしかけたんだ。」
安曇は胸の内に収めていたものを吐き出すように喋り続けた。
「それに食い付いたのがうちの大旦那さ。春乃姐さんに御隠居との身請け話を受けさせる事で銀次との色恋沙汰も無しにして、心機一転、御隠居の妾になって新しい人生を歩めってね。それで相州屋は掟破りの太夫が居なくなって丸く収まるし千両の金も転がり込むって算段さ。何より見世の看板太夫が御法度の色恋沙汰に本気の情をかたぶけているなんざ、見世の評判に傷が付くってもんさ。大旦那が遊女達の躾も出来ないなんて恥だからね。」
「だからって春乃姐さんの辛い立場を利用するなんてひどい。」
「千両って大金に目が眩んだんだろ。もっとも奴らは忘八さ。金の為なら何だってやるさ。稲本屋の旦那だっておんなじさ。黙って見ているのが面白くなくてぶち壊してやろうとしたんだろ。だけど春乃姐さんが死んじまうなんて事は思ってなかったはずさ。せいぜいうちの大旦那に恥をかかせて、相州屋の格を下げてやろうって魂胆だったんだろう。」
「それでうちのあの端女郎のあ姐さんと手を結んで?」
「あいつはしたたかな女さ。自分がのしあがるためには何だってやる女さ。お前はまだ子供だから分からないだろうけど、こんな掃き溜めみたいな悪所に一生閉じ込められて悲惨に終わるなんざ、ぜってぇに嫌だって心に誓う女なんてごまんと居る。それを実行するかどうかは別だけどね。」
ふじ枝はさすがに恐ろしくなって口をつげなくなった。
「あんたはまだ子供だからね。遊女って仕事の悲惨さをまだ知らねぇ。客を取るようになったらよぅく分かるよ。あっちも水揚げを済ませたばかりだけど、……。」
安曇は黙り込んだ。
そして今度はしんみりと話し出した。
「…こんな事が金になるなんてね。因果なもんだ。誰が初めに考げぇ出したんだろうねぇ、こんな商売。あっちら、こんな事してたら頭おかしくなっちまうよ。」
「こんな事…。」
「お前もその内分かるようになるよ。」
安曇は立ち上がって話を切り上げようとした。
「…あ、あ姐さん、千羽屋の手代にはどうしたら会えるんでやんすか?」
「明日の昼見世の開けた後、見世に来るよ。品見せの為にね。」
「明日には会えるんでやんすね!」
「多分な。先だって鷺ノが良い造りの花簪頼んでたから、その刻限になったらそいつを持って来るさ。」
相州屋の贔屓筋の千羽屋は江戸でも一番と言って良い程、優れた飾り職人を揃えた名店だった。
相州屋の太夫や格子達はみな競いあって千羽屋の小間物を買い揃えていた。
かえでやふじ枝が春乃太夫の道中に従う時の櫛や簪、匂袋や末広も春乃太夫が特別に千羽屋に仕立てさせた物だった。
春乃太夫は禿や振袖新造に身に付けさせる物も立派な良い物を、と決して人ざまに馬鹿にされる様な事をさせない優しい女だった。
ふじ枝は急いで朴庵先生の庵に帰った。
春乃太夫とかえでが待っている。
しかしその間にふじ枝の頭の中には安曇の言った言葉が残って離れなかった。
─こんな掃き溜めみたいな所で一生閉じ込められて。こんな事して金になる─
(そうか、考げぇた事もなかった。あっちもこれからあ姐さん達みたいに金を稼ぐ事になるんだ…。)
ふじ枝はませた娘だったが現実的な遊女の仕事について考えた事がなかった。
今まで先輩の遊女達に興味本意で大人の色事について話を聞いていた自分が愚かしく思えて、恥ずかしくてならなかった。
商売として自分の身体を見も知らぬ、ましてや情もない男に金と引き換えに差し出すこと。
それがどれ程屈辱的な事か、頭の賢いふじ枝には将来耐えられるか、不安にしか思えなかった。
それは普段から行動派で気の強いふじ枝が初めて感じた不安だった。
朴庵先生の母屋に着くとかえでが待っていた。
「おかえり。」
「ただいま。」
「…どうかした?何も分からなかったんでやんすか?」
「え?なんで?」
「だって、ふじ枝やん、なんやら心配そうな顔して。」
「まいったなぁ。かえでやんは感が鋭いからすぐ分かってしまう。」
「何?分からんかったの?」
「いや、分かったよ!銀次どんの手紙を持って来たのは千羽屋の手代だって。明日の昼見世が終わった頃には来るって。」
「本当!だったらこのわっちらが書いた文を銀次どんに渡してくれって千羽屋の手代に頼めばいいね。」
「そうさ!」
そこへ朴庵先生が部屋に入って来た。
「どれ、春乃太夫の具合はどうかの?」
朴庵先生は春乃太夫の脈を診たり心音を聞いたりしていた。
「ふむ。あまり変わりはないが、首に付いとった絞められた痕が消えて行っているようじゃな。」
「先生、それは春乃姐さんが良くなっているってぇ証拠ですかえ?」
「何とも言えんが、悪くなっているなら今こんなきれいな顔はしとらんな。」
朴庵先生は笑いながら言った。
そして持って来た小さな包みを解いて中から小さな茶壺を出した。
「何ですかい?これは?」
「これはな、蜂の蜜じゃ。」
「ハチのミツ~?」
