春乃太夫の命をかけた恋 その三『春の恋』
かえでとふじ枝を悩ませる春乃太夫と銀次の文遣い役は、どうにか解決策を得たようで二人は内心ホッとしていました。
でも恋には興味深々な小さな二人。
春乃太夫の部屋でこっそり銀次との馴初めを聞いている様です…。
「あちきがあのお人に初めて会ったのはねぇ、桜の頃のあちきの振袖新造の突き出し道中の時でありんした。」
春乃太夫の座敷の中でふじ枝とかえではひっそりと太夫に寄り添いながら話を聞いていた。
「まだ生意気な十四の小娘の若輩の身分でね、気ぃばかり強くて『あちきは将来相州屋を背負って立つ看板太夫になるんだ』ってすました顔して道中を歩んでいやんした。」
春乃太夫は自笑しながら言った。
「そしたらね…、沢山の見物人の中であのお人があちきをジッと見つめて居んさったの。それはもう刺さるような強い眼差しでね。引込新造たるもの、突き出し道中で弱気を見せるなんて情けない事なのに、あちきはドギマギして思わずふらついて足がつまずきそうになってしまいやんした。」
ふじ枝とかえでは春乃太夫の恋の話を少女らしく胸をときめかせて聞いていた。
「それでもあのお人ったらあちきの歩む道行きに合わせて付いてくるんでありんす。桜の花びらが舞い散る中、しかもあちきの顔をジッと見つめながら。」
「きゃー!」
ふじ枝とかえでは興奮して思わず声を上げてしまった。
「コレ、静かに!」
春乃太夫はふじ枝とかえでの口に手を当てて二人に言った。
「すんません、それで?太夫?」
「あちきも手は震えるわ頬は赤くなるわで、あんなに胸が高鳴ったのは初めての事でありんした。その時分あちきが仕えていた太夫はあちきの後ろを歩んでいて、あちきの動きがヘンなのを気付いていたと思うけど、後で『初めての突き出し道中で緊張した』ってごまかしたんでありんす。それからというものあちきの頭からあのお人のお顔が離れなくなってしまって困りんした。でもその時はまさかあのお人が会所に勤めているとは思いもよらなかった。」
春乃太夫は遠くを見るような目をして語った。
「それからはあちきが太夫に付いて道中を歩む時にもあのお人は必ず見に来てくれて、あちきの事をあの強い眼差しで見つめてくれていたの。あちきは恥ずかしくて目を合わせられなかったけど、きっとあのお人にもあちきの気持ちが伝わっていたと思うんでありんす。あのお人の事を考えると胸がドキドキして、また逢いたい、あのお人の事が知りたいとあちきは強く願うようになってしまっていたの…。それであのお人に情が移ってしまったって気がついたんでありんすよ。」
春乃太夫は廓言葉と素の言葉が混じりながら話していた。
「それで?初めて二人だけでお会いんさったのはいつだったんでありんすか?」
ふじ枝は積極的に春乃太夫の話を聞きたがった。
「ふじ枝やんったら、そんな事聞いて太夫に失礼でありんすよ。」
かえでは何事にも慎重派だった。
「あのお人もあちきも立場というものがありんすから、そう簡単には二人きりで会える事はないと思っておりやんした。でも神様っているのね。…ううん、神様って残酷ね。あの時二人きりで会わせてくれなかった方が良かった。」
春乃太夫の瞳がフッと曇った。
「どうしたんでありんす?春乃太夫?」
「いや、大丈夫よ。その頃の、あちきの太夫の馴染みの客が来ている日にね、どういう訳か酔っ払った会所の御連中が大勢で見世にやって来て、無理やり太夫を指名してきたんでありんす。相州屋としてはお断りしたかったけど、会所を敵に回すのは賢くないから太夫の身が空くまで座敷で宴会でもてなしたり、他の遊女が会所の下の連中の相手をしたり、もっと下の会所の連中は振袖新造が相手をしやんした。」
「でも振袖新造は添い寝をするだけでありんすよね?」
「建て前ではもちろんそうでありんす。でもあちきが添い寝をしたのは誰だったと思う?あのお人だったのよ。」
「ええーっ!」
「コレ!静かに!」
かしこまるふじ枝とかえでに春乃太夫は小さく笑いながら言った。
「凄い運命でしょう?」
二人は大きく頷いた。
「それで?」
