春乃太夫の命をかけた恋 その八『春霞』
かえでとふじ枝は目覚めない春乃太夫の世話をする役目を担う事になりました。意識がなくとも春乃太夫の傍に居られる事が二人には嬉しくてたまりませんでした。
二人は思い付きます。
春乃太夫を目覚めさせる為にも銀次を呼んで来ようと。
でも銀次がどこにいるのか分かりません。
どうしたら銀次と連絡が取れるのか二人は奮闘します。
春乃太夫が生きたまま気のない状態になってしまった事を大旦那から聞いた時、かえでとふじ枝は大きな衝撃を受けて言葉も出なかった。
「どうして春乃姐さんがそんな事になったんでやんすか?」
やっとの事でふじ枝が口を開くと大旦那は事の成り行きを二人に説明した。
「…だからお前ぇ達はこれから三日三晩春乃の世話をしなきゃならねえ。いいか、春乃の事は誰にも知られちゃならねえ。心の臓の病で急に死んだと番所に届けるんだからな。」
「あい。」
二人は神妙な面持ちで大旦那の言い付けを聞いていた。
「添島様の身請け話が流れたのは春乃が急に死んだせいにするんだ。決して銀次との本気の情けの事がばれて殺されたなんて知られちゃならねぇ。二人が身請け後に駆け落ちするつもりを知った上で俺らが千両の身請け話を受けたなんざ絶対に知られちゃならねぇ。」
「あい。」
二人はそれから朴庵先生の母屋に向かった。
春乃太夫は座敷に敷かれた布団の中に寝かされていた。
頬は赤く、肌の血色も良く、唇は今にも何か言葉を発しそうな気がするほど艶やかだった。
「春乃姐さん、本当に寝てるだけみたい。明日には目覚めてあっちらに優しく話しかけてくれる様な気がしやんす。」
ふじ枝はかえでに話しかけた。
かえではただ涙が溢れて止まらなかった。
「泣いてちゃ駄目だよ、かえでやん!あっちらが姐さんの気を取り戻すんだ!」
「うん、うん。」
かえでは涙を拭いながら大きく頷いた。
すると朴庵先生が座敷に入って来た。
「おお、お前達来てくれたか。」
「あい。」
「いいか、お前達は交代で一日中春乃太夫の様子を見るんじゃ。わしの処方した薬と滋養の付く高麗人参、山菜、サンシュユ等々を細かくすり潰した物が入った薬湯を一日三回飲ませる事。身体は毎日湯を浸した手拭いで拭いてやる事。」
「あい。」
「それから、お前達は引込だから文字は確かなものが書けるな。」
「あい。」
「この手帳に毎刻、春乃の様子を書き留めるんじゃ。何も変わりが無くともよい。必ず何かを記す事。」
「あい。」
朴庵先生から指示を受け、二人は俄然やる気を燃やした。
「ふじ枝やん、あっちは春乃姐さんが必ず目を開けるって信じてる。」
「うん!」
「そのためだったら、あっちは何でもしやんす。」
「あっちだってそうさ。」
「気張らんとね!あっちら。」
「うん!」
「でもまた春乃姐さんの傍に居られるなんて嬉しい。」
「そうでありんすね。」
二人は無理矢理離されてしまった大好きな春乃太夫の世話が再び出来る事を、心の底から喜んでいた。
それから春乃太夫の命を取り戻す二人の格闘が始まった。
二人は朴庵先生に言われた通り、煎じ薬と滋養の付く山野草を細かくすり潰した薬湯を寝ている春乃太夫に飲ませた。
煎じ薬と薬湯は春乃太夫の喉を通って臓腑に入って行くのが分かった。
「生きてる!生きてるんよ!姐さん!」
かえでは思わず興奮して喋った。
「本当やね!生きてる!」
二人は抱き合って喜んだ。
「かえでやん、また泣いてる。」
「だってあっち、嬉しうて!」
それから二人は座敷の隅に小さな布団をひいて交代で寝ずの番をした。
明け方頃、ふじ枝はかえでが歌を歌っている声で目が覚めた。
かえでは春乃太夫の耳元で囁くような小さな声で歌を聴かせていた。
「かえでやん、歌うたってるの?」
「あ、起こしてしまった?すまんこって。」
ふじ枝は布団から出てかえでの横に座った。
「この歌、春乃姐さんに教えて貰った歌やの。姐さんの好きな歌。」
「ふうん。わっちは知らんかった。」
「あっちが泣いてたら春乃姐さんが歌って慰めてくれたんや。」
「泣いとった?何が悲しうて泣いとったん?」
「色んな事。郷の事とか習い事が上手く出来んとか。なんか悲しうて。」
「そうやったん…。全然わっち知らんかった。」
「だから今度はあっちが春乃姐さんに歌を歌って聴かせてあげよう、思って…。」
「春乃姐さんに聞こえて目覚めると良いなぁ。」
「そやねー。」
「わっちにもその歌教えて。」
二人は春乃太夫の枕元で歌を歌った。
「そうだ!」
「どうしたの?ふじ枝やん。」
「春乃姐さんの事、銀次どんに教えた方が良いんでありんせん?銀次どんが呼び掛ければ春乃姐さん、目覚めるかも知れない。」
「そうだね!あっちらより銀次どんの声の方が春乃姐さんに届くかも知れん。銀次どんに教えよう!」
