信長、ヒトラーを拾う
1945年4月30日、ドイツはベルリン市の総統地下壕にて。
この日アドルフ・ヒトラーは、最期の瞬間を迎えようとしていた。
正確には自らの意思によって、だが──
「私もここまでか……」
静音とした自室の中で、ヒトラーは椅子に座りながら悄然と呟く。
ヒトラーとエヴァが自害したあと、自分達の死体はあとで燃やすよう部下達に伝えておる。ムッソリーニのように逆さ吊りにされて死体を衆目に晒さられるくらいならば、ここで燃えカスになった方がマシだ。連合軍の手に自分の死体が渡りなどしたら、どんな扱いを受けるかわかったものではない。
「しかし、エヴァにだけは申しわけない事をしてしまったな……」
そばのソファで横たわる最愛の女性……エヴァ・ブラウンに穏やかな目を向けながら、ヒトラーは自嘲じみた笑みを浮かべる。
エヴァはすでに亡くなっている。「必ず君の後を追う」と誓ったあと、毒薬(青酸カリ)を飲んで先に逝ってもらった。せめて最期の時くらいは、一人でこれまでの人生を振り返りたかったのだ。
永遠の眠りについた愛しのエヴァを静かに眺めながら。
「こんな事なら、もっと早く君と式を挙げるべきだった。本当ならもっと華やかなドレスで着飾りたかっただろうに……急に今日の早朝に二人きりで式を挙げる事になってしまって、本当に不憫な真似をしてしまった」
唯一救いがあるとすれば、それでもエヴァは幸せそうに微笑んでいた事だろうか。
あの笑顔が見れただけでも、ヒトラーの胸に渦巻く暗雲がわずかでも晴れるような気分だった。
それこそ人物絵は苦手だったヒトラーが、初めて自分の手で絵に残したいと思ったくらいに。
──結局残ったものは、エヴァだけだったという事か。
椅子に深くもたれながら、ヒトラーは心中で独白する。
両親はすでに他界した。兄妹はいるが、今は妹のパウラとたまに手紙のやり取りをする程度だ。自分が死んだあとは色々と苦労もあるだろうが、芯の強いパウラの事だ──きっとなんとかなるだろう。
友人はいたが、それは過去の話。今となってはその友人も何をしているかわからない。元気にしているだろうか。
仲間と思っていたゲーリングら幹部にも裏切られ、ヒムラーを始め親衛隊の奴らすら信用できなくなってしまった。
──これもすべて、私の思想を理解しようともしない連中と、ナチズムに値しないドイツ人に最後まで希望を委ねてしまったせいだ!
腹立ちまぎれに目の前のデスクを叩く。叩いたと同時にデスクの端に置いていた自殺用の拳銃が落ちそうになったのを見て、ヒトラーは慌てて拳銃を手に取った。しかもその際、デスクの端に手をぶつけて。そんな自分に思わず失笑を漏らす。
「まったく、思う通りにいかないものだな。人も国も己の身体すらも……」
極度のストレスと地下壕の引き篭もり生活ですっかり体が衰えたせいか、距離感すら掴めにくなっているらしい。ただでさえ人の支え無しでは三十歩も歩けないほどの体調不良だというのに、満足に怒りをぶつける事すらできないのか。
実に無様だ。いっそ滑稽だ。
一体なんだったのだろうか、自分の人生は──
「薬は……今さら飲む必要はないか」
胸ポケットに仕舞ってあった毒物を取り出し、デスクの上に置く。
軍医であるハーゼには薬を服用したあとの拳銃自殺を勧められたが、気が変わった。
確かに薬を服用した方が確実に死ねるのだろうが、どうせ頭を撃ち抜く事には変わりないのだ──だったらせめて、最期の時くらいは薬に頼らず、潔く己の手で終わらせたい。
それが自分にできる、唯一の抵抗のようなものなのだから。
「抵抗……抵抗か。ふっ。今この時になっては誰に向けての抵抗なのか、わからなくなってきたがな……」
連合軍に対するものか。
はたまた自分を見放した神に対してか。
まあいい。もうどうでもいい。エヴァは死んだ。この世に守るべきものなんて何もない。自分の思想を実現できなかった事だけは未練だが、今の世界ではどうにもならない事は痛感させられた。今さらどうにもならない。
握ったままでいた拳銃の銃口をこめかみに当てる。弾は全弾入っている。失敗はない。先に待つのは己の死のみ。
「エヴァ……今から君の元へ逝く」
ソファで仰向けになっているエヴァの穏やかな死に顔を眺めながら、ヒトラーは引き金に指を掛け──
【──本当にそれでいいのかい?】
と。
どこからともなく突如として聞こえてきた声に、ヒトラーはハッとした顔で指を止めた。
「誰だ!? どこから話している!?」
【こことは別の次元──と言ったところで理解はしてもらえないか。そうだね……君が想像できないほど遥かに遠い場所から交信しているとでも思ってくれたらいい】
相変わらず姿は見えないにも関わらず、老人とも子供とも男とも女とも判別できない不可思議な声に、ヒトラーは厳しく周囲を見回しながら、
「どういう意味だ? というより、貴様は何者だ? そもそもどうやって私と話している? 連合軍の新兵器か何かか?」
【だから、そういうのではないよ。と言ったところで納得してもらえないだろうから……仕方がない。じゃあこうしようか】
そう言った直後──ほとんど刹那の時だった。
何もいなかったはずの目の前の景色に、子供のようなサイズの白い影が現れたのは。
「っ!? い、いつからそこに!? いやそれ以前に、その姿は一体……!?」
衝動的にデスクを叩いて立ち上がった。その際デスクの上に置いていた毒物が落ちてしまったが、今は突然現れた白い影にしか目が行かなかった。
【君があまりにもボクの存在を気にするものだから、こうして影だけ出してあげたんだよ。これで少しは落ち着いて話せそうかい?】
「ちょっと待ってくれ……。これは一体なんなんだ。私は幻覚でも見ているのか……?」
【幻覚でも夢でもないよ。現に、不眠による頭痛が今でも続いているだろう? 痛感があるという事は脳が覚醒しているって事さ】
「な、なんでそれを……。誰からか私の体調の話を聞いたのか?」
【誰にも話なんて聞いちゃいないよ。ボクは何でも知っているし、何でもできるのさ】
その証拠に、と白い影は指を鳴らした。
【ほら、さっきから壁時計の針がぜんぜん動いていないだろう? ボクが時を止めているのさ】
言われて、弾かれたように壁時計を見る。
確かにさっきまで時を刻んでいたはずの壁時計が止まっている。
一瞬トリックかと疑ったが、一切手を触れていなければ近寄りもしていないにも関わらず、時計を工作する事など可能なのだろうか。
では催眠の類い? もしくは何かしら機械による遠隔操作?
いや、違う。本当に時間が止まっているのだ。
なぜなら──
「落としたはずの薬が宙に止まったままだと!?」
見間違いなどではない。先ほど落としたはずのカプセル状の薬が、見えない糸で吊るしているかのように宙で静止していた。
「バカな……まさか本当に時間が止まっているというのか……!?」
【正確には時を止めているんじゃなく、亜空間の中にいるだけなんだけどね。亜空間の中なら時間なんて関係ないから】
「亜空間……?」
【あ、一応言っておくけど、亜空間と言っても別に害はないから心配はないよ。安心してくれていい】
それはともかく、と白い影は見えない椅子に座るかのように宙で足を組んで頬杖を突いた。
【君、ここで終わるつもりかい? てっきり君には是が非でも叶えたい野望があるとばかり思っていたんだけれど?】
「野望……野望か。この状況を見ても、同じ事が言えるのか?」
【まあ、割と詰んでいる状況ではあるね】
「割とじゃない。完全に詰んでいるとしか言い様がないだろう、こんなもの」
フッと自嘲的に笑んで、ヒトラーは手にしていたまま拳銃をデスクに戻した。
「ドイツはすでに連合軍の手に落ちた。ベルリンまで攻められ、もはやなす術がない。こうして地下壕に引き篭もって、いずれここで死ぬか、連合軍に捕まるのを待つ以外にはな」
【だから連合軍が来る前に自死を選んだってわけか。最後のプライドってやつ?】
「……まあ、そんなところだ」
背もたれに首を預けつつ、見るともなしに天井を眺める。
一体何が起きているのかはわからないが、まさかこうしてエヴァ以外の人間に心中を吐露する日が来ようとは。今まで考えてもみなかった。
いや、案外誰かに話を聞いてもらいたかったのかもしれない。ここに来る前にすでに遺書は口述で認めてはいるが、自分の思想の正当性とドイツの今後の事くらいしか伝えていない。
つまり、自分の奥底にある心情だけはまだ語っていなかった。
その相手が、まさかこんな正体不明の人知を超えた存在になろうとは思っていなかったが、逆にちょうどよかったかもしれない。何者かはわからないが、こいつは自分にだけ興味を示しているようだし、他の人間に吹聴する事もないだろう。憶測でしかないが。
「私はただ、このドイツをより良い国にしたかっただけなのだがな。なぜこうなってしまったのか……」
【反省しているのかい? 自分の行いに】
「いや」
首を振る。はっきりと、一瞬の逡巡もなく。
「あの時ああしていれば、こうしていればという後悔はある。が、これまでの行いを反省した事など一度たりともないし、まして間違った事をしたとは微塵も考えた事はない」
【そうかい】
見間違えだろうか。白い影がニヤリと笑ったように見えた。
人の形を象っただけの影なので、表情などまるで窺えないが。
【面白いね君は。ずっと見ていたけれど、やっぱり面白い】
「ずっと見ていた……?」
【うん。それこそ君が生まれた時からずっとね】
「……貴様は本当に何者なんだ?」
もはや同じ人間という認識はなかった。ありえるとしたら幽霊か精霊の類いか。どちらにせよ、不気味で好事家な奴という印象は変わらなかった。
【ボク? そっか、呼び名がないと不便か。じゃあYとでも名乗ろうかな】
「Y? 何かのイニシャルか?」
【それは君の想像に任せるよ。それはさておき、だ】
言って、白い影改めYはおもむろに立ち上がった。
【君はこのまま死ぬには惜しい。実にもったいない。だから、君にチャンスを与えたいと思うんだけど、どうだい?】
「チャンス? なんだ、時間でも戻してくれるとでも言うのか?」
【そう言っているつもりだけど?】
半信半疑で訊ねたつもりだったのたが、予期せぬ肯定に面食らうヒトラー。
──時間を戻せる? そんなバカな。いや、だがしかし、だったらこの状況をどう説明する? どんな科学を持ってしても、こんな超常じみた真似が今の人類にできるか? それこそ神でもない限り……。
神──だとしたらキリストになるが、目の前にいるこいつとは似ても似つかない。そもそも神たるキリストがこんな飄々とした奴であるはずがない。もっと別の何かのはずだ。
だとしたら、何だ? 人間でもなければ神でもないとするのなら、悪魔とでもいうのか。
悪魔──悪魔か。
仮に悪魔だとしても……こいつと契約する事によって取り返しのつかない不利益を被る事になったとしても。
それでも。
それでも時を戻せるのだとしたら──
「だったら戻してほしい。私がバイエルン陸軍に志願する前まで」
毅然と言い放った。
相手がたとえ悪魔だったとしても、自分の野望が叶えられるのなら躊躇いはなかった。しかもエヴァともまた会える。これで決断しない方がおかしい。
【バイエルン陸軍? 第一世界大戦の頃に戻りたいのかい? 第二じゃなくて?】
「いや、バイエルン陸軍に志願する前でいい。」
【ふぅん? まあいいや。ともあれ、なんでバイエルン陸軍に志願する前?】
「私の野望を叶えるには、ドイツそのものを変える必要がある。そのためにも、あの戦争で負けてはならなかったのだ。ベルサイユ条約などという一方的に略取されるだけの条約を結んだせいで、ドイツのすべてが狂い出した。あの時からドイツ人の負け根性が染み渡ったと言っても過言ではない。ゆえに、私が政界に進出する前ではすでに遅いのだ」
【なるほどねぇ】
「で、どうなんだ? できるのかできないのか?」
【できるよ。けれど──】
と、そこでYがヒトラーをジッと見つめてきた……ような気がした。相変わらず白い影のままなので、表情は読めないが。
しかしながら、あくまでもヒトラーの想像でしないが、まるで面白い玩具を見つけたような、そんな幼子じみた表情を浮かべた気がしたのである。
【それじゃあ、ちょっと面白みに欠けるよねぇ】
などと、Yがそう言った瞬間。
それまで天井しか見えなかったはずの頭上に、まるでぽっかりと穴が空いたように真っ黒な空間が突如として出現した。
「──っ!?!? な、なんだこれは!?」
【次元の狭間だよ。過去へと繋がる入口でもあるけどね】
「タイムスリップ! じゃあ本当に私を過去に戻してくれるのか!?」
【うん、そうだよ】
首肯するYに、ヒトラーは歓喜に打ち震えた。
本当に戻れるのか。ドイツがまだフランス含む連合軍に負ける前の時代へ……!