二人は気味悪がって覗き込んだ首を引っ込めた。
「何じゃ、二人とも田舎の出なのに蜂の蜜も知らんのか?」
「ハチは知っておるけんど、刺されたらまんず大変なこって!」
「んだ!んだ!死人が出る!」
「そうか、山に入る者じゃないと分からんか。これはな雄の蜂が花の蜜をせっせと集めて巣に一匹だけおる雌蜂と卵の為に巣の中に溜め込んで出来た物じゃ。」
「元々は花の蜜なのかい?」
「そうじゃ。この蜂蜜も滋養があってな、身体の中に出来た腫れ物にも効くらしい。」
朴庵先生は茶壺に匙を入れて蜂蜜を少し取り出して見せた。
蜂蜜は黄金色の艶やかな輝きを放っていた。
「うわぁ!きれい!」
二人は声を揃えて言った。
「素晴らしい色じゃろ。味もな、甘ーくて美味しいんじゃ。食べてみるか?」
「嫌じゃ、嫌じゃ!虫の集めたモンなんて!きび悪い。」
ふじ枝は眉をひそめて身体を放した。
「何じゃ、ふじ枝は、意気地がないのぉ。かえではどうじゃ?」
「あっち、食べてみたい!」
「ほぉ、そうか。」
朴庵先生は匙から蜂蜜を小皿に垂らしてかえでに差し出した。
「舐めてごらん。」
かえでは舌で蜂蜜を舐めてみた。
「甘ーい!美味しい。」
今までに口にした事のない強い甘さにかえでは驚いた。
「あっちら甘いモンなんて干し柿しか食べた事ないけんど、この蜂蜜っちゅうモンは比べようもないくらい甘いね!」
「じゃろう?」
「それにこんなにトロトロしてるのが不思議やん!こんなモンがあったなんてあっち知らんかったわ。」
ふじ枝は未だに眉をしかめてかえでを見ている。
「蜂の雄が集めたモンよ?かえでやんはよく平気やね。」
「まぁ、ふじ枝がそう言うのも普通じゃな。かえでは慎重なくせに好奇心は旺盛の怖いものなしじゃ。」
朴庵先生は笑って言った。
「朴庵先生、こんなモンどこで?」
「まず我々庶民には縁遠い物じゃな。偉い殿さん達は滋養に効くゆうて昔から食べとった。貴重な物での。山に暮らす者が何年かに一度時折町に売りに来る。売るゆうても薬問屋にじゃが、滅多に手に入らん。高価な物じゃし。だが春乃太夫の事を話して薬問屋が奥にしまっておったのをこっそり分けて貰ったんじゃ。」
「ふぅん。」
「そうじゃ!その内牛の乳も近くの百姓の家で分けて貰おう!」
「う~し~の~ち~ちぃ~!?」
二人は驚いて大声で声を揃えて言った。
「先生は春乃姐さんを殺す気ですありんすか!」
「そうでやんす!あっちらはおっかさんの乳しか飲めないでやんす!それを四つ足の牛の乳~?」
「落ち着け、二人とも。そうか二人とも貧しい農家の家の出じゃったな。雌牛を飼っている農家じゃ、滋養の為に妊産婦に牛の乳を飲ませる事もあるんじゃよ。牛の乳には身体の栄養になる物が沢山含まれておるんじゃ。」
「牛の乳なんか飲んだら春乃姐さん目が覚めた時、牛になってしまうんやないの!?」
「いややぁ、獣と同じやない!牛の乳ぃ~!」
「これこれ。落ち着け、騒ぐでない。牛の乳を飲んだ母親は乳の出も良く、赤子も丈夫に育つそうじゃ。じゃから雌牛を持っている農家の近隣の家も嫁さんに赤子が出来ると毎日牛の乳を貰いに行くそうじゃ。」
「毎日!雌牛は毎日乳を出すんですかい?」
「ああ、健康に育った雌牛ならなぁ。」
「牛の乳はあっちら人も飲めるモンなんですかい?」
「雌牛から絞った後に火にくべて沸かすんじゃ。そうすると雑菌もとれてこれまた甘くて良い匂いのたまらん味じゃ。」
「先生も飲んだ事あるんですかい?」
「ああ、一度飲ませて貰うた事がある。」
「えっ!?何で?」
「いや、産婆がたまたま留守の時に産気づいた若い農家の嫁さんの児の取り上げに呼ばれたんじゃ。その時に飲んだんじゃよ。あれは旨かった。」
「げ~~!」
「何じゃ二人して。」
(ゲテモノ~!)と二人は朴庵先生の事を思った。
「じゃから先生んとこ嫁さん来んのよ。」
「ホンにホンに。」
「嫁さんなんぞ貰うてる暇なんぞないわい。吉原に居ると忙しうてな。」
朴庵先生は吉原の中にいる唯一の医者だった。
多くの女郎屋では遊女が具合が悪くなっても燈籠部屋に寝かせているだけで医者にも診せなかった。
それは端の女郎屋になるほど顕著な傾向だった。
朴庵先生は診療所で毎日患者を診ながら、そういう女郎屋を廻って病人はいないかと訊ね歩いていた。
そして夜になると脇のお歯黒どぶに唯一架かる小板の橋を渡って自宅の庵に帰る毎日を送っていた。
その庵の母屋に今春乃太夫は寝かされていたのだ。
静かな寝息を立てて。
行動派のふじ枝は銀次の文使いをした人物の捜索を買って出ましたが、先輩の振袖新造、安曇の話を聞く内に全く別の悩み事を抱える様になってしまいました。
大人の入り口にさしかかったふじ枝ですが、春乃太夫の気の強壮の為の蜂蜜も牛乳もまるで受け付けられません。
しかし好奇心が旺盛なかえでは興味深々です。
やはりかえではまだ子供なのでしょうか?ウフフ…。(#^.^#)