吉原大門に潜む悪鬼
こんにちは、皆さん。
『いつか江戸時代の吉原で性を代償にして生きて行かざるを得なかった女性達の物語をドラマティックに描いてみたい』
江戸文化をこよなく愛して数十年。
東京下町生まれの私にとってそれは失われた自分のルーツを探し求める魂の希求だったのだと思う。
徳川幕府の終焉、薩長諸藩の推し進めた文明開化、関東大震災、第一次、第二次世界対戦、敗戦によるGHQの支配。
その度に遠くなる江戸時代。
今、私達は日常的に着物を着ない。
日本髪を結わない。
下駄や足袋を履かない。
木と土と紙だけで出来た家に住まない。
例えばヨーロッパの国々の人々の様に、街に、生活に、人々の心の中に深く根付いている連面と続く自国の歴史とアイデンティティー。
それが無い。
胸の内の訳の分からぬ空虚さ、芯の無さがもたらすイデアの損失。
何も無い。何も無いのだ。
それはただ単に日本的なモノが身の回りに無いから、という短絡的な問題ではない。
私は女性です。
かつて私の魂が希求する江戸時代に、囲われた特定の町で自由と権利を搾取され、自らの性を代償にして生きていた女性達が居た。(実はそれは現代までも続いている。)
厳密に言えば特定の町以外でも、そして江戸時代以前からも性を代償にして生きていた女性達が居たのは歴史上の事実です。
それは世界で一番初めに成り立った職業だとも言われています。
そしてその成り立ちは人類が二足歩行を始めた歴史とも符合する。(何故?と思った方は御自身で調べてみて下さい。σ(^_^;)?)
そういった歴史的事実と切り離せないこの哀しむべき職業についての解釈の着地点とはどこにあるのか?
…という難しい問題について、答えなどないのだけれど「江戸の遊女」という象徴的な対象に、女性として自ら切り込んで行きたいと思い書き始めました。
舞台は江戸時代初期。主人公は吉原の遊廓、相州屋の太夫、松ノ尾と言います。
タヅと呼ばれた幼名の頃から彼女が辿った太夫としての道を、他の遊女達のエピソードと共に描いていきたいと思います。
ではどうか手慰めに読んで頂けたら幸いでありんす。
序
吉原大門のおとす影はいつも漆黒のように暗い。
夜の闇を忘れさせる程の明るい華やかな行燈の光に照らされてもなお、大門の柱の下には澱んだ血溜りの様な暗黒の陰がおちる。
まるでその陰の中には人を地獄の底に引きずり込む恐ろしい形相の悪鬼が潜んでいるかのようだ。
陰の中には終わりのない苦界の中で毎夜春をひさぐ女達の哀しみが宿っていて、人々に底知れぬ恐ろしさを抱かせるのだと言う人もいる。
行燈に明かりが灯る暮れ六つの前の夕暮れ時、今日もまた廓の二階の窓の濡れ縁に腰掛け、欄干に身体をもたれ掛け虚ろに通りを見下ろしている女がいる。
ゆるやかに結った髪は洗い立ての濡れたまま後れ毛が風になびいていた。
「おあ姐さん、そろそろ夜見世の刻限でござんす。支度をしてくれなんし。」
まだ十を過ぎたばかりの禿が背後から声をかけた。
声をかけた禿はこの太夫付きの幼女だがいつも憧れの眼差しで太夫の側近く仕えていた。
「あいよ。」
女は気だるそうにゆるりと立ち上がった。
黒地に菖蒲の模様の胴抜を身にまとい鶯色の亀甲紋の帯を無造作にだらりにして婀梛に着くずしている。
大きく抜いた衣紋からのぞく襟足に後れ毛がかかっているのが何とも言えない艶かしい風情を醸し出している。
開いた衿元の赤い襦袢はこの花街で毎夜繰り広げられる男と女の鞘当てや色事を想像させるに充分であった。
松ノ尾と呼ばれるこの太夫が相州屋に売られて来たのはあの禿と同い年位の数えで十の時だ。
貧困にあえぐ貧しい農家の明日の糧を得るために娘達が花街に売られて行くのはどこの寒村でも見られた光景だった。
