春乃太夫の命をかけた恋 その六『春雷』
なかなか添島様の御隠居に身請けされる事に気が進まない春乃太夫。
銀次からの文には身請け後の駆け落ち約束の事が書いてあったものの、御隠居を裏切る事の罪悪感やその恐ろしさで心の内で葛藤していたのです。
しかしその銀次からの文が春乃太夫の身にとんでもない事態をまねいてしまうとは…。
実は振袖新造から渡された銀次からの文について、春乃太夫はある疑惑を抱いていた。
文面や文字は確かに長年読み続けてきた銀次の物に間違いはなかった。
しかし、文を他人に読まれない様にと恐らく銀次が慎重にしたであろう封がこじ開けられた形跡があったのだ。
〆の文字が合わずに微妙にずれていて、しかも折りを無理矢理開いた跡がある。
そしてついさっき封をしたかの様に折りが僅かに糊で湿っていたのである。
誰かが封を開けて読んだに違いない。
春乃太夫はそう直感し、文を渡された振新に問いただした。
「コレはどういう事だえ?〆が合ってないでありんすよ。まだ糊も湿っている。わちきに渡すより先にお前が開けたのかえ?」
「あ、あちきはそんな事しておりやせん!あちきにも分からないでやんす。千羽屋の手代からわちきに渡された時からそうなっておりやした。」
振新は慌てた様子で答えたが、春乃太夫はそれ以上追求するのはやめた。
見世の人間を疑い出すとキリがない、封が開けられたのは手代の手に渡る前の事か、或いはその手代が興味本位に中を開けたのかも知れない。
出入りの商人達も今回の騒動を噂のネタ話にしている位なのだ。
時間を遡ると銀次からの文が届けられた経緯は実はこうだった。
春乃太夫に届いた銀次からの文は出入りの商人である千羽屋の手代が持ってきた物だった。
銀次は会所で働いていたので相州屋に出入りのある商人を熟知していたのだ。
しかもその中で直接遊女達と接触のある商人に文を託したのである。
しかしその千羽屋の手代は銀次から『春乃太夫に内緒で渡して欲しい』と文を渡されても、誰に渡せば内緒で確実に春乃太夫の手元に届くのかは分からなかった。
仕方なく取り次ぎに出た遊女に春乃太夫本人に出て来て欲しいと頼んだ。
しかし春乃太夫からの返事は「添島様の御隠居の相手をしているので出て行けない、差し向けた振新が代わりに用を足すのでその者に申し付けて欲しい。」との事だったのだ。
もちろん春乃太夫は商人が銀次からの文を届けに来たなどとは思ってもいなかった。
千羽屋の手代はその振新が信頼のおける相手なのか戸惑ったが、それ以上成す術もなくその振新に銀次の文を渡した。
その後千羽屋の手代は相州屋を出たが、それから後に銀次の文は最も最悪な運命をもたらす事になってしまったのだ。
「あんた文を渡されたね?」
文を受け取った振新に他の遊女が聞いた。
「文なんか貰っちゃいないでやんす。」
「嘘をつけ。あの商売屋はあんたの色男かい?」
「そんなんじゃありんせん。」
「じゃあその懐に入れた文は何なんだい?」
その遊女は振新の懐から素早く文を抜き取ると折りを開いて読み出した。
「止めておくれよ!」
「何だこりゃ!銀次からの文じゃねぇか!」
遊女はわざと大きな声で言った。
「静かにしんさい!コノ、お黙りよ!」
二人は文を取り合い揉み合いながら奥へと引っ込んだ。
「うるさいね!あんた春乃太夫のお気に入りだから文遣いを頼まれたんだろう?」
文を読んた遊女は聞いた。
振新は遊女の手から銀次の文を取り返すと、仕方なく懇願し言った。
「今生の頼みでやんす、文の内容を誰にも洩らさないって約束しておくれでやんす。」
「ふ、分かったよ。」
遊女は不敵な笑みを浮かべ懐に両手を隠して去って行った。
その文はその後春乃太夫に届けられたが、振新はその前にこじ開けられた封を元に戻して糊で閉じたのだ。
だが文を横取りして読んだ遊女と振新との約束は守られなかった。
その遊女によって相州屋の遊女達の間に瞬く間に春乃太夫と銀次の駆け落ちの話が広まってしまったのだ。
銀次からの文を横取りした遊女は、相州屋をライバルと目している例の中見世の主人の密偵であった。
