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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

BL

いぬのこころ

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

「すみません」

 地下鉄の駅のホームで話しかけてきた同世代くらいの女の子は、

「これ、電車、イマ、テカ、とまりますか」

 片言でそう言った。見た目は日本人のように見えたのだが、どうやら外国の方だったらしい。彼女の口にした聞きなれない単語が俺たちの頭に浸透するのに、少し時間がかかった。

「あ、ああ。いまでがわ? ですか?」

 俺の隣で、それらしい駅名に思い当ったらしい対馬さんが丁寧な発音で聞き返している。

「いま、て、かわ」

 女の子も丁寧に答える。

「はい。この電車、今出川、停まります」

 こくこくと頷きながら、対馬さんははきはきとした聞き取りやすい口調で言った。しかし、つられたのか自分も片言になってしまっているのが、なんだかかわいい。

「ありがとございます」

 女の子はそう言って、俺たちから少し離れたところに立って電車を待つ。

「いまの、本当に今出川のことだよね? もし間違ってたらどうしよう……」

 対馬さんが俺にしか聞こえないくらいの小さな声で言う。気が強そうに見えて、意外と心配性なのだ。

「大丈夫ですよ。この路線でそれらしい駅って、今出川しかないじゃないですか」

「そうかなあ。大丈夫かなあ」

 対馬さんは、電車を待つ女の子を心配そうにちらちらと見ている。

「路線図見せたげながら、もう一回確認したほうがいいんじゃないだろうか」

「大丈夫ですって。そこまでしなくても」

「なにを根拠に」

 対馬さんは楽観的な言葉を口にした俺を非難するようにじっとりと見る。

「きっと彼女は異国の地にひとりで心細いはずなんだ。その上、乗る電車を間違えたなんてことなったら、完全におれの責任じゃないか。おれ、こういうの本当プレッシャーなんだよ」

 対馬さんは言って、やはり心配そうに女の子のほうを盗み見るのだ。

「そんなに気になるなら、行ってきたらいいじゃないですか」

「行くって?」

「路線図を見せて説明したいんでしょ?」

 俺の言葉に、

「うん、そうだね。行ってくる」

 対馬さんはそう言って、女の子のほうへ近付いて行って声をかけている。俺はその様子を遠目に見つめる。対馬さんは、女の子に自分のスマホの画面を見せてなにやら話している。きっと路線図を表示しているのだろう。女の子は対馬さんのスマホの画面を見ながら頷いている。対馬さんと女の子はお互い頷き合って、曖昧な笑みを浮かべながらそろそろと離れた。対馬さんはスマホをポケットにしまって、こちらに歩いてきて言った。

「たぶん、今出川でいいと思うんだけど……」

 その声はまだ不安そうだ。

「え、まだ心配なんですか?」

 さすがに心配のしすぎでは、と俺は思う。程なくして、ホームに滑り込んできた電車に俺たちは乗り込む。対馬さんは女の子がちゃんとこの電車に乗ったかどうかを確認していた。吊り革を掴んで、対馬さんは無言だ。きっと、まだ女の子のことを心配しているのだろう。本当に今出川だよな。合ってるよな。なんて思いながら。電車が今出川に到着したときも、対馬さんはそわそわと落ち着かなく視線を辺りにさまよわせていた。女の子がここで降りたかどうか、やはり心配しているのだろう。まるでストーカーだ。やさしいストーカー。

「あ、よかった。あの子、ちゃんと降りてる。やっぱりここで合ってたんだ」

 対馬さんは窓越しのホームにさっきの女の子を見つけ、やっと肩の力を抜いたようだった。安心したように目尻が下がる。対馬さんはもともとたれ目なので、そんな表情をすると、なんだかぬっぺふほふに似ている。ただ、ぬっぺふほふそのままじゃなくて、もっと、だいぶかわいらしくした感じではあるけれど。だけど、本人には言わない。そんな得体の知れない妖怪に似ているなんて言ったら、絶対に怒られる。

