春乃太夫の命をかけた恋 その四『春疾風』
ついにふじ枝とかえでが幼いながらも知恵を絞って春乃太夫と銀次の文遣いをする日々も終わりが来てしまいます。
いつまでも変わらず文遣いをしたいと思っていたかえでとふじ枝でしたが、周りの大人達はそれを許しませんでした。
相州屋の大旦那の思惑は春乃太夫を更に厳しい立場に追い込んでしまいます。
「おい銀の字、ちょっくら顔貸せや。」
番所の市造はひょいと会所に立ち寄り銀次に声をかけた。
「へい。何ぞご用で?」
二人は連れ立って会所を出た。
人気のない路地裏に入ったところで市造が口を開いた。
「ここんところお前ぇの側で相州屋の春乃太夫の禿がうろついてんな。」
「何のことで?あっしにはいっこうに…。」
銀次は胸の高鳴りを押さえ、市造に感づかれない様に平静を保って答えた。
「お前ぇ昔、春乃太夫と文を交わしているってぇ噂が立ったな。まさかまだ続いてんじゃあるめぇな。」
「続くも何も、あっしゃ昔からなんの関わりもありやせん。」
「…ふん、まあ聞いたところで本当の事は言うはずもねぇやな。」
市造は銀次の顔を見ながら言った。
「深入りはすんな。まだおいらがちょいとおかしいと思っているだけだ。相手は大見世の太夫だ。並の遊女とは訳が違う。お前ぇが身請け出来るワケもねぇ。だが相州屋に知れてみろ、春乃もお前ぇもただじゃおかねぇ。悪くすれば命取りだ。」
銀次は黙って聞いていた。
「それからな、あのチビ共をダシに使うのはおれは黙っちゃおけねぇ。まだ子供だ。モノの道理も解っちゃいねぇ。あいつらはてめぇがさせられている事がどんな事か分かっちゃいねぇんだ。おいらはな、あのチビ共を道具に使っているのが許せねぇのさ。金輪際あの二人を遣いにするのは止めるこった。」
銀次には二の句が継げなかった。
「おれは誰にもナンにも言わねぇよ。ただあのチビ共の事、それだけだ。この先は大事になるめえにお前ぇと春乃が後々の事をどう決めるかだ。おれは一応忠告だけはしといたからな。」
「じゃあな、ツラ借りて悪かったな。」
市造は銀次を裏路地に残して足早に去って行った。
一人残された銀次は小さな声でつぶやいた。
「…分かっちゃいるさ。何もかも…。でもどうしようもねぇンだ。諦められるモンならとっくに諦めてる。」
銀次の中であの桜の舞い散る春の日に、春乃太夫の振袖新造の突き出し道中を見た時の、鮮やかな清々しい情景が心に焼き付いて離れない。
それはちょうど銀次が会所に雇われてすぐの春の日の事だった。
まだ顔にあどけなさの残る十四歳の時の春乃太夫が真っ直ぐに前を向き、口元をキリリと引き締めて何かを決心する様な強い眼差しで振袖新造のお目見え道中を歩んでいた。
まだ年端も行かない少女の面影を残すこの娘が、将来太夫となり相州屋の重い看板を背負って何処ぞの御大尽を客にして生きて行かなければならないのか。
その時、切なさが銀次の心にこみ上げて来た。
俺はこの娘をずっと側で見守っていてやりたい。
苦難の道を歩まねばならないだろうこの先に、いつも俺という存在が側に居る事を心の支えにして生きて行って欲しいと願ってしまった。
それがいつの間にか愛情に変わって行ったのは自然な流れだった。
いや、初めて会った時の銀次の一目惚れだったのだろう。
そして初めて二人で床を供にし契りを結んだ日、春乃太夫は銀次の永遠の人になった。
二人にとってそれは「運命」であったとしか思えなかった。
二人の始まりがそれほど劇的なものだったので春乃太夫と銀次の互いへの想いは強く、市造の忠告も虚しく文の遣り取りを止める事は出来なかった。