「銀次からの駆け落ちの文だと?でかした!お前ぇ、それを見世中に広めろ。」
「ふん!あんたに言われなくともみんなもう当に噂してるよ。御隠居の耳に入るのもすぐだろうよ。」
その遊女は忠実に且つ確実に役目を遂行した訳だ。
「それで?それで?春乃太夫は振新だった時から銀次と懇ろだったのかい?」
「昔一度噂になったじゃないか。すぐ立ち消えになったけど、まだずっと続いていたんだねえ。」
「それでぇ?そのみかじめに身請け話しを受けたって事なのかい?だけどその文じゃ身請けの後で二人で駆け落ちをする腹づもりだってぇ?」
「深い情だねぇ。羨ましいよ。漢だねぇ、銀次は。」
「でもさ、肝心の添島様の御隠居はなぁんにも知らないんだろ?千両も出して身請けするってのに。」
「恐ろしや~!知ったらあの御隠居様の事だ、ただでは済まないよ。くわばらくわばら。」
「千両の金欲しさに遊女の落し前を利用するなんざぁ、忘八のする事はやっぱり神も仏も恐れぬ所業だねぇ。」
「全くだねぇ。だけどそれを添島の御隠居が知った時の事を思うとあっちは身も震えるねぇ。血をみるよ~、春乃太夫は。」
「そん時の御隠居の顔が見てみたいねぇ。きっと夜叉の様な顔しているだろうよ!」
「アハハ…、止めとくれよ~。」
遊女達は茶化して春乃太夫の身請け話を笑い話の様に噂し合っていた。
そしてその日もいつもの様に添島様の御隠居は春乃太夫に会いに相州屋に出向いた。
春乃太夫がなかなか身請けの日どりを決めないので御隠居の焦りも限界に来ていた。
御隠居は今日こそは春乃太夫から身請けの日どりの確約を得るつもりだった。
座敷に通された御隠居は春乃太夫がやって来るまで、文遣いをした者とは別の振袖新造を相手に酒を飲んでいた。
「ちょっと厠へ行ってくる。」
「お気張りやんす。」
御隠居は立ち上がって廊下へ出た。
厠から戻る時に遊女達の溜まり場である奥の方の座敷から笑い声と話し声が聞こえて来た。
「女というものは堅気でも商売女でもとかく下らぬ与太話を好むものだ。」
御隠居は苦々しく呟いた。
しかしその遊女達の会話の中に偶然にも自分の名前が出て来たのが、突然御隠居の耳に入った。
それに驚いた御隠居は奥の座敷へと向かった。
そして遊女達に気付かれない様に壁際に立って噂話を全て聞いてしまったのだ。
頭に血が上った御隠居は鬼の形相で座敷に戻って来た。
「マァ、随分長く厠に居られたのでありんすなあ。どこぞ腹の具合でもお悪いんでありんすか?アレ、おっかない真っ赤なお顔をしなさって…。」
「うるさい!」
「どうしたんでありんす?春乃太夫ならもうそろそろおいでになりやんすからご機嫌を直しておくんなまし。」
「お前も…、知ってるのか?」
「何をでござりんすか?」
「春乃の情夫の事だ!」
「何の事やら、あちきには分からないでありんす。」
御隠居の掴みかかりそうな勢いに恐れを成して振袖新造は座敷から這い出した。
そしてそのままお登喜おばさんの部屋に飛び込んだ。
「どうしたんだい?」
「何やら知らんのでありんすけど、添島様の御隠居が厠から帰って来たらそら恐ろしい程お怒りになっておりんして、あちきはもうたまらなくなって逃げて来やした。」
「何だって?春乃の用意はまだなのかい?」
お登喜おばさんは春乃太夫の準備が遅いので御隠居様が怒っているのだと思い、座敷の方へ向かった。
そこへちょうど春乃太夫がやって来た。
お登喜おばさんは春乃太夫に声をかけた。
「何してたんだい?御隠居様がお怒りのようだよ。早く座敷へ行ってご機嫌を取り直しておくれ。」
「あいすみません。」
春乃太夫は座敷に入った。
「随分お待たせしてしまって申し訳ありやせん。」
遊女達のおしゃべりから春乃太夫が本気の情人と別れる事を条件に身請け話を受けた事、更に身請け後にその男と駆け落ちをするつもりである事を知った添島様の御隠居は既に嫉妬に狂っていた。
更に尊厳を損なわれた怒りも加わってどうにも腹の虫が治まらなくなっていた。
春乃太夫は御隠居の横に座り話しかけた。
「まぁ、そんな恐ろしいお顔をして何ぞお気に召さない事でもありんしたんでやんすか?」