「もう春乃姐さんの身請け話もなくなったんだし、誰にも見つからなければ大丈夫でありんすよ。」
「そうだね!銀次どんに教えなきゃならん。ああ、でも銀次どんが今どこに居るのか誰も知らんでやんす。」
「銀次どんが春乃姐さんへの文を託した外のモンが居るじゃないでやんすか。そいつが銀次どんと繋ぎを取ってくれるはず。文を書こう!それをそいつに渡して銀次どんに届けて貰おう!」
「うん!そうだね、それがいいでやんす!」
二人は一生懸命、銀次宛に文を書いた。
春乃太夫の近況を一番知りたがっているのは銀次だ。
何も知らない銀次はきっと春乃太夫からの文を待っているだろう。
それに銀次は春乃太夫の様子を一番に知らせなければならない人物でもあるのだ。
しかし誰に文届けを頼めば良いのか二人には分からなかった。
「誰なんでありんしょう?銀次どんの文を持ってきてくれたモンと、それを受け取ったウチのあ姐さんは…。それか銀次どんの居どころを探してくれて、秘密を守ってくれそうな人に頼むとか。」
「番所の市蔵どんは?」
「番所の人は一番駄目だよ。市蔵どんは一番良い人やんすが…。」
「朴庵先生に相談してみんせん?」
「そうだね。」
「情の通じた男の呼びかけか…。それは案外良い方法なのかも知れんな。それにもしこのまま春乃太夫があの世に行ってしまった時にそれを見届けさせてやりたいしの…。」
「先生!縁起の悪いこと言わないでくんなまし。」
「いやいや、男というものは惚れた女の事は死ぬまで忘れられん生きものじゃからのぉ。特に生き別れた女にはいつまでも情が捨てられん。だからしっかりと見届けさせてやりたいんじゃよ。」
「ふぅん。そういうもんなんですかいなぁ。」
幼いかえでとふじ枝にはまだまだ分からない男女の機微であった。
「春乃太夫がこうなったきっかけも銀次の文が届けられた事からだったな。春乃太夫が直接文を受け取っていたならこんな事にはならなかったじゃろう…。間に入っていた者がいるはずじゃ。そいつを探すのが第一じゃ。」
「分かりんした。」
「誰が間に入っているかを知る為には、まず見世の誰が銀次どんからの文を受け取ったかを突き止める事でやんすね。」
「そうだね。多分春乃姐さんに近いおあ姐さん達の内の誰かでやんしょう。」
「うん。その頃にはわっちらは春乃姐さんの禿から外されてたから皆目見当がつかんけど…。春乃姐さんが遣いに出す姐さんとすれば、しっかり者の仲良しの姐さん?」
「うーん…。あの時なんか騒ぎになったって言ってたよなぁ。文遣いがしっかり者の姐さんだったら騒ぎになんかならんでやんしょう。」
「きっと春乃姐さんは銀次どんの文遣いだって知らなかったんでやんすよ!知っていたらしっかり者の仲良しの姐さんに頼むはずでやんす!」
「そうだ!…って事は身近に居る若い振新さん?」
「そうかも!大抵の遣いはお付きの禿か振新さんがするもんでやんす。春乃姐さんは軽い気持ちで若い振新さんを遣いに出したんでやんすよ、きっと!」
「じゃあその時の振新さんと言えばあっちらが側付きだった頃からの…。」
「安曇姐さんか鷺ノ姐さんのどっちか…。」
「そうだね!二人に聞いてみんしょう!」
「こういうことはあっちに任せてくれなんし。かえでやんは優しすぎて相手に突っ込んだ事聞かれんでやんしょう。」
「そうやね。春乃姐さんにも誰かついてないといかんし。」
かえでは照れくさそうに頷いた。
ふじ枝は早速相州屋に戻って振新の安曇と鷺ノを探した。
春乃太夫が添島様の御隠居に首を絞められて気を無くした夜、春乃太夫は身体の具合いが悪いとして部屋には誰も入るなと大旦那から皆に申し渡しがあった。
その真夜中に春乃太夫は朴庵先生の母屋に運ばれて、夜が明けてから「春乃太夫は急な心の臓の病で亡くなった。」と皆には知らされていたのだ。
鷺ノを見つけたふじ枝は早速聞いてみた。
「春乃太夫の文遣い?あっちは知らねぇでやんすよ。それどころかあの晩太夫の間繋ぎに御隠居に三味を弾いてたら、御隠居は厠から帰ってきた途端そら恐ろしい形相で怒り狂っちまってて、手が付けられねぇでやんしたぇ。あっちは恐ろしくてお登喜おばさんの部屋に逃げ込んだくらいでやんした。」
「そうでやんすか。」
「ところでお前、何で今頃そんな事聞くんでやんす?春乃太夫は会所の銀次と恋仲だったって噂だけど、御隠居の身請け話と春乃太夫が急に死んだ事と何か関係があるのかえ?」
「えー?わっちはなんも分かりんせん。」
ふじ枝はとぼけて答えた。
「まァ、そりゃ子供のお前には男女の事は分からんだろうねぇ。」
鷺ノはクスクス笑いながら去って行ってしまった。
(鷺ノ姐さんは文遣いじゃねぇ。だとすると安曇姐さんが文遣いだったのか?)