【ただし】
と。
胸中で喝采を叫んでいた中、そんなヒトラーの出端を挫くようにYが語を継いだ。
【今から君が行くのは、四百年近く前の日本だけれどね】
「なっ!? どういう──」
意味だ、と真意を訊ねる前に、ヒトラーの体がひとりでに浮き出した。いや、ヒトラーだけではない。ヒトラーが使っていた椅子やデスクまでがフワフワと無重力の中にいるかのごとく宙に誘われている。
おそらく行き先は、頭上にある深淵のように暗い巨大な穴。
しかも、その先に待つのは──
「待て! なんのつもりだ! 私をバイエルン陸軍に志願する前に戻すのではなかったのか!!」
【それはそれで興味はあるけれど、未来の知識を持った状態で無双されても正直白けるんだよね。ただ単にこの戦争が起きる前や、君が生まれたばかりの頃に戻すのは面白くない。それならもっと昔の──いっそ別の国に行った方が面白いと思わない?】
「ふざけるな! そんな事を頼んだ覚えはないぞ! わけのわからない時代のよく知らぬ国に行かされるくらいなら、ここで死ぬ方がマシだ! 私はエヴァの後を追うと約束したのだ!」
【さっきまで過去に行く気満々だったくせに?】
「その過去にエヴァがいない上に、ドイツですらない過去の国に行って何の意味がある! 私はアーリア人の復興にしか興味はない! それが無理だというならここで死ぬだけだ!」
【死ぬ死ぬうるさいなあ。どうせ死ぬくらいなら、ボクにその命をおくれよ。面白可笑しく使ってあげるからさ】
「何を戯けた事を! いいから私を戻せ!」
【まあまあ。物は試しってやつで一度行ってみてごらん。人生観、変わるかもよ?】
などと言い合っている内に、ヒトラーの身体が徐々に次元の狭間へと吸い込まれていく。ソファーで永眠しているエヴァだけを残して。
「やめろ! 今すぐ私を下ろせ! 私をエヴァの元に戻せ!!」
【どれだけ怒鳴ろうと宙で暴れようとも無駄だよ。もう決定事項だからね】
怒号を飛ばし続けるヒトラーに、Yが無慈悲に言葉を返す。ついには完全に次元の狭間の中に入ってしまったヒトラーを愉快げに見上げながら。
【あ、そうそう。ひとつ言い忘れていたけど、ささやかながら君にプレゼントを送っておいたよ。どんなプレゼントかは、着いてからのお楽しみって事で☆】
「──────!!!」
【うんうん。喜んでもらえて何よりだよ。遠くに行き過ぎて、なんて言っているかはわからないけど】
いけしゃあしゃあと宣うYの姿が次第に小さくなっていく。こちらの声が一切届かなくなるほどに(不思議と向こうの声は聞こえるが)。
そうしてYの姿が完全に見えなくなってきたあたりで、
【さあ、新しい歴史の始まりだよ。戦乱が続く過去の日本で君はどんな人生を歩むのかな、アドルフ・ヒトラー?】
と、最後にそんな飄々とした声が聞こえたような気がした。
*****
気付けば、知らない森の中に立っていた。
「ここは……」
茫然自失とした面持ちで、ヒトラーは周囲をしげしげと見つめる。
見渡す限り一面の緑。右も左も、見上げた景色にも青々とした木々しか瞳に映らない。ドイツにも当然ながら森はあるが、ドイツとはどこか違う緑や土の匂いがするのは、ここがYの言うところの過去の日本だからだろうか。
「日本……そうか。ここは日本なのか……」
自分で口にして、改めてここがドイツではないのだと認識してしまった。
いや、まだ森の中にいるので、本当にここが日本なのかどうかもわからないままなのだが。
──そもそも日本に行った事すらない私が……まして過去の日本の写真すら目にした事がない私にしてみれば、アジアの国々を区別できるほどの見識もないのだがな。
いっその事、あれは夢か幻だったのだと思えれば気持ちの整理も付いたのだろうが、残念ながらこれは現実なのだという何よりの証拠がそばに置かれていた。
ここに来る直前までヒトラーが使用していたデスクと椅子が。
「エヴァは……やはりいないか」
地下壕での隠遁生活中、ずっと愛用していたデスクの馴染みある手触りを確認しつつ、ヒトラーは意気消沈と頷く。
──あいつ……Yとか言ったか。一体私に何をさせるつもりなんだ。こんな何も知らない土地で私を独りにさせて……!
思い返すだけで実に腹立たしい。こちらの話を一切聞かず、一方的にヨーロッパですらない過去の日本になんて送り込んだYには、あとで必ず何かしら報いを受けさせるつもりだ。
もっとも相手はこちらの常識が通用しない埒外の存在なので、今はまだ反逆する術が見つからないが。
「とりあえず、念のため銃は携帯しておくか……」
ここが本当に日本なのかどうかは定かではないが、どちらにせよ、どんな危険が待っているかわかったものではない。
と、拳銃を背広の懐に仕舞ったところで、ヒトラーはふと自身の体の異変に気が付いた。
「おかしい。数分以上立っているはずが、まるで疲れを感じない……」
それだけではない。隠居生活中ずっと続いていた頭痛や手足のしびれ、果ては百キロ近くあった体重の象徴とも言える豊満な腹が、総統になったばかりの頃のようにスリムになっている(不思議な事にスーツのサイズはそのままに)。
「そうか。Yが言っていたプレゼントとはこれの事だったのか……」
過去の日本にタイムスリップさせるにしても、以前の不健康な体ではまともに歩けなくて不便とでも思ったのだろう。
まあ奴の事なので、あちこち動き回ってくれた方が見ていて面白いと考えた可能性の方が高いが。
「奴は、こうしている間も私の様子をどこかで見ているのかもしれないのか……」
改めて周囲を見回すも、Yの姿は影も形もない。元より人知を超えた存在なので、探すだけ無駄な気もするが。
それはさておき。
「ここからどうしたものか……。右も左もわからない土地で、私にどうしろと言うのだYの奴は……」
何にせよ、ここで突っ立っているだけではどうにもならない。何もしなければ飢え死にするだけだ。
兎にも角にも人を見つけなければ。これからどうするかはその時考えたらいい。
「しかし、人に会うにしてもこんな森の中では……」
こういう自然の中で下手に動くと却って危険とも聞くが、偶然人が通りがかるとも考えにくい。どんな危険な野生動物がいるともしれないし、とりあえず近場で人がいそうな痕跡でも探すべきだろうか。
などと考えを巡らせていた最中、そう遠く離れてはいない距離から足音が聞こえたような気がした。
しかも、これは──
「蹄……? 近くに馬がいるのか?」
かつて競馬にハマっていた自分だからこそわかる。これは馬が駆ける音だ。
この蹄の音から察するに、いるのは一頭だけ。野生の線もあるが、一頭だけなら人が乗っている可能性が高い。
しかもこの蹄音、だんだんと近寄って来ている。好機と呼ぶべきかどうかは判断に迷うところだが、どちらにせよ人と接触する必要はあったのだ──相手がどんな者であれ、ここで退く理由はない。
とはいえ野盗という線もある。万が一に備え、いつでも銃を撃てるようにしておくべきだ。
そう思案し、次第に大きくなる蹄音に耳を澄ませながら、ヒトラーは懐に仕舞っておいた拳銃に手を伸ばす。
果たせるかな、やがて馬を駆っていた者が颯爽とヒトラーの前に現れた。
最初の印象は、精悍な顔付きをした壮年の男といった感じだった。
切長の双眸に、整った鼻梁。ヒトラーとはまた違う威厳のある髭を蓄え、いかにも凛とした──ともすれば泰然自若とした威容を放っている。
そして腰には、小耳に挟んだ程度の情報でしかないが、日本人がよく好んで持ち歩くという刀らしき武器が携えられていた。
──これが噂に聞くサムライという奴か。なるほど、Yが言っていた通り、どうやらここは本当に日本のようだ。
などと不躾にジロジロと見つめていたのが悪かったのか、目の前の男が馬に跨ったまま、射竦めるような視線をヒトラーに向けて、
「その風貌、南蛮人か。どこから来た?」
「ナンバンジン……?」
なんだそれは。何かの呪文か?