なのでそれからもかえでとふじ枝の文遣いも変わらず二人の仲も続いていた。
しかしついに市造が心配していた通りの事態になってしまった。
やはり太夫の禿が始終おかしな行動をしていれば人目に付いて皆が疑問に思うのはごく当たり前の事だった。
加えて相州屋の中でも春乃太夫が客以外の男と本気の文の遣り取りをしていると、どこから漏れたのか噂が立ちはじめてしまっていたのだ。
その噂が大旦那とお内儀さんの耳に届かない訳もない。
しかし当の本人の春乃太夫はその事に全く気が付いていなかった。
日々の暮らしの中で微かな光を灯す銀次からの文は、春乃太夫の心の中で唯一の生きて行くよすがとなっていた。
春乃太夫にとってそれだけを支えに毎日の辛い勤めをこなすだけで精一杯だったのだ。
そしていつものように春乃太夫はふじ枝とかえでに銀次への文遣いを頼んだ。
かえでは春乃太夫の文を持って西岸の稲荷へ、ふじ枝は銀次の居る会所に向かった。
同じくして大旦那は見世の若い衆二人に指図をしていた。
「いいかい、ふじ枝とかえでの後を追って二人が何をしているか見張ってろ。見定めたら帰って来い。くれぐれも騒ぎにならねぇようにな。」
「へい。」
二人の若い衆はふじ枝とかえでの後を追った。
「わざわざ後を追わせなくてもあの二人を締め上げて全部吐かせりゃ良いんじゃないんですかい?」
番頭が大旦那に言った。
「相手が誰だかはっきりと見定めなけりゃならねぇんだよ。」
お内儀が後から加わって番頭に言った。
「あの二人は引込でまだ子供だよ。手荒な真似は止しとくれ。」
かえでは西岸の稲荷に着くと願かけの枝に春乃太夫の薄桃色の文を結んだ。
そして狭い祠の隅にしゃがんで銀次が来るのを待った。
一方ふじ枝は会所の横から中の様子を伺っていた。
いつもだったら銀次が居て他の面子と雑談をしているので、ふじ枝はわざと会所の入り口の前で目につくようにうろついた。
すると銀次が気が付いて西岸の稲荷へ向かうという手筈になっていた。
その日も同じようにふじ枝の姿に気が付いた銀次は稲荷に向かった。
そこまでがふじ枝の役割で、銀次を見送った後ふじ枝は相州屋に戻った。
西岸の稲荷ではかえでが銀次を待っていた。
その間に誰かが来て万が一春乃太夫の文をいじったり持って行ったりしないように見張るのがかえでの役目だ。
やがて銀次が西岸の稲荷に来て春乃太夫の文を読み、返事を書いて縁結びの枝に結ぶ。
かえではその間銀次とは一言も話さない。
銀次が帰った後、かえでは銀次が結んだ文を枝から外して懐に入れ相州屋に戻って来る。
そして銀次からの文を春乃太夫に渡す。
ここまでがかえでの役割だ。
小さな二人はその日もつつがなく役目を終えたと思い、ホッとしていた。
相州屋の若い衆に後を付けられていたとも知らずに。
そしてこの日の二人の行動は後を付けた若い衆によって大旦那とお内儀の知る所になってしまった。
「やっぱり銀次か…。」
大旦那はつぶやいた。
「春乃とは昔文の遣り取りをしていたが、まだ続いていたとはねぇ。」
お内儀がため息まじりに言った。
「どうするんでやんす?大旦那。」
「もちろん放っておくワケにゃいかねぇ。別れさす。春乃はウチの看板太夫だ。銀次なんぞにうつつを抜かされてちゃ商売にならねぇ。」
「お前さんきつい折檻は止めておくれよ。三人とも。あそこまでするのに大層な金がかかってんだ。」
「ふじ枝とかえでは春乃に命じられて文遣いをやってただけだろう。仕置きなんぞしやしないよ。だが春乃は…。」
「顔や体に傷を付けないでおくれよ!上等な品物なんだから。」
「仕置きは歯向かうモンへの懲らしめに行うのさ。春乃には別の責めを負って貰う。後は銀次の会所の方だな…。」