ふじ枝は今度は安曇を探した。
しかし安曇は相州屋のどこにも見当たらない。
(この時間だと内湯か?外の湯屋に行ったのか。だったら戻るまで時間がかかるな。すぐにともいかねぇ。あんまり他のあ姐さん達に嗅ぎ回ると尻尾掴まれちまう。)
行動派のふじ枝は次に打つ手を考えた。
(銀次どんは吉原の外に居る。春乃姐さんに文を渡すには普段は吉原の外に居て尚且つ吉原に出入りが出来るモンに文を託すしかねぇ。しかもあ姐さん達とも関わりのある奴…。するってぇと髪結いか出入りの商人?事が重すぎて文使い※はこの際つかえねぇし。)※遊女と客との間の文使いを仕事にしていた者の事。
とにかく安曇が帰るまで待つしかないとふじ枝は決めた。
半刻程して、さっぱりとした顔で上機嫌の安曇が湯屋から戻って来た。
ふじ枝は安曇を捕まえて聞いた。
「安曇姐さん、銀次どんからの文を受け取ったんでやんすか?」
途端に安曇の顔色が変わった。
「何だい?お前、唐突に。」
「誰から受け取ったんでやんすか?文を渡したのは誰でやんす?」
「し、知らねぇよ。あっちは。」
「春乃姐さんは振新を遣いに出したはずでやんす。鷺ノ姐さんは知らねぇといいやんした。後は安曇姐さんしかおりんせん。」
「…だったら何だって言うんだい?春乃太夫はもう死んじまったんだ。今更蒸し返してどうするんだい?エ?何の益があるってんだい!」
「わっちは銀次どんに春乃姐さんの事を伝えたいだけでやんす。」
安曇は自分の不注意で銀次からの文を他の遊女に読まれてしまった事、更にそれを隠蔽した事を罪に感じていた。
そしてその事を春乃太夫に打ち明けず、結果噂が広まり添島様の御隠居の耳に入って身請け話が流れた事、その事実に関してか分からないが春乃太夫が急死した事が全て自分のせいであると心の中でずっと思い悩んでいた。
「そうさ。みんなあっちが悪いのさ。あっちが上手く立ち回らなかったせいで千両の身請け話がおじゃんになって見世に損をさせた。御隠居は春乃姐さんを責めたんだろう。それで春乃姐さんは心の臓に負担がかかって死んじまった。みんなあっちのせいさ!」
「安曇姐さん…。」
「あの文に書いてあった事が春乃姐さんの身請け後に起きたにしろ起きなかったにしろ、身請けの前にみんなにバレちまった責はあっちにある。あっちのせいで見世にも春乃姐さんにも銀次にも悪い事が起きた。あっちなんか許されやせんだろう!」
ふじ枝は春乃太夫はまだ死んではいないと喉から出かかる程、己を責める安曇が憐れに思えてならなかった。
果たして春乃太夫は目覚める時が来るのでしょうか?
かえでとふじ枝は銀次の行方を知る事が出来るのでしょうか?
春乃太夫を亡くならせてしまうのがあまりにも悲しすぎてこんな形になってしまいました。
白雪姫も眠り姫も意識混濁や仮死状態だった人が息を吹き返した事実から生まれた物語なのではないかと私は思ったりもするのです。