「答えよ。どこから来たと訊いておる」
「いや、私が逆にここはどこだと訊ねたいくらいなのだが……」
思わずそう答えたあと、ヒトラーはハッとした顔で片耳に触れた。
──日本語が理解できている……?
バカな……ありえない。日本語なんて勉強した事もなければ、まともに日本人と会話した事すらないというのに。
にも関わらず、さながらドイツ語のごとく、すんなりと相手の言っている事がわかる。
しかも、言語がわかるのは自分だけではなかったようで、
「何? ここがどこかと申すか? そなた、迷い人か何か?」
と訊ね返してきた。
──そうか。これもYの言うところのささやかなプレゼントのひとつという事か。ふん。心底憎たらしい奴ではあるが、これに限ってはなかなか憎い真似をしてくれる。
それはそれとして、さて、何と返答したものか。
確かに、ここがどこだかわからないという意味ではまさしく迷い人と言えるが、さりとて自分の意思でここまで来たわけではない。
あくまでもヒトラーは無理矢理ここへ連れて来られただけなのだ。それもどことも知れない四百年は前の日本に。
かと言って、そのまま説明したところで理解できるはずもない。十中八九、正気を疑われるだけだ。
「どうした、何故答えぬ。まさかこちらの言っている事がわからぬというわけではあるまい。先ほども流暢に日の本の言葉を話しておったのだからな。それこそフロイスよりも達者であったぞ」
誰だフロイスとは。聞いた事もない人名を出されても困る。
しかしながら、このまま黙考ばかりもしていられない。おそらくはこの男、身振りからしてそれなりに高い地位にいる人間と見える。だとすれば、今後の事も考慮して出来るだけ懐に潜り込んでおきたい。
「……はい。実は初めてこの国に来たのですが、途中で道に迷ってしまい、こんな森の中に来てしまいました」
「そなた一人でか?」
「いえ。案内人もいたのですが、金目の者だけ盗んでどこかに去ってしまい……」
「ふむ。それはとんだ不届者がいたものだ。さぞ途方に暮れた事であろう」
とっさに吐いた嘘八百だったが、どうやら信じてくれたらしい。
──よし。私の弁舌もまだまだ衰えてはいないようだな。下手に出るのだけはどうも慣れんが。
元来、人に指図されるのも上から物を言われるのも嫌いな性分だったのもあって──やたら厳格だった父のせいに違いない──さっきからどうにも胃のあたりがムカムカしてくるが、しかしながら、ここで本性を曝け出すのはさすがに悪手でしない。ここは嫌でもぐっと堪えるしかないか。
「して、その方の後ろにある物は何だ? 先ほどからずっと気になっていたのだが」
言われて、ヒトラーは後ろを振り返った。
そこにあるのは、タイムスリップ時に一緒に運ばれたデスクと椅子。そして引き出しの中に入っている雑貨諸々だった。
「ああ、これは…………この国で商売をする際に運ばせていたものだったのですが、さすがにこんな重い物までは持ち去れないと思ったのか、私と共にここで置いていかれたのです」
「なるほど。商いでこの地に来訪してきたのか。どれ、わしも一度見せてもらおうか」
言って、壮年の男が軽やかに馬から降りて、手綱を引きながらデスクへと近寄った。
「ほう……このような座卓を見るのは初めてだ。このいくつもある四角い箱も気になるが、それよりも奇妙なのは、この動く椅子! 極上な座り心地もさる事ながら、よもや椅子ながら自在に動けるとは! これは愉快じゃ! 呵々《かか》!!」
ヒトラーの私物を不躾にあちこち触れたりしながら嬉々として感想を述べる壮年の男。何だかよくわからないが、このデスクや椅子、もといワーキングチェアがいたくお気に召したらしい。
「その方、商いに来たと申しておったな。この品々、わしに売る気はないか?」
「これらを、ですか?」
「うむ。この品々、他の者に売らせるには惜しい。ぜひとも我が物にしたい。それとも、すでに売り手が決まっておるのか?」
「いえ、まだ決まってはおりませんが……」
というより私物なので売る気なんてさらさらなかったのだが、どのみちこのままでは文字通りのお荷物にしかならないのは事実だ。
そうなるとここで処分してしまった方がいいのだろうが、しかし、ここで金銭に代えたところでまだ価値基準がわからないし、そもそもどういった物がこの国で流通しているのかさえ知らない身である。まずは衣食住の確保が最優先と断じるべきだ。
「でしたら、ぜひ貴方の住居でしばらく厄介になる事はできませんか?」
「何? わしの屋敷にか?」
「はい。先ほども説明しましたが、この大きな荷物以外はお金も食糧もない状態なのです。何せ右も左もわからない国なので、まずは安心して生活できる場所が欲しいと思いまして」
「ならば国へ帰ればよいだけではないのか? 道がわからぬのなら、あとで使い者を出して案内させてやってもよいのだぞ」
「いえ、さすがにこのまま帰ったのでは故郷の者達に笑われてしまいます。それに私がこの国へ来たのも、単に商いがしたいという事ではなく、見聞を広めたいという目的もあるのです」
「ほう。見聞とな」
興味深そうに顎髭を撫でる壮年の男に「はい」と首肯するヒトラー。言わずもがな、嘘である。
そうして逡巡するように木漏れ日へと視線を流したあと、壮年の男は「ふむ」と頷いて、
「あい、わかった」
とワーキングチェアに座ったまま膝を叩いた。
「わしとしても、お主の話に興味がある。さすがにわしの屋敷は無理だが、客人としてわしの城に迎えるくらいはしてやろう。衣食住に関しては、わしの家臣にでも任せるか。それだけの値打ちがこれらにはあるからな」
城……?
今こいつ、城と言わなかったか?
「城……というのは、どういう……?」
「どうもこうも、言葉通りの意味だが?」
言葉通りの意味……つまりこの男は、城主という事になるのか?
──先程からやたら態度がでかいと思ってはいたが、なるほどな。身なりも見た事はないが、道理で仕立ての良さそうな衣類を身に付けているわけだ。
「よし。そうと決まれば、わしはいったん城に戻るとしよう。わしだけでこの荷は運びようがないからな」
「え、私は……?」
「お主は暫しここで待っておれ。すぐに使い者を寄越す」
言うや否や、男は再度馬に跨り、踵を返した。
どうせならその馬に乗せてくれたらよいものをと考えもしたが、さすがに城主と相乗りというのは無礼にあたるかと思い直した。
仕方がない。ここで使い者とやらが来るまで一人待つとしよう。
とそこで、男は何かを思い出したようにヒトラーの方を振り返って、
「おお、そうじゃ。まだお主の名を聞いておらなんだな。そなた、名はなんと申す?」
「アドルフ・ヒトラーです」
「ふむ、ヒトラーか。あい、わかった」
「……そういう貴方は?」
相手が城主という位の高い人間なので、一瞬訊いていいかどうか迷いつつも、おずおずと質問してみると、男はニヤリと広角を上げて居丈高にこう返した。
「わしは織田信長──いずれは天下人となる男の名じゃ」
*****
しばらくして信長が言っていた通り、使い者もとい馬に乗った壮年の男がヒトラーの元にやって来た。
男は川上竹郎太と名乗り、他にもヒトラーのデスクや椅子を運ぶための人手もお供にしていた。
「では、さっそく我らだけでも岐阜城まで参りましょうか。ささ、ヒトラー殿。どうぞわたしの後ろに乗ってくだされ」
「では、遠慮なく」
言って、竹郎太の手を借りながら馬のせに跨るヒトラー。
「ところで竹郎太殿。先ほどの岐阜城とは?」
「お屋形様──信長様のお城ですよ」
柔和に目元を緩めながら、竹郎太は馬を進める。
愛想が良いというか、顔が面長で若干垂れ目でもあるせいか、こっちの気まで緩んでしまいそうになる。どうやら信長の家臣のようだが、とても出世できるようなタイプには見えなかった。
おそらく、この人懐っこい雰囲気に信長も絆されてしまった部分もあるのだろう。
「いやー、それにしてもしかし、本当に日の本の言葉が達者でございますな。お召し物もフロイス殿とはまた一風変わっておりますし、お屋形様が気に入るのも無理はありませんな」
「あの方……信長様は、いつもああいう感じなのですか? 自由奔放と言いますか、仮にも城主のような偉いお方が、護衛も付けずに一人で出歩いたりとか」
「あー。あれに関しては苦言を呈する者もいるのですが、なにぶんお屋形様は昔から一人であちこち出歩く癖があったようで……。そのせいでよく周囲から『うつけ者』と揶揄されていたようです」
まあ、それも今も変わらずですが──。
そう苦笑しながら、手綱を操る竹郎太。
どうやら織田信長という人物は、だいぶ豪胆無比であるようだ。
などと長々と会話を交わしている間に、いつしか森を抜けていた。
そして、森の先に広がっていた景色には──
──町! 山頂にある大きな城のような建物の下に、大きな町がある……!
まだだいぶ距離こそあるが、遠方の山にある白い建物と、その付近に整然と並ぶ住居が見える。おそらくあの白い建物が、竹郎太の言う岐阜城とやらなのだろう。
てっきりもっと小さい城を想像していたのだが、まさかここまでの規模の──それも城下町まであるような領地とまでは思っていなかった。
そう素直に感想を吐露すると、竹郎太は可笑しそうに破顔して、
「あっはっはっ。岐阜城を初めて見た者は大概ヒトラー殿と同じ事を仰いますなあ。まあ、あれを目にしたら無理はありませぬ。金華山山頂にある岐阜城を一度見れば、いかな名のある武将といえど、そう易々とは攻めますまい」
それはヒトラーでもそう考える。山登りですら大変だというのに、その上、岐阜城から襲いかかってくる軍まで相手をしなければならないのだから、相当な根気と兵力が必要になるのは想像に難くない。
──つまり敵国の侵略を想定した城という事か。最初は四百年前のアジアの小国という印象しかなかったが、なかなかどうして昔の日本も油断ならないものがあるな。
それにあの城、遠くから眺めても実に計算された美しさがある。昔は建築家も目指していた事もあって、あの城は非常に興味深い。非常に好奇心を擽る。
「もっとも築城されたのはお屋形様ではなく、今よりさらに昔の二階堂行政が砦として築いた時代からだそうですが、それを斉藤利永殿が整備され、のちにお屋形様が勝ち取って岐阜城と改めた経緯がありまして」
「にかいどう? それにさいとう、とは?」
「あ、これはこれは申しわけありませぬ。日の本の歴史をよく知らぬヒトラー殿にはわからない話でございましたな。噛み砕いて言えば、歴史ある城と思っていただければそれで充分でございますよ」
「なるほど」
と頷くヒトラー。そして今度は城下町の方に目を向ける。
「それにしても、随分と賑わっているようですな。活気がありますと言いますか」
「ええ。楽市令(楽市楽座)を出されてからというもの、市場が一段と活気付きまして。それと町に川があるのですが、それを水運として利用しているおかげもあって、物流も盛んなのです」
──どうやら信長は軍事だけでなく、経済にも秀でているようだな。なかなか頭が切れるようだ。
「それはそれは、良い領主に恵まれましたな」
「まことその通りで、お屋形様ほど日の本の行く末を考えている人は他におりませぬ」
と心底嬉しそうに口許を綻ばせる竹郎太を見て、ヒトラーはかつての部下達の顔をふと思い浮かべた。
──私にも部下はいたが、ここまで信頼を寄せてくれた者が果たしていただろうか。敢えて言うならゲッベルスだろうが、奴は私が懐柔したようなものだ。一種の洗脳だ。それを信頼と呼べるだろうか?