「そこから先を聞くのは野暮というものよ。あちきら二人は夢の様な一夜を過ごしたわ。振袖新造は誰とも寝ないけどあちきは初めての契りをあのお人と交わしたの。十五の時だったでありんす。」
ふじ枝とかえではそれを聞いて顔が真っ赤になってしまった。
「春乃太夫は引込新造でしたもんなぁ。」
「ひ、引込新造は、み、水揚げまで絶対に誰とも寝てはいけない、決まりが…。」
慎重な性格のかえでは思わずしどろもどろになってしまった。
「あちきは何の迷いも無かったし、怖れもなかったわ。あちきとあのお人は情熱のおもむくまま情を交わし合ったの。そしてその夜は朝が来るまでお互いの色んな事を話し合ったんでありんす。」
「はぁーっ…、まるで絵双紙の様なお話しでありんすなぁ。」
「本当に…、夢物語でありんす…。わっちも春乃太夫の様に情を交わしてみたいでありんす。」
かえでは絵双紙、ふじ枝は実践的な恋の夢を見ていた。
本当に恋には対照的な二人である。
そんな二人に対して春乃太夫は哀愁のこもった笑みを浮かべた。
「それからよ。あちき達が文を交わすようになったのは。」
「ど、どっちから文の遣り取りを始めたんでありんすか?」
かえでが聞いた。
「あのお人よ。見世の禿にあちき宛の文を内緒で渡して来たの。嬉しかったでありんす。あのお人との情はあの夜だけで終わっちまうんだと思っていたから。」
「太夫も返事を書いたんでありんすね。」
今度は目を輝かせてふじ枝が聞いた。
「もちろんよ。本当は遊女は本気の情は誰とも交わしちゃいけない決まりだったけど、あちき達は文の遣り取りをしながら将来は夫婦になろうと約束したの。」
「素敵でありんす。」
二人は夢見るような眼差しで春之太夫の話を聞いていた。
「それから十七になって、あちきはさる大店の旦那さんに水揚げをしてもらって一人前の遊女になったけど、その前にあのお人と初めての契りをする事が出来て本当に良かった…。」
「バ、バレなかったんでやんすか?水揚げの時。」ふじ枝は聞いた。
「それは上手くやりんした。その旦那さんはのんびりしたお方で全然気が付いておりんさらなかった。」
「ねぇ、太夫。気が付くって、初めての水揚げで相手のお方が何か気が付く事があるんでやんすか?」
かえでは不思議そうな顔をして春乃太夫を見つめた。
「かえで、お前はまだ何も知らねぇんでやんしたね。」
「かえでやんはまだ子供でやんすから!」
ふじ枝はからかって言った。
「い、一緒に床に入る事ぐれぇは知ってやんす!ふじ枝やんだって子供でやんしょう!」
「これ、二人とも大声を出さずに静かにしんさい。」
春乃太夫は二人をなだめた。
「ところで会所の人が押し入って来た理由は何だったんでありんすか?」
ふじ枝が聞いた。
「会所の一番お偉い方がご年齢の為お辞めになる事になって、仲間内での宴会を開いてその席でしこたま飲んだ勢いでたまたま相州屋になだれ込んだんだそうよ。」
「本当に運命でありんすなあ。」
「でも会所の人達は後に番所のお偉いさんからこっぴどく叱られたんでありんすよ。会所の上の人は責任を取って辞めさせられたそう。だけどうちの見世はその時に大騒ぎした揚代を払えとは言わなかったの。」
「なんででありんす?」
「吉原会所とはこれからも付き合いが続きやんすからね。代わりにもしうちの遊女の足抜けがあった時には、なるたけ穏便にコトを済ませて欲しいと大旦那とお内儀さんが内々に持ち掛けたそうでありんすよ。そして今回の様な騒ぎはもう勘弁して欲しいとも…。」
春乃太夫はクスリと笑いながら言った。
「さすがウチの大旦那とお内儀さんでありんすね。」
かえでは笑いながら言った。
「…でも春乃太夫、あのお人と二人きりで逢わない方が良かったって、どういう意味でやんす?」
なかなか聞きにくい事だが、かえでも気になったのでふじ枝が遠慮なく春乃太夫に聞くのに任せた。
「…だって、夫婦の約束をしたって言ってもあのお人があちきを身請けするのはどうしたって無理な話し…。もう五年近くの仲になるけど、あのお人とあちきが二人きりで逢ったのはあの最初の一度きり…。それ以来文の遣り取りだけでは心許ないでありんす。あちきなんかよりもすぐにあのお人の女房になれる女人がいくらでも居るのに。」