娘達は泣く泣く家族から引き離され女衒と呼ばれる人買いに連れられて町へとやって来るのだ。
特に女衒が欲しがったのは既に大人の体になった十四から十五、六の娘達だった。
すぐにでも客を取れるような年頃でないと金と引き換えには出来ないからだ。
幼い娘が花街に売られて来る場合もあったがその年齢の多くは十よりも前の七つか八つの頃だ。
松ノ尾の様に十を過ぎた幼女が花街に売られて来る事は少なくはなかったが、松ノ尾の場合は通常とは若干条件が異なっていた。
松ノ尾はなぜ十ばかりの幼女の頃に売られて来たのか、どんな家族の中で育ったのか、自らその素姓を人に話す事はなかった。
だが廓の女達はみんなその理由を大方知っていたのだ。
暮れ六つの鐘が鳴り吉原中の通りの行燈に蝋燭の明かりが灯されると、暗闇かけた辺りにぼおっと一つ一つ幻想的な世界が浮かび上がる。
女郎を買いに来た男もひやかしの男も身体の陰影が濃くなって昼間の姿とまるで違う様に見える。
松ノ尾はその不思議な風景を眺めているのが好きだった。
やがて夜見世の始まりの合図の鈴が鳴らされ清掻きの三味線の音がジャンジャンと鳴り響き始める。
この音が鳴り出すと実に風情のない事だと松ノ尾は毎日嫌気がさすのだ。
中之町に明かりが灯されると同時に張見世の格子の部屋の中も沢山の蝋燭の火に照される。
それは目映い程の強い光だ。
遊女の顔や容姿を見極めるには薄暗くては話しにならない。
男達は好みの女の品定めとばかりに今宵の仮初めの妻を沢山の張見世の中の格子部屋の中から探し出すのだ。
選択権はあくまでも男側にある。
遊女には相手を選ぶ権利はない。
客が付かなければ遊女に今夜の儲けはないのだ。
なので遊女達はこの時ばかりは必死に笑顔を作って男達の目に止まるのを待った。
だがその決して本心からではない笑顔とは裏腹に、遊女達の心の中にはどうしようもない程の、身を切るような凍った風が毎夜吹き荒んでいたのだ。
妓楼にはこうして格子部屋の中から男を誘い込み自分の部屋に連れ込む座敷持ち女郎や部屋持ち女郎と、大部屋で衝立を仕切りにそれぞれ男の相手をする下級女郎達が居た。
妓楼の一般的な生業はこうしたものだったが、太夫などの高級遊女達は全く違う形を取った。
まず第一に高級遊女は並の遊女達と一緒に張見世に並ぶことはない。
高級遊女はその美貌の噂だけで江戸では有名だったので、自ら張見世で男客に媚びを売る必要などなかったのだ。
見世の時間の高級遊女は妓楼の中の自分の座敷で優雅に煙管を燻らせながら客との約束の時間が来るのを待った。
客は置屋(見世)と交渉し目当ての高級遊女の了承を得ると初見の日にちが決まる。
そして客はその日の見世の刻限になってから、吉原の中の揚屋と呼ばれる料理屋で豪勢に飲食をしながら派手にドンチャン騒ぎをして遊女が揚屋にやって来るのを待った。※1
つまり高級遊女を買う場合、初手は並の遊女達とは逆に高級遊女の方が客の居る揚屋に出向いたのだ。
豪華な衣装を身に纏い、大勢の付き人を従えて客が待つ揚屋まで歩く高級遊女の列は見物客達の度肝を抜いた。
その高級遊女の美しさは男達の好奇心を掻き立てるだけでなく、女達の羨望の的にもなった。
それは吉原の繁栄の象徴であり憧れと共に江戸庶民の欠かせない巷の話題になっていた。
結果として高級遊女の道中は吉原が繁盛する為の今で言う宣伝効果の役割を成していたのだ。
また高級遊女達の客はただの金持ちだけではなく、当時の文化人や有名役者なども含まれていた。
なので揚屋は高級遊女達を目当てにした文化人や有名役者達が集う高級サロンにもなっていた。
そして客と遊女を雇う置屋の間に茶屋や揚屋という別の商売が入り金持ち客がそこで飲食をする事で高額な利潤が発生する。