遺書でゲッベルスに首相を任せると綴りはしたが、果たして上手くやってくれているだろうか。彼はヒトラーに心酔(それこそ、家族共々ヒトラーがいる地下壕に移り住むほど)心酔していた節があったから、自分の死体が無いのを見て、妙な気を起こさなければいいのだが。
「──ラー殿。ヒトラー殿」
と、物思いに耽っていたせいか、竹郎太に呼ばれていた事に遅まきながら気が付いた。
「あ、はい。どうかされました?」
「いえ、そろそろ町の中に入ると伝えたかっただけなのですが、急に黙り込むものですから、如何されたのかと」
「これは失礼。少し考え事をしてしまいまして」
「そうでございましたか。まあ、これからお屋形様が待つ本丸に赴くわけなのですから、気を張るなという方が無理な話でしょうな」
「これから信長様の元へ向かわれるのですか?」
「ええ。お屋形様にそのままヒトラー殿を本丸までお連れて来るよう言い渡されておりますので」
「ちなみに『ほんまる』というのは?」
「あの城の中央にある櫓の事です。そこでヒトラー殿を待っているとお屋形様が申しておりました」
「わかりました。では、そこまでお願いします」
ヒトラーの言葉に「御意」と首肯した竹郎太は、信長が待つ本丸へと馬を向かわせた。
*****
竹郎太の先導の元、本丸へと入っていくつか階段を上った先の豪奢な内装の板敷きの間(竹郎太曰く、対面座敷というらしい)に織田信長はいた。
「信長様、ヒトラー殿をお連れいたしました」
平伏する竹郎太に、信長は一番奥の演壇のような小高い所で胡座をかきながら鷹揚に「うむ」と頷いて、
「ご苦労だった竹郎太。お主はもう下がってよいぞ」
「ははっ。失礼いたしまする」
再度頭を下げたあと、竹郎太は足早にどこぞへと去ってしまった。
この間、ヒトラーはずっと信長の前に立ち尽くしていた。竹郎太のように平身低頭になるべきだろうかという考えも一瞬過ぎリはしたが、別段信長の子分でもなし、自分はあくまでも客人として迎えられた立場なのだから、ここは変に謙るよりは普通に立っていた方が無難だろうと判断しての直立だった。
そもそも日本の礼儀作法など──まして四百年前のマナーなんて知るはずもないのだから、おたおたと下手な真似事をするよりは堂々としていた方がまだ無難だろう。
「ヒトラー、よくぞ参った。そなたも座るがよい」
「……では、失礼して」
肘掛けで頬杖を突く信長の前に、ヒトラーもゆっくり腰を下ろす。
正座の習慣なんてないので、信長のように胡座をかいてみたが、特に咎められるような事はなかった。
これがマナーとして正しいのかどうかはわからないが、少なくとも機嫌を損ねたりはしなくて済んだようである(単に外国人だから仕方がないと見逃してもらえただけかもしれないが)。
──欧米のようにテーブルがあればわかりやすかったのだがな。日本人は皆、床に座るものなのか?
「して、ヒトラーよ。どうじゃ、我が岐阜城は」
「そうですね……この国の城は初めて見ましたが、こんなに立派なものだとは思ってもみませんでした」
これは素直な感想だ。ドイツにだってシュヴェリーン城やヴァルドブルク城のような歴史ある重厚な城や宮殿はあるが、この岐阜城も違った趣きがあるというか、負けず劣らず荘厳な建築物だと思う。
内装もどこも煌びやかで、この座敷も周りが金箔だらけで実に絢爛豪華だ。
ヒトラーの趣味ではないが、建築物としては非常に興味をそそられる。
「そうであろう、そうであろう。わしも気におっておる。特にこの天守はな」
「てんしゅ?」
「この御殿の事よ」
と、ここで信長がおもむろに立ち上がった。
「ヒトラーよ。何故わしが天守を気に入っておるか、お主にわかるか?」
「いえ……」
「ならば、こちらまで来てみるがよい」
言いながら廊下側へと歩んだ信長は、吹き抜けになっているベランダのような所で立ち止まった。
「ここまで来れば、お主にもわかる」
と、こちらを振り返りもせずに言った信長に、ヒトラーは訝しみながらも言われた通りに歩みを進める。
そうして信長の横に並んで吹き抜けから景色を何気なしに一望したところで、ヒトラーは思わず息を呑んだ。
「これは……!」
「呵々! 絶景であろう! 天守から眺める御嶽山と長良川は!」
確かに、遠くを見据えた先に美しい緑の山々と、眼下には群青に染まった川が視界に広がっている。城下町も景観を損なわない程度の高さで住宅が並んでおり、ヨーロッパのように煙突がないおかげか、煙臭くもない。これほどまでに気持ちよく景色を眺められたのは一体いつぶりだろうか。
──連合軍がベルリンを攻めてきた頃にはずっと地下壕にいたからな。いや、私が総統になった頃にはすでに日常に忙殺されていたか。そういう意味では、こんな穏やかな気分で雄大な自然を見るのは、かなり久方な気がする。
「元は斉藤道三という者の城であったのだが、同盟を結んでおったその道三が討ち取られてな。その後は同盟も破棄同然となって幾度か戦を交えたのだが、こうして紆余曲折の果てに我が城となった」
と。
壮大な景色に目を奪われていたヒトラーに、信長が不意に口を開いた。
「戦をしておった時は、何度も天守からの眺めを想起していたものだが、実に期待を裏切らぬ景色であった。やはり山の頂に築城しているだけあって最高の眺めじゃ。この金華山はもちろん、御嶽山も長良川もわしの領地になったのかと思うと尚の事な。
だが、わしはこれだけで満足するほど安い男ではない。近い内に日の本全土──いずれは高麗や明も我が手中に収めたいと思っておる」
高麗や明というのがどの国の事かはわからないが、話の文脈を読むにアジアのどこかなのだろう。
「それが今のわしの野望だ。どうだ、そなたは無謀だと思うか?」
依然として景色を眺めながら問うてきた信長に、ヒトラーは黙考する。
──こいつがどういう人物なのかはまだ掴みきれんところはあるが、少なくとも王としての器を持っているのは間違いなさそうだ。こいつには人を惹きつける何かと、目的のためならばどんな手段も選ばない豪胆さがある。
そんな男が、他国にも手を伸ばそうとしている。かつてのヒトラーのように。
いや、ヒトラーとは少し違うか。ヒトラーはあくまでも卓越した人種であるアーリア人のための帝国を築こうとしていた。それが東ヨーロッパにおける唯一正しき道と信じて他ならなかったからだ。
だが信長は違う。この男は自分が欲するままに国を奪おうとしている。我が覇道に迷いなしと言わんばかりに。
まさに傲岸不遜。ヒトラーもよく独裁者などと非難されたものだが、信長ほど傍若無人ではなかった(はずである)。
何にせよ、信長ならできるような気がする。大した根拠はないが、他国をも統べる未来の信長の姿が鮮明に思い浮かべられる。
それだけのカリスマ性が、信長にはある。
「無謀ではないかと」
ややあって、ヒトラーは答えた。
まっすぐ、信長の横顔を見据えながら。
「貴方なら、その野望を叶えられると思います」
「呵々っ!」
と。
ヒトラーの返答に、信長は大口を開けて大笑した。
「そうか。そなたなら、そう返してくれると思ったぞヒトラーよ」
「それは、また何故……?」
「直感よ。わしの勘がそう言ったのだ」
直感。
つまり単なる勘だけで、かつてヒトラーに宿っていた野心を見抜いたとでも言うのだろうか?