「よかったー」

 かわいいぬっぺふほふになって息を吐き出すように呟く対馬さんに、

「ほら、大丈夫だって言ったのに」

 そう言って笑うと、「吉井くんの大丈夫は根拠がないから、信用できない」と、ほんの数センチ、俺を見上げて眉を寄せる。そんな対馬さんを見て、俺の胸はうずく。

 対馬さんはやさしい。誰にでもやさしい。


   *


「吉井くんは、下手だよね」

 以前、対馬さんに言われたことがある。大学に入学して、勧誘されるがままに奇術研究会に入って、それから、三カ月くらい経ったころだった。サークルのボックスでマジックの道具を片付けているときに、声をかけられたのだ。同じ時期に入ったやつらは、とっくにここの人間関係に馴染んでいて、先輩たちとも仲良くやっているようだった。俺だけが、いつもなんとなくひとりでいた。だから、対馬さんも、なんとなく声をかけてしまったのかもしれない。

「もっと練習します」

 確か、三回生の対馬さん。話しかけてきた人物の顔を見て、そう確認しながら俺は答えた。たれ目気味の細い目は柔和そうだが、眉は少しつり上がっており気が強そうにも見える。

 初心者なんだから下手なのは当たり前だ。だけど、トランプの切り方は結構様になってきたんだぞ。マジックの成功する確率も五回に一回から三回に一回くらいには上がっている。下手だと言われたことに、いまさらながら腹が立ってきて、そんなことを考えながらも、相手は先輩なので口には出さない。

「そうじゃなくてー」

 言いながら、対馬さんはたれ目の目尻をさらに下げて笑う。

「吉井くんは、後輩が下手だよね」

「こう、はい?」

 とっさにその言葉の意味が理解できなかった。先輩後輩の後輩のことだろうか、と内心で首を傾げていると、

「うん。吉井くんはさ、先輩にかわいがられたことないでしょ」

 対馬さんは遠慮のない口調ですっぱりと言った。驚いた。当たっていたのだ。

「たとえば、吉井くんと同じ一回生の、乃川くんや山梨くん。彼らは上手だよ、後輩。見ててそう思わない?」

 後輩に上手い下手があってたまるか、と思ったが、確かに乃川や山梨は、先輩たちに上手にかわいがられているように見えた。先輩たちとごはんを食べに行ったり、家に遊びに行ったりもしているようだ。いままでのことを振り返ってみても、俺は未だかつて先輩にかわいがられた記憶がない。というか、先輩と仲良くなったことがないのだ。他の同級生たちが先輩とじゃれ合ったりいっしょに帰ったりしている中、いつも、俺と先輩たちとの間には、見えないラインが引かれているみたいだった。つらく当たられたりはしないから、嫌われているわけではないのだろうが、親しみは持たれていないだろうことは明白だ。