「会所にはあたしらは何も出来ないじゃないか!」
「まぁそうだが、春乃の方から情を向けたとは考えにくい。銀次の方からだろう。その責は負って貰わにゃならん。その辺の細けぇ事は双方に聞いてみなきゃ分からねぇけどな。二三日すりゃまた二人は文の遣り取りをするだろう。そん時に証拠を掴む。」
そして大旦那の予想通り、三日程して春乃太夫は再びふじ枝とかえでに文遣いを頼んだ。
二人はいつもの様に相州屋を出た。
しかし今回はもうそれまでとは違った。
程なくしてふじ枝とかえでが若い衆に連れ戻されて来たのだ。
二人とも首根っこ捕まれた猫のように、後ろ衿を捕まれてトボトボと歩きながら相州屋に戻されて来た。
「大旦那、連れて来やした。」
「おう。全くこまっしゃくれた小ネズミ共だ。」
「これが文で。」
かえでを掴まえていた若い衆が春乃太夫の文を大旦那に渡した。
「よし、こいつらの事は頼む。おいらは春乃と話してくる。」
かえでとふじ枝は春乃太夫の事を思うと何も言えないでいた。
お内儀は二人に言った。
「二人とも春乃に頼まれてやってたんだろうから今回は見逃すよ。だけどその責任は春乃に取って貰うからね。」
「春乃太夫が可哀想でやんす!春乃太夫は本当に銀次どんの事を想っているんでやんす。」
こういう時にはいつもの慎重さを失い、本来の一本木な性格を面に表すかえでであった。
「分かっているさ。だが本気の情けは遊女にはご法度だと春乃も分かっているだろうに。本気の情けで身を滅ぼした遊女は何人もいるんだからねぇ…。ましてや春乃は太夫なんだからね。そういう事は誰よりも徹底していなきゃならねぇ。なのに。」
「春乃太夫だって人でやんす。心引かれるお人に本気の情けを感じる事もあると思いやんす。ひどいでありんす!」
ほとんど涙声になりながらかえでは訴えた。
「もうお止めよ。」
ふじ枝が慰める様にかえでに言った。
「かえでの悪い所は妓楼で働きながら情が深すぎる所だねぇ。これから先が心配だよ。」
お内儀は呆れ返って言った。
一方で春乃太夫の部屋で大旦那は春乃に重大な決断を迫っていた。
「春乃、お前ぇはこの相州屋の看板太夫だ。だが今回の不祥事。廓のみんなにはもう知れ渡たっちまっている。お前の待遇は今までとおなじというワケにもいかねぇ。他の女郎達の模範の為にもけじめを付けて、どうしてものんでもらわにゃならん話がある。」
春乃太夫の前には先程自身がかえでに託した銀次宛の薄桃色の文が置かれていた。
「大旦那さん、お内儀さんには大きな恩義を感じておりやんす。今回の事はあちきの不始末。どんな話にも従うでありんす。」
「そうか。お前ぇがこれからも相州屋で太夫の看板背負うのには、他の遊女達が反発するだろう。そこで以前から目をかけて貰っていた添島様の御隠居だが、お前ぇに身請けの話を持ちかけてる。これをのんで貰う事だ。」
「あちきが身請け…!」
春乃太夫は大旦那の思わぬ言葉に驚きを隠せなかった。
添島様の御隠居とは元は旗本の武士であったが、隠居してからは別宅を構え、陰で金貸しの真似事まがいの事をして暴利を貪っている因業ジジイと噂されている老人の事だった。
元旗本の武士でありながら、隠居後は私腹を肥やして得た黒い金で骨董品を買い漁っていた為、添島家とは疎遠になっており家人からも煙たがられている人物だった。
そして長く添い遂げた老妻女が居ながら、夜な夜な吉原に通っては遊女をはべらせ遊興の限りをつくしていた。
御隠居はお気に入りの何人かの見世の太夫に身請けの話を持ちかけていたが、その横暴な性質からどこの見世の太夫にも嫌われて断られていたのだ。