──それだけ信長と私が似ているという事なのかもしれんな。思想や性格は違えど、内に秘めたる熱情のような何かが。
「して、ヒトラーよ」
と、それまで景色だけを直視していた信長が、ここに来てヒトラーを横目で見て、
「この町でそなたは見聞を広めたいと言っておったな。どうじゃ、この美濃で得るものはありそうか?」
そういえば、そんな事も言ったか。あの時はとにかく信長の警戒を解くために出た嘘だったのだが、案外良い経験ができるかもしれないと思っている自分がいる。これも岐阜城に来たおかげだろうか。
──いや、存外こいつと知り合ったおかげかもしれないな。この信長という男、暴慢ではあるが、なかなか底が知れない部分があって素直に興味深い。
そう考えてみると、この町で住むのもありかもしれない。それに何より、それにこの町の領主である信長に取り入っておいた方が何かと都合も良さそうだ。
「そうですね……正直に言えば、知らない国なので不安な部分も多くありますが、この町でなら、なんとかやっていけそうな気がします」
「であるか」
ヒトラーの言葉にフッと口許を綻ばせたあと、信長は踵を返して、
「にしても、最初にそなたを見た時は驚いたものよ。あの時はよもや天人かと思うたもんでな」
「てんじん……?」
ニュアンスからして、天使のようなものだろうか。
「いやなに、単なるわしの錯覚よ。そなたが居た所に稲光が走ったものでな、この晴天に雷とは面妖なと訝って来てみれば、そなたがいたというわけだ。おそらくあれは、わしの見間違いだったのだろう」
なるほど。偶然立ち寄ったにしては奇妙だと思っていたが、この時代にタイムスリップした際に閃光か何かが走ったのを信長がたまたま目にしていたというわけか。
「ひとまず、そなたには南蛮の品々を譲ってもらった礼もあるゆえ、しばらくここでの生活に苦労はさせぬから安心せい」
と、元の位置へと戻った信長は、再度肘掛けに体重をかけて言葉を発する。
「当面の住まいに関しては竹郎太めに任せようと思うておる」
「川上……殿にですか?」
慣れない敬称に苦心しつつ、ヒトラーも再び信長の前に座って聞き返した。
「うむ。見た目こそ頼りない顔をしておるが、あれでも機転の利く奴だ。そなたに不自由はかけまい。それとも、あれでは不服か?」
「いえ。普通に生活できるのであれば、どこでもありがたいです」
本音を言えば元の近代的な生活に戻りたいところではあるが、そこまで高望みはすまい。
それに、信長の部下である竹郎太の家に住めるのなら、そこらの庶民よりもよっぽど良い待遇を受けられるに違いないのだから。
「であるか。では、わしとの会談もこれで終わりだ。あとは竹郎太の屋敷にて長旅の疲れをゆっくり癒すとよかろう」
そう言って緩慢に立ち上がった信長を見て、ヒトラーは感謝の念を込めて小さく頭を下げた。
*****
Yによって四百年前の日本にタイムスリップさせられてから、約半年あまりが過ぎた。
この間、ヒトラーは竹郎太の屋敷に厄介になりながらも、ぼんやりと時間を無駄に浪費するのもなんだったので、日本語の読み書きの勉強(Yの不可思議な力によって何不自由なく会話できるようにはなったが、読み書きだけはちんぷんかんぷんのままだった)や日本の常識や宗教観の見聞、馬乗りの練習などに費やしていた。
そうしてヒトラーが徐々に日本の生活に慣れていく中で、信長は次々に他の城を攻めては領地を広げていた。
竹郎太も何度かその戦に加わったようで、
「ヒトラー殿、聞いてくだされ! 此度の合戦における信長様の見事な采配を!」
などと当時は嬉々として語っていたが、その後、同盟を結んでいた浅井長政という人物に裏切られた時はさすがに意気消沈としていた。それだけ信長と長政との親交が深かったのだろう。信長の妹である『お市』という女性が嫁いでいるらしいので、ショックもさぞや大きかったに違いない。
そんな紆余曲折もあった中、ドイツで総統をしていた頃が夢や幻であったかのように、ヒトラーは平穏な日々を過ごしていた。
だが一方で、信長陣営の方は心中穏やかというわけではないようで──
「はあ……」
「どうされました竹郎太殿。そんな溜め息を吐いて」
川上竹郎太の屋敷──そこで夕餉に舌鼓を打っていた時だった。
所用があったとかで珍しく自身の屋敷に帰ってきた竹郎太と食卓を囲んでいた中で、不意に漏らされた溜め息にヒトラーは眉を顰めた。
「珍しいですね。いつも陽気な竹郎太殿が気難しい顔で溜め息を吐かれるなんて。何か苦手な物でも入っていたのですかな?」
「あ、いえ、これは失敬。別段苦手な物があったわけではございませぬ」
言って、竹郎太はおもむろに箸を下ろした。
「そういうヒトラー殿こそ、こちらの食事にもずいぶんと慣れた様子でございますな。箸もいつの間やら器用に扱えるようになって」
「幼子のように手掴みで食べるにもわけにもいきませんからな。まして汚らしい食べ方をしては、それこそ子供に笑われるというものです」
などと微笑しながら、箸で掬った米を口に運ぶヒトラー。
箸使いにはしばらく難儀させられたが、使いこなせれば存外フォークよりも便利である事に気が付いた。今では焼き魚(利根川で獲れた魚)も綺麗に骨を覗けるレベルである。
ただ、未だにこの米というのだけは慣れない。何せまったく味がないのだ。
パンならば噛んだ瞬間に甘味が来るが、米にはそれがない。何度か懸命に噛めばやがて甘味も出てくるのだが、正直そこまで噛む気にはなれない。というより顎が疲れる。
そのため、ヒトラーはよく野菜か魚と一緒に食べるようにしていた。パンが無ければケーキを食べればいいとマリー・アントワネットは言ったらしいが、パンも無ければケーキもない中世の日本では、腹を満たすのに米で我慢するしか他なかった。庶民は米と味噌スープしか出ないと聞くし、副菜が出る分だけまだマシかもしれないが。
──ベジタリアンの私にとっては、決して悪い環境というわけでもないのだがな。しかしながら、こんな食事でどうやって日本の力士はあんな丸々と太れるのだろうか。不思議でならん。
それとも、力士にだけ振る舞われる特殊な料理でもあるのだろうか。日本には餅という食べ物もあるらしいし、もしかするとそれのおかげかもしれない。
などと詮無い事を考えつつ咀嚼した米を飲み込んだあとで、
「それで竹郎太殿。何かお困り事でもおありなのですか?」
「困り事……」
ヒトラーの問いに、竹郎太はオウム返しに呟いたあと、何やら渋面になりながら瞼を閉じた。
「困り事というほどのものでもないのですが、しかし悩ましくはあると言いますか……」
「悩みですか? それは具体的にどのような?」
「いえ、客人であるヒトラー殿に聞かせるような話ではないので……」
「客人だからこそ気兼ねなく話せる事もございましょう。どうか私はその辺の木や石とでも思って話してみてください」
「よろしいのですか? 食事時に話すような内容でもございませんが……」
「全然構いませんよ。むしろ、こうしてお世話になっている身としては少しでも竹郎太殿に恩を返せればと常々思っていたくらいですから。それに私で解決できるかどうかはわかりませんが、口に出してみるだけでも案外スッキリするかもしれませんよ?」
「そういうものでしょうか?」
「ええ。何なりと話してみてください」
「では、お言葉に甘えて……」
言って、竹郎太は神妙な面持ちになりながらヒトラーの方へと体の向きを変えた。
「……実は、お屋形様の事で苦心惨憺としておりまして」
「信長様の事で?」
「はい。浅井長政殿の件はすでにヒトラー殿もご存知でございましたよね?」
「ええ。竹郎太殿からも話を伺いましたから」
「その件で、お屋形様がたいそうご立腹なされておりまして──ヒトラー殿は此度の戦、どこまで存じております?」
「志賀の陣……もとい浅井、朝倉両軍との戦の件ですよね? 確か京にまで迫ろうとしていた浅井と朝倉両軍の動きを察知した信長様が、石山本願寺との戦いを中断して京に戻った事までは町民の噂などで知っております。その後、浅井、朝倉両軍はどうなったのですか?」
「今は共に延暦寺で匿われております。一応、延暦寺の僧を招いて中立を保つよう説得したのですが、まるで応じてくれず。最悪、延暦寺の焼き討ちも辞さないと書状も送ったのですが……」
それでも返答は得られず、というわけか。
「なるほど。それはさぞや信長様も腹に据えておられるでしょうね……」
天上天下唯我独尊を地で行く信長の事だから、今や怒髪天を衝く勢いで腑が煮えくり返っているに違いない。
──自分に楯突く者に対して、信長は激情に駆られやすい傾向にある。焼き討ちの件も、信長なら実際にやりかねんな。
「それで、信長様は今どちらに?」
「明智光秀殿、佐久間信盛殿と共に比叡山を囲んで包囲網を敷いております。わたしも浅井軍が東岸に南下しないよう、これから横山城に出向いて守備に徹する予定です」
「それはそれは、大変重要な任を受けましたね」
「まことに。ですがわたしよりも信長様の御心の方が心配でございます。一刻も早く落着してくれるとよいのですが、何とかならないものか……」
せめて浅井、朝倉を寺から追い出す方法さえ見つかればと懊悩する竹郎太に、ヒトラーは人知れず沈思黙考し始めた。
──浅井と朝倉の兵を追い出す方法、か。もしもこれに成功すれば、信長からの信頼を得る事に繋がる。それもかなり強固な……。これは、いよいよ私も動くべき時が来たのかもしれないな。
この半年ばかり、ヒトラーは常々考えていた事がある。
自分はいつまでこうしていられるのだろうか、と。
今は信長の命もあり、客人として厚遇を受けているものの、いつまでこの状態が続いてくれるかはわからない。信長の機嫌次第では今日この時でさえ町から追い出される可能性もある。ろくに家も持ってなければ金銭すら持っていないヒトラーとしては、何かしら職に就くまではどうにかしておきたい。
──職、職か。私に出来そうな事と言えば、絵を売り歩くか軍人になるかの二択しかないが……。
この時代の日本で、ヒトラーの写実的な絵がどこまで受け入れるかは未知数。となると、あとは軍人になるしかないわけだが、問題はどんな役職に属するかだ。
出来ればナチスを率いていた時と同様の総統クラスか、もしくは最高指揮官に値する位に就きたいものだが、いきなりそんな上層部に行けると思えるほどヒトラーは楽観的ではない。日本人ですらない自分は、地道に足軽から始めるしかないように思える。
──だがしかし、それだけはごめんだ。伝令兵ならいかんなく私の実力も発揮できようが、刀の振り方も知らぬ私が戦に加わったところで犬死にする未来しか見えない。何とかして初手から上官クラスになる必要がある。
そのために必要な事──それも一生安泰して暮らせるようになるには、それだけ高い地位の者に傅く必要がある。
具体的に言うならば、この国の天下人として君臨できるだけの逸材の者に。
とどのつまり──
──信長に私の功績を認めさせる事。家臣にしたいと思わせるほどの手柄を上げさえすれば、路頭に迷う事もない。
となれば、あとは実行に移すのみ。
手始めに──
「竹郎太殿、折り入ってお願いがあります」
と。
藪から棒に頭を下げたヒトラーに、竹郎太は少し驚いたように眉を上げて、
「お願い、とは?」
「私を信長様の元まで連れて行ってくれないでしょうか?」
「お屋形様の元まで? 客人であるヒトラー殿が何故お屋形の元まで……」
「延暦寺の一件、私に腹案があるからです」
「……腹案とは、一体なんでございましょう?」
「それは信長様にお目通りさせてもらえた時にご説明いたします。色々と準備もありますので」
「準備でございますか? ですがどちらにせよ、客人であるヒトラー殿を軍場にお連れするわけにも……」
「私の事ならどうかお気になさらず。信長様には路頭に迷っていたところを助けていただいたご恩もありますから。その恩を返すべき時がついに来たのだと思った次第です」
ちなみに嘘である。一応感謝していないわけではないが、あれはヒトラーの私物を交換に岐阜城へと案内してもらっただけ──つまりはギブアンドテイクの関係だったのだ。
ゆえに感謝の念こそあれど、恩を返したいというほどの熱意は皆無。この四百年前の日本で生き抜くための建前でしかない。
しかし竹郎太は、そんなヒトラーの嘘八百をすっかり信じきったようで、
「おお! なんという報謝の心!」
と感動に震えている様子だった。
「わかり申した! ヒトラー殿のそのご恩に報おうとするお気持ち、しかと受け取りました!」
必ずや、この竹郎太がお屋形様の元まで無事にお連れましょう!