 そういうことに思い至ったら、ショックで、なんだか泣きたくなってきた。後輩に上手い下手があったなんて知らなかった。俺は鼻をすすって、対馬さんの顔を見た。

「どうしたらいいんですか」

 かわいがられ方なんて、わからない。俺よりも少しだけ背の低い対馬さんは、少しだけ俺の目を見上げるようにして、

「どうしようもないよ。性格だもん」

 あっさりと言った。

「先輩にかわいがられない自分と、うまく付き合っていくしかないよ」

 突き放すような言葉だったけど、俺は、「別にそのままでいいんじゃない」と言われているように感じてしまった。

「対馬さんは、俺をかわいがってくれないんですか」

「やだよ。吉井くん、顔がよくてモテそうだもん。そんな後輩、かわいくないよ」

 対馬さんは笑いながら言う。

「かわいくないですか」

 やっぱりか、と、がっかりしてしまう。

「でも、仲良くはしてあげてもいい」

 対馬さんは言った。

「女の子紹介してくれるなら」

「でも、俺、女の子の知り合い全然いないです」

 軽口に答えた瞬間、対馬さんは細い目をカッと見開いて、驚いたように俺を見た。

「うそだろ。吉井くんのその整った顔は、なんのために付いてると思ってんの」

 対馬さんは真剣なトーンでそう言ってきた。

「え」

 戸惑っていると、

「女の子を誘引して捕食するためだろうが」

 半ば本気のテンションで言われてしまう。

「ひとを食虫植物みたいに言わないでください」

 思わず言い返してしまった。

「植物ねえ」

 対馬さんは、なにもない指先からぽろぽろと紙の花を出して見せながら、

「吉井くんは、交配も下手そうだね」

 さわやかな笑顔でそう言った。対馬さんの笑顔がさわやかすぎて、それが下ネタだと理解するのに時間がかかった。理解したのと同時に顔に血が上ってしまい、言葉が出なくなる。

「それも、片付けといて」

 対馬さんは俺に花を片付けさせ、「ほんっと宝の持ち腐れだね」などと言いながら自分はさっさと帰ってしまった。

 それ以来、対馬さんは俺に女の子の知り合いがいなくても、俺と仲良くしてくれている。


   *


「吉井くん。今日、ラーメン食べたくない?」

 対馬さんは、よくこういう言い方をする。初めてそう聞かれたときは、どういう意図で言われているのかわからなかった。だけど二度目から、やっと意図がわかってきた。食事に誘ってくれているのだ。素直に「いっしょにごはん食べよう」って言えばいいのに、と思う。だけど、対馬さんのこういうところを、かわいいと思ってしまうこの感情は、一体なんなのだろう。

 これだけではない。最近、対馬さんの仕草や表情や、いろいろなことを、かわいいと思って見てしまう自分がいる。明るい色のさらさらした髪の毛がただただ風に吹かれて乱れているのを見てかわいいと思ってしまったり、マジックを失敗して照れ隠しなのか、「あれえ?」なんて言いながら首の後ろをがりがりとかいていたりするのが、かわいくて仕方がなかったりする。先日もそうだった。地下鉄の駅を尋ねてきた外国人の女の子のことを最後まで心配していた。そわそわして、大丈夫かなあって、ずっと言っていた。あれは、かわいかった。すごくかわいかった。思い出したら、にやけてしまう。そうしたら、それをラーメンを食べ終わった対馬さんに見つかって、言われてしまった。

「さっきから、なにひとりでにやにやしてんの。気持ちわるいな」

 まだ食べている俺を眺めていたらしい。

「や、別になんでもないです」

 そんなおもしろくもなんともない返ししかできない俺に、

「やらしー。吉井くん、やらしー」

 対馬さんは平坦な口調で言う。それすらもかわいい。

 ラーメン屋を出て、夜の繁華街を歩く。この街は学生が多く、しかも観光地でもあるので年がら年中ひとが多い。人ごみの中、対馬さんと俺は、肩をがつがつとぶつけ合いながら前進する。対馬さんの身体は細いので、肩を抱いたらすっぽりと腕の中におさまってしまいそうだ。そこまで考えて、自分で自分に驚いた。俺はなにを考えているのだろう。肩を抱くなんて発想は、一体どこから出てくるのか。もしかしたら、俺は本当にいやらしいのかもしれない。対馬さんに対してのこの感情は、いやらしいものなのかもしれない。

 隣の対馬さんを見る。やっぱり、かわいい。そこにいるだけでかわいい。

「吉井くん、今日どうしたの」

 対馬さんは特に心配そうに、という感じでもなく、ごく普通に言う。

「どうもしてません」

 答えた俺に、

「じゃあ、あんもち食べよっか」

 対馬さんは言った。なにが「じゃあ」なのかわからなかったけれど、俺は頷いた。対馬さんは餅屋で焼きたてのあんもちをふたつ買い、

「はい、吉井くん」

 ひとつを俺に手渡す。お礼を言って、歩きながらそれを頬張る俺を見て、「元気出た?」と尋ねる対馬さんに、なるほど、心配してくれていたのか、と感動を覚える。感情の高ぶった俺は、考える前に言ってしまっていた。