それらは吉原の良くできた仕組みだった。
高級遊女(ここでは花魁と呼ぶ)は廓の自室で過ごしながらお呼びがかかると揚屋まで中之町を練り歩く。
中之町というのは吉原の中央に位置する大通りの事で、通りであったが町と呼んでいた。
これが現代でも有名な『花魁道中』と言われるものだ。
しかし花魁が揚屋に着き酒を飲んでいる客の人となりを見て、その客が気に入らなければ何もせず自分の置屋に帰ってしまう。
そうなると二日目以降はもうない。
つまりその金持ち客と花魁との床入もないという事だ。
それでも客は納得しており、一日目の置屋と揚屋に対する高額な金銭の授受は成立したというのだから恐れ入る。
床入が出来なくても「花魁に直接会った」というだけで、江戸庶民の間で羨望の的になったというのだから、それがどれ程の重大事だったのかがよく分かる。
ちなみに江戸初期は花魁ではなく太夫と呼ばれていた。
それは昔伎芸の優れた女歌舞伎役者を太夫と呼んでいた事に起因する。
吉原でも初期は遊女の中でも伎芸に優れた者を太夫と呼んでいたのだ。
この話は吉原の初期を舞台としているので遊女の最高級の位も太夫としている。
太夫が最も地位の高い遊女と呼ばれていたのは美貌はもちろんの事、芸事や華道、書道などにも優れており何より太客との鞘当てや駆け引きに秀でていたからだ。
知識人が多い馴染みの客との会話も決して相手を落胆させる事がなく、打てば響くような頭の回転の良さを生まれ持った女でなければ太夫という地位を保つ事は出来なかった。
太夫の様な優れた高級遊女を持つ廓は吉原の中でも限られていて、数軒の大見世と中見世だけが太夫を看板にする事が出来た。
それはつまり数の論理で多くの遊女を抱えている大店ならその中に太夫になれる才覚のある娘が居る確率が高いという事だ。
しかし一軒の楼閣に最高級の太夫を抱えられるのはせいぜい一人が限度だった。※2
何故なら太夫を幼女から育て上げるには大金がかかったからだ。
それに当時は太夫を宣伝する錦絵(浮世絵)の製作を書店や版元に依頼したり、人を雇って何処かしこで太夫の素晴しさを褒め称える噂を流す仕事を依頼する費用も、並の遊女とは比べ物にならない程である事しかりだった。
それも大金の出せる大見世にしか太夫を置く事が出来ない理由の一つだったのだ。
また逆に大勢の遊女を抱える見世には太夫が居る事の利点もあった。
それは見世の存続にも関わる重大事だった。
太夫の客は何より金払いのよい武家や大きな商家の主や跡取り息子、果ては隠居の爺までが居た為に、太夫相手に一晩にパアッと大枚はたいて遊んでくれれば見世としては申し分無く、その日は端の遊女まで充分な飯を食わす事が出来たのだ。
そんな太客がつけば見世の今後の見通しも利き先々の心配もなかったというわけだ。
その夜の松ノ尾にも予約の客が揚屋で待っていた。
松ノ尾はお付きの禿達を従えて中之町を道中を組んで練り歩いた。
松ノ尾にとって既に幾度となく歩んだ道中だったが、周りの羨望の眼差しを受けながらも毎回少しも心踊る気分にはなれなかった。
揚屋に着くと酒に酔った客の大声が店中に響き渡っている。
同時に芸妓と戯れる声も聞こえて来た。
座敷に入ると今夜の客の御大尽が酒の匂いをさせて上機嫌で踊っていた。
大店の若旦那だそうだが、酒に飲まれているようでは話にならない。
松ノ尾は用意された上座に腰を下ろしたが、酒に酔った真っ赤な顔の若旦那とは目も合わす気になれなかった。
若旦那は松ノ尾の前に跪くと呂律の回らない声で言った。
「これはこれは松ノ尾太夫様、ヒック、噂通りの美形でいらっしゃる、ヒック。お目にかかれて光栄でございます、ヒック。」
それから酔った若旦那は松ノ尾に従ってきた遊女達にもたれかかったり、抱きついたりして松ノ尾の前で醜態を晒した。