そう言って胸を叩く竹郎太に、ヒトラーは「ありがとうございます」と頭を下げた。
******
「ヒトラーよ、久方ぶりだな」
竹郎太との夕餉から数日経った、とある屋敷にて。
ヒトラーは今、念願叶って信長との面会を果たしていた。
その屋敷は岐阜城と比べるのも烏滸がましいほど質素な趣きではあるが──こちらでは畳敷きになっており、壁は板張りだった──それでもヒトラーでもわかる程度には質が良い。まず手触りからして違う。さすがは信長の屋敷と言ったところか。
その信長ではあるが、終始ヒトラーに背を向けて、夜の篝火で照らされた庭園を眺めていた。何かに思い馳せるようにというよりは、何かを睨み付けるような物々しい雰囲気で。
「美濃から遠路はるばる馬を駆けて来よるとは、ずいぶんとヒトラーも日の本の暮らしに慣れた見える。わしが岐阜城から離れて以来、竹郎太から話を聞く程度であったが、息災であったか?」
「はい。これも信長様の温情のおかげでございます。今日まで信長様への感謝を忘れた日はございません。きっとこの先も私の胸の中に刻まれる事でしょう」
「ずいぶんと世辞も上手くなったものだ。お主もそう思うであろう、竹郎太よ」
この信長の問いかけに、横に揃って控えていた竹郎太と光秀が平伏した姿勢のまま声を発する。
「まこと仰る通りで。ヒトラー殿を屋敷に迎えるようになってから、その成長ぶりには驚かされてばかりでございます。お屋形様の元へ駆け付けた際も、ご自分で馬を操れるようにまでなりまして」
「ほう、馬をか。よく竹郎太の後ろに乗せていた頃が懐かしく思えるようだ。そういえば──」
と。
何かを思い出したように、信長は竹郎太の横で同じように平伏している五十過ぎの男に横目で視線を送った。
「光秀よ。そなたはヒトラーと会うのはこれが初めてであったか」
「はっ。南蛮からのお客人が川上竹郎太殿の屋敷にいらっしゃる事はかねがね聞き及んでおりましたが、対面するのはこれが初めてでござりまする」
深々と頭を垂れながら口上を述べる光秀に、ヒトラーは目を細めた。
──こいつが明智光秀か。確か将軍である足利義昭の付き人で、今は信長の家臣という……。歳は私とそう変わらなそうだが、噂通りの四角四面な男と言った感じだな。
「で、ヒトラーよ。竹郎太から話は聞いたが、延暦寺から浅井と朝倉の兵めらを追い出す腹案があるというのはまことか?」
と脈絡なく本題を切り出してきた信長に、ヒトラーはすぐに光秀から意識を外して、慣れない正座で居住まいを正しつつ首肯した。
「はい。まことでございます」
「して、その腹案とは」
やはり詳細を訊いてきたか。
まあ当然と言えば当然ではある。いくら腹案があると言えど、所詮は客人でしかないヒトラーの言をそのまま真に受けるはずもないのだから。
まして戦局を左右する重要な場面で、下手な行動を取るわけにもいかないはずだ。それが信長のような大将ともなれば、なおさらに。
──おそらく竹郎太の進言あっての事だろうな。でなければ、こんな緊迫下で私と会うはずもない。
とはいえ出来れば実際に延暦寺に行くまでは、色々と理由もあって作戦内容を隠しておきたかったところではあるのだが、こうなっては仕方ないか。
幸い、こういう時に備えて用意していた物がある。
「信長様、一度御目にしていただき物がございます」
ヒトラーの言葉に、信長は厳めしい面持ちでゆっくり踵を返した。
そんな信長にヒトラーは一切怯んだ挙動は見せず、懐から長方形の小さな物体を取り出した。
「……? なんじゃそれは?」
「懐中電灯という代物でございます」
「ほう。それはどういう物であるか?」
「では、少しおそばに寄らせていただきます」
無言で頷く信長。それを確認したあと、ヒトラーは楚々と信長の横に並び、篝火だけで照らされた暗い庭園に向けて懐中電灯を点灯させた。
「! 火も焚かずに灯りが……!」
「火を使わず暗闇を照らす道具──これが懐中電灯にございます」
と、瞠目する信長に言葉を添えるヒトラー。
そばで見ていた竹郎太や秀吉もたいそう驚いたようで、二人して口をあんぐりと開けていた。
「こやつめ、あのデスクやチェアーとかいう品以外にもこんな物を隠し持っておったか」
「信長様に隠し事をするなどと恐れ多い。しかしながら大変貴重な上、私の思い出深い品のため、口には出せなかった事をお許しください」
これは別段嘘というわけではない。今となっては世界に一つしかない品であるし、地下壕で暮らしていた際もいざという時にいつもデスクの中に備えていた懐中電灯でもある。
使う機会こそほとんどなかったが、ヒトラーにとっては地下壕暮らしを共にした思い出深い品である事には変わりない。
──念のため、信長にデスクを持って行かれる際に取り出しておいて正解だったな。まさかこんな形で使う日が来ようとは思ってもみなかったが。
「まあよい。して、その懐中電灯とやらでどうするつもりだ? 興味深い品ではあるが、闇夜を照らすだけでは浅井と朝倉めを延暦寺から追い出す事など到底果たせぬぞ」
「正規の使い方をするつもりはございません。これを脅しとして使う所存です」
「脅し? その松明もどきでか」
「──はい。織田陣営が南蛮から取り寄せている新兵器として」
新兵器という発言に、信長は「ほう」と何かを察したように口端を吊り上げた。
「なるほどな。虚言を用いて僧どもの恐慌を誘う腹づもりか」
「左様です」
「しかし、そんな簡単に通用するとでも?」
「奴らは信長様と違い、南蛮渡来の品に馴染みがございません。これが銃器の類いでないかどうかは判別できないはずです。しかもそれが多大な脅威になるかもしれないと恐れを抱かせれば、間違いなく浅井と朝倉という厄介者を寺から追い出す事でしょう」
「………………」
信長が無言でヒトラーの顔を見遣る。矯めつ眇めつ心の奥底を見定めるように。
しばらくして──
「あい、わかった」
と、信長は太ももを打ち鳴らした。
「ならばヒトラーよ、そなたの策にて延暦寺から浅井と朝倉の兵どもを追い出してみよ。見事成功した暁には、好きな褒美をもたらす」
「はい。必ずやご期待に応えましょう」
「いや、あの、お屋形様?」
ここで竹郎太が、恐る恐ると言った態で小さく声を発した。
「それはつまり、ヒトラー殿を使者として延暦寺に向かわせるという事でございますか? いくら何でもこの見た目では門前払いされるだけでは……」
「たわけが。むろん、変装させてから行かせるに決まっておろうが」
「変装って、私がですか? それはまた何故?」
「奴ら仏僧は、伴天連を嫌っておるからだ」
ヒトラーからの質問に、信長が吐き捨てるように答える。
「いや、嫌っておるのはわしの方か。何せ伴天連の布教を認めたのはこのわしだからな。奴らにしてみれば邪教を広めた大罪人とでも言ったところか」
つまり、いかにも南蛮人と言わんばかりのヒトラーの風体では、たとえ織田の使者として延暦寺に行ったところで、すげなく追い返されるだけというわけか。
「というわけで竹郎太、ひとまずはお主の着物を貸してやれ。あと、名もな」
「はあ。着物はともかく、名を貸すとは?」
「そのままヒトラーと名乗らせるわけにもいかんだろう。お主ならばそれなりに名を知られておるし、竹郎太として名乗れば、向こうでも無碍にはせんはずだ」
「気付かれないでしょうか? 背格好や声で……」
「案ずるな。どうせ奴らは、馬に乗ったお主の姿を遠目からしか見た事がないだ。むろん、声も良く知らぬはず。あとは戦で負傷したとでも申して顔を布などで隠せば気付かれはせぬ」
「なるほど。しかし、ヒトラー殿だけで行かせるおつもりで?」
「いや、光秀も共に行かせる」
この信長の発言に、光秀は寝耳に水とばかりに両目を見開いた。
「わ、わたくしがお供に、でございますか?」
「なんじゃ、不服か?」
「お、お言葉ですが、将たる自分があまり長々と陣から離れるというのは得策ではないかと……」
「奴らがこのわしと本気で事を構えようとしているとでも? それも二、三日で動きを見せると──お主はそう言いたいのか?」
「い、いえ、そうは思いませぬ……」
恐縮するように深々と低頭する光秀に「ならば問題はあるまい」と信長は嘲笑混じりに鼻を鳴らした。
「そもそも、延暦寺を焼き討ちにすべしと脅せば延暦寺の奴らも浅井と朝倉の軍を追い出すはずと提言したのは、光秀、お主のはず」
信長の言葉に、ヒトラーは一瞬耳を疑った。
──光秀が延暦寺の焼き討ちを提言しただと? 信長が自ら恐喝を仕掛けたわけではなかったのか?