「好きです」

 言ってから、これだったんだ、と思う。俺は、対馬さんのことが好きなのだ。今まで訳もわからずもやもやしていたこの気持ちは、「好き」という単純明快な感情だったのだ。口に出した途端、しっくりと納得してしまった。ごくん、と口の中のあんもちを飲み込む。

「そっか、よかったねえ」

 対馬さんはにっこりと笑って、そう言った。あれ? と思う。そしてすぐに、そうか、と思った。対馬さんは、俺があんもちを好きだと思ったのだ。

「なんて、ベタな」

 思わず呟く。

「なに?」

 不思議そうに尋ねる対馬さんに、

「なんでもないです」

 俺はゆるく首を振る。


   *


 夕方のサークルボックスで、対馬さんは乃川にテーブルマジックを教えている。その後ろ姿を、俺はじっとりと眺めている。

「これ、むずいっすよー」

 乃川は手をぎこちなく動かしながら笑っている。

「スムーズにできるようになるまで練習するしかないよ」

 対馬さんも笑っている。対馬さんも、乃川みたいな後輩のほうがかわいいのかもしれない。俺からしても、乃川は付き合いやすいやつだと思う。乃川は感じがいい。人懐っこくて、よく笑って、よくしゃべる、そんなやつのほうが、きっとみんなかわいいのだ。そう思ったら、なんだか悲しくなってしまった。

「吉井くん、ナポリタン食べたくない?」

 片付けが終わって解散した帰り際、ボックスを出て扉に鍵をかけていた俺に、対馬さんが、すすす、と寄ってきて言った。サークル棟の廊下には、もう俺たちふたりしかいない。

「食べたいです」

 言いながら、乃川ではなく俺を誘ってくれたことがうれしくて、思わず対馬さんの髪の毛を、少し伸びた襟足の部分を、無意識にさわっていた。いつ自分が手を伸ばしたのか、なんでこんなことをしてしまったのか。気付いたときには遅かったのだ。

「なにしてんの、くすぐったいって」

 笑いながら、対馬さんが言った。指が髪の毛からそれて、対馬さんの首筋をなぞった。

「や、まじでなに。どうしたの、吉井くん」

 対馬さんは驚いたように身体を捩って、ぱっと俺から身を退いた。その仕草を見て、正気に戻った俺は、

「ごめんなさい」

 謝って、ずりずりと後ずさる。

「あ、吉井くん」

 対馬さんが俺を呼ぶ。

「ごめんなさい」

 俺の足は、どんどん後ろへと下がって行く。誰もいない、サークル棟の廊下を、どこまでも後ろへ下がる。

「いいから。怒ってないから。びっくりしただけだって。こっちにおいで」

 対馬さんが言った。それで、俺の足はやっと後ろへ下がるのをやめた。本当に怒ってない? 本当に?