どうやら憧れの松ノ尾太夫に会えると思い、緊張をまぎらわすために飲み始めた酒がついつい進んで止められなくなってしまったらしい。
しまいに若旦那は酔った勢いで芸妓が弾く三味線に合わせて松ノ尾の前で卑猥な踊りを踊ってみせた。
松ノ尾太夫は溜息をつくと眉一つ動かさず席を立った。
「太夫?」
お付きの遊女が声をかけた。
「帰るでありんす。わちきがいなくとも既に充分楽しんでおられる様でありんすから。お邪魔でありんしょう。」
松ノ尾は座敷から出て行こうと歩き出した。
「えっ?ヒック、太夫?帰っちゃうのかい?ヒック。」
若旦那は慌てて追いすがろうとしたが、既に千鳥足になっていた足元がふらついて、並んでいたお膳の上に派手にひっくり返り転んでしまった。
するとお膳の上の茶碗や皿が舞い上がりあちらこちらに飛び散った。
それを見て禿や芸妓達が大笑いした。
松ノ尾はその様子を気にも止めず、何事もなかったかのように揚屋を後にして相州屋に帰ってしまった。
もちろん若旦那との二日目の約束は無しになってしまった事は言うまでもなかった。
※1高級遊女との遊興は予約制だったので、高級遊女は張見世に出なくても妓楼内に持っていた自分の部屋で揚屋からの呼出しを待っていれば良かった。
そして高級遊女を買う客の方もそれなりの裕福な者でないと望みを叶える事は出来なかった。
※2一説には吉原の最盛期には遊女が三千から五千人はいたとされるが、高級遊女はその中でわずか4%程度しかいなかったとされている。
今回はここまででやんす。
次回を楽しみに、またぜひ来ておくんなんし。
つづく
この物語の書き出しは「いつか性を代償にして生きて行かざるを得なかった女性達の物語を描いてみたい」という私の無謀な野望に根差しています。
きっかけは学生時代に江戸時代の庶民の生活について調べていた時の事でした。
図書室でその少し後の明治時代に写したとされる膨大な量の当時の写真を集めた写真集を発見したのです。
それは当時日本に滞在していた外国人が硝子板を用いて撮影した写真乾坂タイプの写真の数々でした。
それまで浮世絵でしか見た事のなかった江戸ッ子達が実在の人物としてまざまざと目に飛び込んで来た時の衝撃は今でも忘れられません。
彼等は確かに存在していたのだ!
その喜びたるや、感動を超えて衝撃に近かったのをよく覚えています。
私のルーツがそこには写されていました。
それらの写真を残してくれた、当時日本を訪れた外国人の方々に感謝してもしたりない位です。
そしてやはりその中でも心に強く残ったのは吉原の張見世に並ぶ遊女達の写真でした。
その写真はWikipediaでもどこでも載せている写真なので見た事がある方もいるかも知れません。
その写真に写っている遊女達の顔と彼女達に対して寄せられた外国人の撮影者の方のコメントがその時から頭から離れない。
「彼女達はみな蒼白く無表情な顔をして格子の中で座っていた。」
写真の中の彼女達の顔はまさにその通りでした。
しかしそれと正反対にして時代劇のドラマや映画で描かれる遊女達の表情や仕草は私に違和感しか与えませんでした。
その表情はまるでミス・ユニバースのように自身の美しさを誇示し自信に満ち、かつ男性を惑わすような妖艶な笑みと色気たっぷりの媚びるような仕草をしていました。
それが「遊女として幼い頃から教え込まれた姿態を表現したものだ」と作り手側が演技指導をしたものだったとしても…。
愛情もない、ましてや何をされるかも分からない見知らぬ男とこれから寝所を共にする女の正常な表情とは到底思えなかったのです。
彼女達の顔には虚栄心や底知れぬ享楽を求める表情さえ浮かんでいました。
これはどういう事なのだろうか?