「ゆえに、わしは光秀の案に乗った。それがこの有り様だ。この状況をどう申し開きするつもりなのか、今日はお主にその事を訊ねたくて呼び寄せたのだ」
「た、大変申しわけございませぬっ!」
心の臓すら射抜くような信長の鋭い視線に、光秀はますます恐懼して畳に額を当てた。
「わたくしの見立てでは、いかな荒くれ者どもが集う延暦寺と言えども、寺を焼くと脅せば即刻浅井と朝倉の両軍を追い払うであろうという算段だったのでありますが……」
「言い訳はよい。まだお主に挽回の気概があるのならば、ヒトラーと共に延暦寺へ赴き、浅井と朝倉めの兵らを追い立ててみせよ。さすれば、此度の失態は不問とする」
「ははっ! かしこまって候!」
威圧する信長に、光秀は一度顔を上げたのち、再度頭を下げた。
*****
翌日。
信長の指示通り、着物を借りて竹郎太に扮したヒトラーは──ちなみに鼻から下は布で覆ってある──行縢の下に小袖を着用している光秀と、十人ほどの馬廻衆と共に、延暦寺へと向かっていた。
昼過ぎからの出発で、馬を走らせれば一時間で着く距離らしいが、ヒトラーは敢えてゆっくりとした歩調で進んでいた。
その事に当然ながら疑問を抱いた光秀が、
「何故、馬を走らせぬでござるか?」
と訊ねてきたのだが、ヒトラーはこう返答した。
「それは、夕刻の方が都合が良いからです」
「都合が良いとは?」
「人は疲れがあると判断力が鈍るもの。そして大抵の者は夕刻まで何かしら体を動かしています。その疲れが溜まった頃に交渉を持ちかけます」
黄昏時効果──という言葉がある。
これは夕暮れ時になると労働や学業などの疲労感により思考力や判断力が鈍るとされる心理用語であり、そのため交渉事をする際に夕暮れ時を狙うと成功率が上がるとされている。
かくいうヒトラーも、総統時代の演説によく使っていたテクニックである。
「なるほど。相手に冷静な判断をさせないための一計でござるか」
「その通りです」
などという会話を挟みつつ、ヒトラーは馬を乗りこなしつつ、隣りに並ぶ光秀を観察していた。
──見ている限り、信長への忠誠心は一応あるようだが、それだけではないように思える。何か腹に一物あるというか、反抗心とはまた違う暗い感情が見え隠れするな……。
中でも一番印象的だったのは、信長からヒトラーと共に延暦寺へ行く事を命じられた時だ。
一見、信長に気圧される形で平伏していた光秀であったが、横にいたヒトラーはしかと眼に映していた。
信長に頭を下げた際、屈辱そうに歯噛みする光秀の顔相を──。
本当に信長への忠誠心が厚かったら──それこそ竹郎太のように全幅の信頼を寄せていたならば、あんな形相になっていなかったはずだ。つまりそれは、信長に対して少なからず反感を抱いている事を指す。
元は将軍である足利義昭の家臣と聞くし、本当に心から忠義を尽くしたい人物は信長以外の他にいるのかもしれない。
そんな光秀であるが、馬に乗りながら時折こめかみを揉むような仕草を繰り返していた。それも辛そうな呼気と共に。
その挙動に心当たりがあったヒトラーは、懐から小袋を取り出して、
「光秀殿、よければこれをどうぞ」
「? ヒトラー殿、この小袋は……?」
「私がよく使っている頭痛薬が入っています。これを飲めば、いくらか具合も良くなる事でしょう」
ヒトラーの言葉に、光秀は驚いたように眉宇を上げた。
「お気付きでござったか……」
「ええ。私も昔はよく頭痛に悩まされていたものですから」
ちなみにこの頭痛薬も、信長が持って行く前のデスクから、あらかじめ取り出しておいたものだ。
この四百年前の世界に置いて、ヒトラーがいた未来の薬はかなり貴重となるはず。それこそ調合すら不可能な物もあるはずだと思い、主に薬を重点にいくつか持ち出していたのである。
──もっとも、Yによって今や健康体になった私には、今のところ使い道はないのだがな。
「おお。これが南蛮の薬……漢方とは違って煎じ薬ではなく、このような固形なのでござるな」
小袋の中身を興味深そうに見ながら言葉を発する光秀に、
「はい。水と一緒に飲んでいただければ、じきに効果が出るかと」
「左様でござるか。では、おひとつ頂戴いたす」
言って、光秀は頭痛薬を口に入れ、水の入った竹筒を取り出してゴクゴクと飲み込んだ。
そんな光秀を視界に入れながら、「ところで」とヒトラーはおもむろに話を切り出した。
「なぜ光秀殿は、信長様に延暦寺を焼き討ちするように進言されたのですか?」
実際は単なる脅しとしてですが、と続けたヒトラーに、光秀は竹筒は仕舞いつつ、
「その件については、上様に語った通りでござる」
「本当にそれだけですか? 確かに信長様が延暦寺の焼き討ちを口にすれば織田側の提言に従っていた可能性もありますが、しかし信長様を仏敵と見なしている僧達が、果たして素直に聞き入れたでしょうか? そして光秀がそれを度外視するほど浅慮な方とは到底思えないのです」
「……先ほどの某の頭痛といい、今の洞察といい、ヒトラー殿は本当に察しが良いのでござるな」
「では、やはり考えあっての事だと?」
ヒトラーの問いかけに、光秀はすぐには答えず、さながら思い馳せるように視線を遠退かせたのち、重々しく口を開いた。
「仰木の事は、是非とも撫で切りにすべく候──」
一瞬、風が止んだ。不気味なほどまでの生温い空気がヒトラーを包む。
「これは西近江の和田秀純殿に送った書状の一文なのでござるが、嘘偽りない某の本心でござる」
どこのだれかは皆目知らないが、察するに光秀にとって与しておきたい相手と言ったところだろうか。
それはともかく。
「撫で切り……つまり延暦寺の僧達を皆殺しにすべきと仰りたいので?」
「左様」
「しかし、それはさすがにやり過ぎなのでは?」
私が言えたセリフではないが、という言葉を呑み込みつつ問いを投げたヒトラーに、光秀は正面を見据えながら、
「そうかもしれぬでござる。が、これも上様が掲げた天下布武のため──その障害となるのであれば仏僧と言えど、容赦はいらぬと思慮した次第」
「しかし延暦寺程度なら、さほど障害にもならないのでは? 数の上ならこちらの陣営の方が圧倒的に勝っていると思うのですが」
「数だけ見たら確かにそうでござろう。とはいえ此度の件のように、度々寺院に逃げ込まれては至極面倒となるのは自明の理。相手が仏宗となると、おいそれと手出しは出来ぬでござるからな。まして本願寺を始め、仏僧のほとんどが織田憎しで動いている現状を鑑みるに、上様の天下布武を阻む存在は、たとえ仏僧と言えど今の内に潰すべきでござる」
「そのためならば、皆殺しも辞さないと?」
無言で頷く光秀。一切迷いのない頷き方だった。
──つまり光秀にしてみれば、延暦寺の焼き討ちは別段脅しの意味だけで口にしたわけではなく、内心本気だったというわけか。仏教は日本にかなり浸透している宗教だと思っていたが、信長のためなら信徒が相手でも刃を向けるか……。
いや、違う。
確かに信長の野望を叶えるためという面もあるのだろう。だがそれだけではないという事を、光秀の粛々とした面持ちを見て悟った。
あれは己の中に野心を燻らせた、獰猛な獣の表情であると──。
*****
ヒトラーが予定した通り、空が茜に染まりきった頃合いに、目的地であった延暦寺に到着した。
正確には延暦寺の手前付近にいるのだが、そこでヒトラーはすっかり頭痛薬が効いてスッキリとした表情(『南蛮の薬はかくも効き目が違うものなのでござるな』と感動を露わにしていた)を浮かべている光秀と顔を見合わせていた。
「して、ヒトラー殿。延暦寺に赴く前に某と話がしたいとは、一体何でござるか?」
「光秀殿、ひとつお願いがございます」
と、馬から降りつつ神妙な顔付きで言葉を発したヒトラーに「お願いとは?」と訊き返す光秀。
「今回の交渉において、私の言う事には一切驚かず、また口出しもご遠慮願いたいのです」
「……それはヒトラー殿の考えあっての事でござろうか?」
「はい」
首肯するヒトラーに「そうでござるか」と相槌を打つ光秀。
「此度の交渉は元より上様がヒトラー殿にお頼みした案件……ヒトラー殿がそう仰るのであれば、某は挨拶程度に留めておくとしよう」
しかしながら、と馬から降りながら光秀は語を継いだ。
「驚くなとは、どういう意味でござろうか?」
「光秀殿もご存知の通り、これから延暦寺の僧達に虚言を弄するわけですが、その際、光秀殿も驚かれる可能性がございます。そのため、僧達に気取られないよう平常心でもらいたいのです」
「とどのつまり、『懐中電灯』とやら以外の別の策を講じる場合があると?」
光秀のこの返しに、ヒトラーは胸中で「ほう」と感心した。
──なかなか鋭いじゃないか。質問するまでもなく、私の言葉の裏を読んでくるとは。
だが悪くない。味方としては、程々に聡い方が扱いやすいというものだ。
「左様にございます」
「………………」
ヒトラーの言葉に、しばし逡巡するように押し黙る光秀であったが、少し間を空けたのち、
「承知つかまつった。ヒトラー殿が何をしようと一切顔に出さぬと約束致そう」
「ありがとうございます」
これで、延暦寺攻略のための準備は整った。
あとは、本番に挑むのみだ
延暦寺に入る際、山門にいた警備らしき武装した僧兵に睨まれはしつつも、その後は特にトラブルらしいトラブルもなく、光秀共々、ヒトラー達は奥へと招かれた。
光秀曰く、ヒトラー達が延暦寺に赴く前に書状を送っておいたとの事だったので、そのおかげもあってさほど驚かれずに済んだのだろう。
──その代わり、見るからに敵外心剥き出しだがな。
それだけ信長が憎まれているという事なのだろう。
すれ違うたびに、僧から睨まれるくらいには。
それでも皆一様にして飛びかかってこないのは、ヒトラーと光秀を使者として見てくれている証左なのだろうが、これから対峙する延暦寺のトップも同じ考えとは限らない。
今は使者として来ているのあって、馬廻衆は寺の外にいる──つまりヒトラーと光秀の二人を殺める事なんて造作もないという事でもあるのだから。
信長の言葉を信じるなら、いきなり使者を斬り捨てるような愚行は犯さないという話ではあるが。
──まあ確かに、この規模で真っ向から信長とやり合おうとしているとは考えにくいな。それでも信長の意向に反するのは、仏教徒の総本山である本願寺の命令あっての事か、それとも僧侶としての意地か。何にせよ、斬り捨てられる心配はせずともよさそうだ。
などと胸を撫で下ろしつつ、立派な伽藍の廊下を先導する僧に無言で付いて行くヒトラー。