「吉井くん」

 対馬さんが、俺に向かっておいでおいでをしている。俺はそれに従い、対馬さんのそばに戻る。

「甘えようと思ったの?」

 そう尋ねられたけど、自分でもよくわからなかったので、曖昧に頷いた。それをどうとらえたのかわからないけれど、対馬さんは、「そっか」と言った。

「本当、吉井くんは後輩が下手だね」

 対馬さんの目尻が下がる。笑っているのだ。よかった。対馬さんは、まだ俺に笑ってくれる。

「俺、後輩上手くなりたいです。対馬さんにかわいがってもらいたい」

 とっさに出た言葉だったが、きっとこれが、俺の素直な気持ちだ。

「かわいがってるよ。吉井くんはかわいいよ」

 対馬さんは、のんびりと言った。思いもよらぬ言葉に、俺はまた後ずさってしまう。

「なんで下がるの。こっちにおいでって」

 対馬さんは言う。そして、

「懐いてくる犬が、かわいくないわけないでしょ」

 続けられた言葉に、

「いぬ?」

 俺の思考は停止した。固まった俺を見て、対馬さんは腹を抱えて笑っている。


   *


「吉井くんの目をじっと見てるとね、コンタクトレンズが見えるんだ」

 今日の授業が終わり、サークル棟へ向かう途中、対馬さんといっしょになった。そうしたら、俺の目を覗き込むようにして対馬さんが言ったのだ。

「黒目の周りにね、うっすらと水色で透明なのが」

 とっさに目をそらそうとしたのだけれど、無理矢理に覗き込まれるようにして目を合わされて、俺は後ろに下がってしまう。

「ほら、また。すぐ逃げる」

 対馬さんは笑っている。そんなことを言われても、そんなに近付かれたら心臓がもたない。

「吉井くんのパーソナルスペースは、広いよね」

 言いながら、対馬さんはどんどん近付いてくる。俺は焦って、どんどん逃げる。対馬さんは笑いながら追いかけてくる。ちょっとした鬼ごっこみたいになってしまった。そうすると、対馬さんは立ち止まり、俺に言うのだ。

「おいで、吉井くん。こっちにおいで」

 そう言われると、俺は対馬さんのほうに戻らざるを得なくなる。

「吉井くんは、かわいいね」

 その言葉を聞いて、俺は安心して対馬さんの隣に立つ。そんな俺の心の内を知ってか知らずか、対馬さんは何もない指先からあめ玉をぽろっと出して俺のシャツの胸ポケットに入れたりする。

「ご褒美」

 まるで、本当に躾をされている犬みたいだ。

「これ覚えとくと便利だよ」

 対馬さんはもう一度、指先からあめ玉を出して言う。

「合コンとかで使える」

「対馬さんは、なんで奇術研究会に入ったんですか」

 なんとなく尋ねると、

「マジックができるとモテると思ったから」

 そう言って、対馬さんは笑った。

「モテますか」

「や、実際モテないね。マジックどうこうじゃなくて、おれ自身がモテないんだね」

 俺の何気ない質問に対し、対馬さんは自虐的に答える。

「吉井くんは、マジックできたら絶対モテるよ」

「俺は、モテなくていいです」

 対馬さんは心底驚いたように俺の顔をまじまじと見て、

「吉井くん、自分の顔の上に胡坐かいてんなあ」

 などと訳のわからないことを言い、さっさと歩き出す。俺はその後を追う。

「吉井くん、わん」

 おれがすぐ後ろに近付くと、対馬さんが言った。

「わん」

 俺はそう返事をし、お手をするふりをして手を握ってしまおうか、などと考える。対馬さんの手は俺の手のすぐそばで、ぶらぶらと無防備だ。

 対馬さんが立ち止まった。俺もその少し後ろで立ち止まる。

「吉井くん」

 振り向いて俺を呼ぶ。

「お手」

 そう言って差しのべられたてのひらの上に、俺は自分の手をそっと乗せる。本当に握ったりはしないのだ。そして、従順に言う。

「わん」

 対馬さんの目尻が下がる。

「本当、吉井くんは後輩が下手だね」

 対馬さんは言って、俺の手をぎゅうぎゅうと強く握った。

「うわ、ちょ、痛い痛い痛い!」

 痛がる俺を見て、対馬さんはやっぱり楽しそうに笑っている。


   *


「ねえ、吉井くん。なんで今日、眼鏡なの?」

 日の暮れかけた、ふたりきりのサークルボックスで、対馬さんが言った。みんなが帰ってしまった後で、対馬さんとふたりきりになりたくて、わざともたもたと片付けていたときだ。

「昨日、おれがコンタクトのこと言ったから?」

「そういうわけではないです」

 本当は思いきりそういうわけだったのだけど、口では否定する。長机をはさんで向かいに座っていた対馬さんが立ち上がり、迂回してこちらに近付いてくる。思わず逃げてしまいそうになった。でも、腰を浮かした瞬間に、