「うるさい!知らばっくれるな!お前の魂胆は分かっているんだぞ!」
「まぁ、何の事でありんしょう?」
「とぼけるな!」
御隠居は春乃太夫の頬を叩いた。
「あぁっ!」
春乃太夫は畳に倒れ膳が弾き飛ばされた。
そして御隠居は春乃太夫を激しく責め立てた。
「お前は長くわしの世話になっておきながら、会所の男なんぞと恋文を交わしておったのか!?しかも夫婦の約束までしていたとは!そして身請け後は駆け落ちをするだと!?わしを愚弄するのもいい加減にしろ!」
春乃太夫は途端に真っ青な顔になり慌てて御隠居にすがって怒りを取りなした。
「許しておくんなまし、あの人とあちきは振袖新造だった頃からの仲。誠の情愛だったんでありんす。」
「ではお前はわしには情がないというのか!?そういう男がいながらこのわしから平気で床花を受け取っていたのか!?」
すがり付く春乃太夫を突き放して御隠居は怒鳴った。
「それは禿や新造達の身支度に消えやした。わっちには何も残りんせん。」
「ええい!うるさい!そして身請けしてからもわしを騙そうとしていたとは許せん!」
御隠居はもう若い年でもないのに感情が抑えきれず嫉妬に我を忘れていた。
「春乃ッ!」
御隠居は春乃太夫に襲いかかりその細い首を両手で締め付けた。
「うっ!やめておくんなまし…っ…!」
春乃太夫は呻き声と共にその身体が大きくのけぞり再び畳の上に倒れ込んだ。
「た、助けて…!ぎ、銀…次…!」
春乃太夫は御隠居の指に両手をかけて忌の際の声を振り絞った。
御隠居の指の力は春乃太夫の首に食い込む程の強さだった。
春乃太夫は脚をバタつかせ激しく抵抗した。
その度に御隠居の怒りの念は度を増していく様だった。
そしてついに添島様の御隠居は両手の指に渾身の力を込めて春乃太夫の首を一気に締め上げた。
春乃太夫の口元から白い泡が流れ落ちた。
「うううぅ…。」
がっくりと春乃太夫の首が垂れ下がった。
あっという間の出来事だった。
御隠居が我に帰ると春乃はぐったりとして畳に倒れ付し身動き一つしなくなっていた。
御隠居は春乃太夫のその姿を見ても全くうろたえる事もなかった。
元旗本の御隠居にとってたかが遊女一人の命など取るに足らない物だった。
しかも既に隠居したとはいえ武士として、自分を愚弄する者など決して許せるものではなかったのだ。
そして御隠居は襖を開けて怒りの表情も隠さずに、ドスドスと足音を立てて座敷を出て行ったのだった。
廊下で成り行きを伺っていたお登喜おばさんは慌てて座敷の中に入った。
そこには無惨にも添島様の御隠居に首を絞められ畳の上に朽ち倒れた春乃太夫の骸が横たわっていた。
「春乃!春乃!」
お登喜おばさんは春乃太夫の身体を揺すり頬を叩いたが、既に遅く春乃太夫は事切れていた。
相州屋では事後の成り行きについて何も手を打つ事が出来なかった。
「相手は元お武家様だ。手をかけたって言ってもたかが遊女の生き死になんぞ番所は取り合っちゃくれねぇ。こっちだって尻拭いの為に千両の大金と引き換えに情を移した男のいる遊女を身請けさせようとしたんだ。文句も言えねぇだろ。」
「仕方がないかねぇ。哀れだねぇ春乃も。」
「しかし千両は惜しかったなぁ。」
「やめとくれよ!お前さん。」
相州屋の大旦那とお内儀は御隠居の春乃太夫に対する暴挙を内に治めるしかなかった。
相州屋が番所にも訴えなかった為に添島様の御隠居には何のお咎めもなく、春乃太夫は病死とされた。
その一方で銀次からの文の内容を見世に広めた密偵の遊女はひっそりと念頭の中見世に移って行った。
様々な人々の思惑が交錯して、春乃太夫の身についに恐れていた事が起きてしまいました。
銀次の不在時に春乃太夫はどんなにか心細かった事でしょう。
相州屋でもその危険を防ぐ事が出来ませんでした。
銀次はこれからどうするのか?
そしてかえでとふじ枝は?
次回の展開は如何に?
ちなみに振袖新造は当時「振新」と呼ばれていたそうです。
某国営放送の大河ドラマ、私の予想では「ヒロインが最後には生まれた息子を連れて戻って来て夫婦円満に過ごしましたとさ」、で終わる様な気がします…、フフフ…。 \( ̄~ ̄;)