作り手側が現代の「その手の商売」をしている女性達と遊女達を同一視しているのではないか?
そもそも現代の「その手の商売」をしている女性達もそういう表情をするのだろうか?
男性の願望を反映しているだけなのではないか?
遊女とはこういうものだというステレオタイプ的な概念が脳内に刷り込まれて定着してしまっているのではないか?
江戸時代の遊女と現代の「その手の商売」をする女性との大きな違いはその行為に見合った賃金が彼女達に支払われていたか否かだ。
正当な賃金が支払われているのなら大いに魅惑的な表情を浮かべ男性客を虜にするでしょう。
なので遊女達も客に誘惑の目を向ければその日の揚代にもつながり借金を返せる為、そのような色香をふりまいていた、というのはあくまでも男性目線なのではないか?と疑問を感じました。
しかし妓楼の遊女達はそうではなかったと私は思います。
揚代は遊女の収入にはなり得ずあくまでも借金の返済分であり、しかも借金は減るどころか増えていくという鬼畜なシステムの上に成り立っていました。
加えて人権無視の軟禁状態から逃げ出す事は出
来ない。
彼女達は本当は何を思い何を考えていたのか?
知りたい。探りたい。
だからこそ女性の目線から見た遊女達の姿を描きたいと思ったのです。
しかし若輩者だった私にはなかなかその世界に足を踏み込む事が出来ませんでした。
この歳になってようやく彼女達の哀しみに寄り添う精神的余裕が出来てきたのと、年齢と共に感情的に男性批判に結び付けてしまう単純さが消え失せたせいなのではないかと思います。
期せずして最近何だか若い人達の間で花魁文化がウケているようです。
某アニメの影響だという。
本当に解っているのかな?
彼女達はあんなに両肩諸肌脱いだりはしなかったと思うぞ。(笑)
おまけに「江戸時代の花魁に生まれ変りたい。」とのたまう女のコ達がいるそうな…。
あくまでも遊女は「人身売買」ですから!吉原は悪所だったのですから!お願いだからそんな事言わないで下さーい。Σ( ̄ロ ̄lll)
そして私が草稿でこの物語を書き始めた後になって、某国営放送でもこの文化を題材にした大河ドラマを放送すると知りました。(私はテレビを観ないのです。)
その番宣の序文を見た時に驚いてしまったのが、私が書き始めていた物語の登場人物とドラマの登場人物の名前の偶然の類似です。
しかも「相州屋」という屋号は音と字面が良くて気に入り、私が気紛れに付けた架空の妓楼の名前なのですが、これもまた後で調べたら偶然にも江戸時代に実在した版元の名前でした。
そして大河ドラマの主役も蔦重ときた。
正直参ったね。f(^_^ゞ
私は「引き寄せ体質」なので(霊感は全く無い)念が強いと何故か近寄せてしまう。
致し方無いと言えばそれまでですが、敢えて登場人物の名前は変えないでこの物語を書き進めようと思います。
あらかじめ申し上げておきますが、ちょっとグロや悲惨な場面が出てくるのは、同じく学生時代に読みふけった横溝正史氏の作品の影響からであると付け加えてご容赦頂ければ幸いです。
加えまして江戸時代及び吉原についての知識は素人の域を出ない程の低さでありますので、この物語はあくまでもフィクションとしてお読み頂きとうございます。