「ステイ!」

 対馬さんの鋭い一言が放たれて、俺はまた固まってしまう。完全に犬あつかいされている。言うことを聞いてしまう俺も俺だ。

「じっとしててよ」

 俺の隣のパイプ椅子に座った対馬さんはそう言って、俺の眼鏡をそっと外した。

「いいなあ。吉井くんは、眼鏡かけてても顔がいい」

 俺の眼鏡を丁寧な仕草で机に置いて、対馬さんが言う。

「そんなことないです」

 思わず否定すると、

「どのツラ下げて言ってんの?」

 対馬さんが薄く笑う。目尻が下がったその顔を、美化したぬっぺふほふのようなその顔を、俺はかわいいと思う。思ってしまう。

「つ、つ、対馬さん」

 ただ名前を呼ぼうと思っただけなのに、どもってしまった。そして、ただ名前を呼ぼうと思っただけなのに、俺は対馬さんの細い肩を自分のほうへ引き寄せて、抱きしめてしまっていた。以前、想像していたみたいに、対馬さんは俺の中にすっぽりとおさまった。対馬さんの身体は、あたたかい。

「どうしたの、吉井くん。甘えたいの?」

 対馬さんが言う。耳もとで聞こえるその口調が、いつもよりもだいぶ甘くてやさしかったので、怒ってはいないのだと勝手に判断する。対馬さんの手が、俺の背中に回ったことに気付き、驚いた。こんなふうに好意的に反応してくれるなんて、予想していなかった。このまま、キスでもしてしまおうか。そんなことを考えてしまう。

 少しだけ身体を離し、対馬さんの顔を覗き込むようにして自分の顔を近付ける。対馬さんは逃げない。至近距離で、俺たちはただ見つめ合う。このままキスをしてしまったら、対馬さんは怒るだろうか。俺のことを嫌うだろうか、ぎりぎりのところで、やはりそんなことを考えてしまう。

「おれが近付いたら逃げるくせに。自分が甘えたいときだけ、くっついてくるんだね」

 対馬さんが、おかしそうに言う。そう言われて、少し怯む。

「今日は、コンタクトがない。眼鏡だもんね」

 至近距離で俺の目の中を覗いて、対馬さんが言った。

「吉井くん、いま、どこまでなら怒られないか考えてるでしょ?」

 ひそひそとそう言われ、恥ずかしくなった。考えていることが完全にばれてしまっている。

「顔、真っ赤だよ」

 ひそひそ声のままそう指摘され、ますます顔が熱くなる。なにを言えばいいのかわからなくて、俺は口を開いて、また閉じた。

「かわいいね、吉井くんは」

 対馬さんのその言葉を聞いて、俺は対馬さんの細い身体ををぎゅっと抱きしめて、その肩に額をぐりぐりと擦り付ける。

「かわいい、吉井くん」

 対馬さんは鼻にかかったように笑って、甘くてやさしい声でそう言ってくれる。それから、なんでもないような口調で、「怒んないよ」と、対馬さんは言った。

「怒んないから」

 もう一度そう言われて、俺はやっと対馬さんにキスをした。唇を少しかすめるだけの、キスと明言していいのかわからないような、乾燥したキスだった。

「吉井くんは、思いきりがわるい」

 対馬さんはどこか不満そうに言うと、またがるようにして俺の膝に乗っかってきた。パイプ椅子がふたり分の体重を受けてひどい音を立てる。

「吉井くん、もっとしたくない?」

 俺の首の後ろに腕を回して、至近距離で対馬さんが言った。いつもの対馬さんの言い方だ。だけど、この夢みたいな状況が信じられなくて、とっさに反応できず固まってしまった俺に、

「もっとしていいのに」

 対馬さんは、わかりやすくそう言い直した。

「怒んないから」

 駄目押しの、その甘ったるい言葉で、俺は我を忘れて対馬さんに食らいつく。



ありがとうございました。

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