「銀次どんは春乃太夫一筋でありんすよ!」
ふじ枝が言った。
かえでも同意して何度も頷いた。
「もしあちきが年季を済ませて晴れて自由の身になった時…。あのお人が待っていてくれたら…。」
「絶対待って居りんさるでありんす!」
「待っていてくれるだろうかねぇ。でもその前にもし金持ちがあちきを身請けする事にでもなったら断れないでありんす。」
「どうして!?」
「恩義ある相州屋の大旦那さんとお内儀さんの顔に泥を塗るようなマネは出来ないでありんす。」
「そんなぁ~。」
ふじ枝とかえでは同時に落胆した。
「それにね。あのお人には会所のお役目がありんす。今はあの頃よりもご出世なさって、これから先もきっとご出世なさる…。遊女なんかと夫婦になんかなれやしないでありんす。」
「そんな事!」
「それから重要な事がありんす。」
「何でありんすか?」
「あのお人は、春乃太夫としてのあちきが好きなんでありんすよ。あちきが太夫でなくなったら何の興味もなくなってしまうんじゃないかと思うの。だって二人だけで逢ったのは最初の一度きり。後は文を交わすだけで、あちきの姿を見るのは豪奢に着飾った太夫道中の時だけ。太夫の衣装を脱いだらあちきはつまらないただの女…。あのお人は夢を見ているだけの様な気がするんでありんす。」
「あんなに沢山文を交わしているのに?」
「文を交わしていてもあのお人がときめいているのは『太夫と内緒の文を交わしている』という現実にではないかとあちきは…。」
「そんなん!違うと思いやんす!」
いつもは慎重なかえでが力強く言った。
「ぎ、銀次どんは太夫の事を『お幸』って呼んでやんした!太夫の文を本当に大事そうに握ってやんした。五年もそうしてるのは本気の情だと思いやんす!」
「あのお人があちきの事をお幸って呼んでたの?」
「あい!」
「親が付けた幸ってあちきの名前をあのお人に教えたのは最初に情を交わしたあの時だけよ。後は文にも書かなかった、用心の為にそうしようとお互いに決めたの。でもあのお人はちゃんと覚えてくれていて、あちきの事を今でもそう呼んでくれていたのね。」
「そうでありんすよ!」
「嬉しい…。」
春乃太夫は本当に嬉しそうに呟いた。
「だけどあちきはどうしたら良いんだろうね…。」
「負けないでおくんなまし!太夫!」
「そうでありんす!諦めないでおくんなまし!」
「ありがとう。二人とも。」
「銀次どんは何か方法を考えてるって言ってやんした。」
「まだ言えないけどって。」
「ああ…、それこそ夢のような事でありんす。あちきの身請けには少なく見積もっても600両はかかるでありんしょう。待つと言っても年季が明けるまで待ちきれるもんでもありんせん。さりとて足抜けなどは到底出来もせん事でありんす。だから…。」
「だから…?」
「身請けが決まってあちきがこの吉原を出たらその先で駆け落ちしようとあのお人は…。」
「えぇっ!」
ふじ枝とかえでは声を揃えて叫んでしまった。
「静かにしんさい。」
「すんません、でもいくら何でもそれは…。」
「でしょう?相州屋とは縁は切れても大枚叩いて身請けしてくれた人に恩を仇で返すような事を…。」
「だけどどうせ身請けされてもあちきは囲い者…。恩があるとてやっと大門を出られたのに二世を誓ったお人と添い遂げられない事に何の生きてる意味がありんしょう?もうわちきは死んでのち地獄に堕ちてもかまわないでありんすからあのお人と一緒になりたい。」
春乃太夫はまだ小さな二人の前にも関わらず、顔を手で覆い隠して泣きながら言った。
そしてかえでとふじ枝は涙にむせぶ春乃太夫に、それ以上かける言葉を見つける事が出来なかった。
春乃太夫の恋の話を胸をときめかせて聞いていたかえでとふじ枝でしたが、当の春乃太夫にとっては銀次との恋は命をかけたいばらの道の愛のお話だったのでした。
命がけの恋にむせび泣く春乃太夫に、まだ小さな二人はかける言葉も見つかりません。
どうしたら良いかも分からないかえでとふじ枝はただ春乃太夫の恋が叶う様にと祈る事しか出来ませんでした。
春乃太夫と銀次の恋にはどんな運命が待ち受けているのでしょう?