「急な事だから驚くのは無理もねぇだろう。しかも相手があの添島様の御隠居だ。しかしお前が大人しく言う通りにしてりゃ、添島様の御隠居も無体な事はするまい。御隠居にとっちゃ身請けした太夫は買い集めた骨董と同じだ。何処の見世が太夫を受け渡すか皆が迷っている所だが、添島様の御隠居は千両は出すと言っている。見世の利益の為にもこの身請け話を受けて貰う事がお前ぇへの仕置きだ。」
春乃太夫は黙っていた。
「お前ぇの気持ちが銀次にあるのはよく分かっているが、銀次がお前ぇを身請けするのは無理だ。銀次との事はキッパリと終わらせて添島様の御隠居の身請けを受ける事、そうすりゃ他の遊女も納得してお前ぇの事もいつかは忘れていくだろう。好いた男が居る身で他の男に身請けされるなんざ酷だろうが、相州屋の看板を汚さねぇ為にもどうしてものんで貰う。」
春乃太夫は一呼吸おいて言った。
「…分かりんした。添島様の御隠居の身請けの話、謹んでお受けいたしやす。それと、ふじ枝とかえでの事はどうかお咎め無しにお願いいたしやす。悪いのは全部わちきでありんすから。」
大旦那が部屋を出て行ってからお登喜おばさんが代わりに入って来た。
「全くねぇ。どうせ銀次にゃ身請けなんざ出来やしねぇんだから、あたしゃ文の遣り取りぐらい許してやっても良いんじゃないかと思うんだがねぇ。でも万が一心中なんかされた日にゃ、相州屋の面目に関わる事になるし、如何せんけじめってモンがあるからねぇ。」
「番新さん、良いんでありんす。遊女が本気の情けを通じちゃいけないきまりを破ったわちきが悪いんでありんす。」
「気を落とすんじゃないよ。御隠居の所に行ってもきっと良い事があるよ。御隠居は骨董集めに夢中なんだ。どっかの見世の太夫を身請けしたいってのも綺麗な女を側に置いて骨董品の様に眺めていたいって寸法なんだよ。大人しくしてりゃ危ない目にも遭わないさ。」
「えぇ、番新さん。ありがとうござんす。」
「番新さん、申し訳ないことでありんすが、しばらく…、一人にしておくんなまし…。」
「ああ、悪かったね。」
お登喜おばさんは春乃太夫の部屋を出て行った。
春乃太夫は身を伏せて嗚咽した。
これで銀次との繋がりも切れてしまった。
もう文のやり取りも出来ない。
身請け後に駆け落ちする、というのが二人の夢だったが、相手が横暴で謀略家の添島の御隠居ではそれも叶うまい。
ましてや自尊心の高い御隠居に駆け落ちの算段を覚られたらどんな目に遭わされるか分からない。
絶望的なわずかな期待を胸に囲い者となってこれからも生きて行くのか、と思うと自ら承諾した事とはいえ春乃太夫は流れる涙を止める事が出来なかった。
その頃、銀次は何も知らずに会所に居た。
すると相州屋の大旦那が今度は銀次の所にやって来た。
「ちょいとごめんなすって。」
「おや、相州屋の。何かあったのかい?」
会所の偉い者が声をかけた。
「ちょっと奥、貸してくれるかい?」
「何かナシでもあるんかい?」
「ちょいとな。」
二人は奥の座敷に入って行った。
その時銀次は会所に居たが、まさか相州屋の大旦那に自分と春乃太夫との文の遣り取りの事が知られたとは思っていなかった。
思わぬ方向に進んでしまった春乃太夫の行く先。
しかしそれは銀次の思い描いていた二人の将来に近付く話でした。
ならば春乃太夫と銀次の想いは叶うのでしょうか?
しかし身請け先の因業ジジイには何やら重く暗い噂が…。
当時の太夫の身請け金としては破格の金額の千両を設定しました。
それにより金に目の眩んだ相州屋の大旦那の忘八ぶりを表しています。
おまけに大旦那はそれでこの騒ぎを収めようとする一石二鳥の目論見なのです。