光秀はと言うと、こちらも横で終始警戒するように僧達を睥睨しつつ、一言も発せずに歩を進めていた。
しばらくそうして歩を進めたのち、やがて先導していた僧がとある襖の前に止まり、
「剛盛様」
と静かに呼びかけた。
「明智光秀殿、川上竹郎太殿、両名をお連れいたしました」
「おう。通せ通せ〜」
襖の奥から響いてきた野太い声。
その声がしたあと、先導していた僧は襖をすっと音もなく開けて「どうぞ」と奥に促した。
言われて光秀と共に敷居を跨ぐと──
「よお、明智光秀。それと川上竹郎太のお二人さん」
薄暗い──仄かに灯明が照らす座敷の奥に、そいつはいた。
僧侶らしく、毛一本すら見当たらない禿頭。黒染めの衣からは筋肉隆々とした逞しい肉体が見え隠れしており、厳つい顔にはニヤリといかにも人を小馬鹿したような下卑た笑みを浮かべていた。
正覚院剛盛。
延暦寺で僧兵を束ねる破戒僧であり、実質ナンバー2とも言える人物だ。
「待ってたぜ。信長の使いが書状を持ってきた時は本気かよと半信半疑だったが、まさかこうして本当に足を運ぶなんてな。正直驚きだぜ」
と、花柄の小袖を着た若い女を両脇に侍らせて、豪快に酒をあおっていた。
──こいつが正覚院剛盛か。僧兵を束ねている首領と聞いたが、なるほど。僧侶であるにも関わらず、顔を赤くなるほど飲酒している時点で推して知るべしと言ったところか。破戒僧という噂は本当だったようだな。
まあしかし、それならそれで都合はいい。
飲酒しているという事は、それだけ思考力も鈍ってくれているに違いないのだから。
「しかも、来たのが織田信長の家臣の中でも名高いお二人さんとはなあ」
と、いったん酒の入った陶器を下に置いて、剛盛はニヤニヤと目笑しながら続ける。
「お前らの事はよく知ってるぜ。そっちの頭が固そうな奴が前に将軍様の家臣をやってた明智光秀で、その横の奴が織田信長の腰巾着をやってる川上竹郎太、だろ? まさか戦以外の形でこうして顔を合わせる事になるなんて思ってもみなかったぜ」
そこまで言って、不意に剛盛は「ん?」と怪訝に片眉を曲げた。
「おい、川上竹郎太。なんでお前だけ顔を布なんかで隠してんだ?」
「これは失敬」
剛盛に指摘され、ヒトラーは小さく頭を下げた。
「実は先日の戦にて顔に傷を付けてしまいましてな。まだ完全に癒えておりませぬゆえ、こうして失礼を承知で布で覆わせていただきました」
「ほう。お前さんに傷を負わせた奴がいるのか。そいつは見たかったもんだぜ」
お前らもそう思うだろ? とニタニタ笑いながら両脇にいる女を抱き寄せる剛盛。
この問いに対し、両脇にいる女二人はまるで嫌がる素振りを見せず、
「そうでございますねぇ」
「剛盛様の仰る通りで」
と微笑しながら剛盛の胸に頬を擦り寄せていた。
てっきり強引に連れて来られたのかと思いきや、そうでもないらしい。むしろすっかり懐柔されているようにも見えた。
「ところで、剛盛殿」
ここで光秀が、仮にも使者に対して軽佻浮薄な態度を改めない剛盛に眉を顰めながらも、厳かに口を開いた。
「覚恕殿の姿は見受けられぬが、どこにおられるでござるか?」
覚恕──またの名を覚恕法親王ともいうが、比叡山延暦寺の166世・天台座主であり、言うなれば剛盛らをまとめる実質トップに位置する人物である。
「覚恕様なら数日前から出かけてるよ。何でも私事とかで遠出されているらしい。いつお戻りになるかは俺も知らん。だが話だけなら別に俺でも構わねぇはずだろ?」
それよか、と剛盛は再度酒に手を付けながら、ヒトラーと光秀を睨め上げた。
「いつまでそうして立ってるつもりだよ。そうやって上から見下ろされると酒が不味くなる。さっさと座れよ」
「……では、失礼して」
一言断ってから着座した光秀に続く形で、ヒトラーも腰を下ろす。
その際、腰に携えていた刀は鞘ごと抜き取り、手前の床に置いて見せた。敵意はないというアピールだ。
ヒトラーも倣う形で袴から刀を抜いた板敷きの床に置いたのち、
「さて、さっそく本題に入りましょうか」
と話を切り出した。
「浅井、朝倉の兵を匿っている件にて、こちらから中立を守るよう書状を送ったはずですが、未だに返事をいただけないのは何故でございましょうか?」
「返事? ああ返事ね。すっかり忘れてたわ」
──白々しい。
完全にとぼけた振りをする剛盛に、ヒトラーは内心毒づきながらも質問を続ける。
「でしたら、今、お返事をお聞きしても?」
「そう言われても、覚恕様がいねぇとなあ。俺が勝手に返事をするわけにもいかねぇよ。覚恕様からは何も聞いてねぇしな」
「では、剛盛殿はどうお考えなのでしょう? 少しでもこちらの事情を汲んでいただけるのなら、覚恕殿がお戻り次第、剛盛殿の方から進言していただきたいのですが」
「嫌だね」
間髪いれず、剛盛はヒトラーからの申し入れをにべなく一蹴した。
「俺は織田信長って奴が前から気に食わなくてな、あいつの言う事を聞くなんて御免だね。そんな義理もねぇ」
「だが、上様から織田領内にある延暦寺を返還すると仰っておられる」
剛盛の返答に、光秀が途中で口を挟んだ。
「別にどちらの側に付けとは申しておらん。せめて中立を保ってくれと朱印状まで出したはず。それでもまだ浅井や朝倉を庇うつもりでござるか?」
「ああ。義を見てせざるは勇無きなりってよく言うだろ? 俺達は正しい事をしているだけだぜ? それなのに文句を言われる筋合いはどこにもないね」
はあ、と光秀が聞こえよがしに嘆息を零した。呆れて物も言えないとばかりに。
そんな光秀を横目で一瞥したあと、「ですが」とヒトラーは根気よく言葉を紡ぐ。
「この件で信長様は大変ご立腹されております。書状にも要求を聞かなければ焼き討ちも辞さないと綴ってあったはずですが」
「焼き討ちなんて、どうせ単なる脅しだろ? いくら大うつけの織田信長と言えど、寺を燃やすはずがねぇって。罰当たりもいいところだぜ」
「でも剛盛様、もしも本当に燃やすつもりでいたらどうされるおつもりなんですの? わたし、そうなったら怖いわぁ」
「あたしもですぅ剛盛様。怖くて夜も眠れない〜」
「がっはっはっ。なぁに、その時は金子でも渡せばいいのさ。金で解決できない問題はねぇ!」
と、甘えてくる両脇の女に対し、剛盛は呵呵大笑しながら肩を抱き寄せて豪語した。この緩みきった顔からして、本当に金さえ渡せば何とかなると信じていそうな感じである。
しかしながら、これで得心がいった。仏宗だからこそ決して狙われる事はないと高を括っていたからこそ、こちらからの書状も無視できたわけだ。
たとえそれが、織田信長からの最後通牒だったとしても。
──なるほどな。今の延暦寺は悪僧ばかりで堕落しきっていると小耳に挟んではいたが、まさかここまでとは。もはや宗教家を名乗る資格すらないな。
しかも風の噂を聞くに、延暦寺は金融業──それも悪徳な金貸しを営んでいるそうで、返済ができなくなってしまった者に対して人身売買までやっていたというのだから驚きだ(もっともこれは他の寺院も似たようなものだったらしいが)。
だからこそ、信長も仏宗に懸念を示しているのだろう。
「つまるところ、こちらの要件を呑むつもりは一切ないと、そういう解釈で本当によろしいのですね?」
「応よ」
ヒトラーの問いかけに、剛盛は躊躇いなく鷹揚に頷く。
後先など微塵も考えてなさそうな間抜け面で。
「では、致し方ありませんね」
そう言ってから、おもむろに懐を弄り始めたヒトラーに、さすがの剛盛も警戒したのか、俊敏に片膝を付いて臨戦態勢に入る。
だが。
やがてヒトラーが取り出した黒い物体を見て、剛盛は怪訝に眉根を寄せた。
困惑しているのだろう──刃物でもなければ火薬にも見えない物体を前にして。
そんな黒い物体を、ヒトラーはゆっくり天井に向けて腕を上げて──
パァン! パァン!
と、二発連続で発砲した。
この発砲音に驚いたのは、言わずもがな剛盛とその両脇にいた女二人だった。
特に女は「きゃあ!?」と揃って悲鳴を上げて、二人して脱兎のごとく座敷から出て行ってしまった。
一方のひとり残された剛盛も、腰を抜かしたとばかりに後ろへと倒れかかって茫然自失としていた。
しばらくして、
「な、なんだそれは!?」
と剛盛は慄いた面持ちで声を荒げた。
「種子島(鉄砲)か!? いや、あんな小さい種子島なんて見た事がない! それも連続で撃てるなんて、そんなはずは──」
「回転式拳銃──という代物にございます」
未だあっけに取られた表情を浮かべる剛盛に、ヒトラーは追撃を掛けるように言葉を重ねる。
「回転式拳銃……?」
「左様です。従来の種子島よりも小さく、そして最大六発を連続で撃てる仕組みとなっております。この回転式拳銃を、信長様は南蛮から大量に仕入れる予定となっております」
「た、大量にだと!?」
またしても驚愕の声を上げる剛盛。
それはそうだろう。種子島とは違い、小さいがゆえに持ち運びが楽な上、火縄と違って火薬と鉛の玉を銃口から押し込む手間すら必要としないのだから。
そんな種子島よりもグレードアップした火器が大量に持ち込まれるという事実──剛盛でなくとも脅威を抱くのは宜なるかなである。
「どこからこんなとんでもない物を……いや、本当に南蛮で流通している物なのか? そんな種子島を越える品が日の本に入ってきたと知れたら、普通はもっと噂になってるはずだぞ」
「当然です。何故ならばこれは、南蛮で開発されたばかりの新兵器なのですから。そのため、南蛮でも一般的にはまだ流通はしておりません。大変貴重な品となっております」
「だったら、なおさら──」
「しかし、それも信長様の人徳あっての事」
と、剛盛の言葉を遮るヒトラー。
「元より信長様は南蛮の品にご理解が深く、またキリスト教にも寛大でいらっしゃる。そのため、信長様に対して好意的な南蛮人も多い。ゆえに信長様ならばと融通を利かせる商人も多くいらっしゃるのです」
「────っ」
ヒトラーの話を聞き、剛盛は歯噛みするように顔を顰めた。
予想を上回る信長の政治力と外交力に、二の句が継げないでいるようだった。
──まったくのデタラメだがな。
先ほどの話はすべて嘘──ブラフだ。
この拳銃は元々ヒトラーがタイムスリップ前に自害用として所持していた物──それをさも南蛮から仕入れたように偽ったに過ぎない。
本来なら三百年近くは先の未来の技術を、さも今世紀に発明されたとばかりに。
とどのつまり、信長に語った懐中電灯の下りも虚言だったというわけである。
幸い、光秀も約束通りポーカーフェイスを貫いてくれているおかげで、スムーズに策が進んでいる。さすがは信長の家臣といったところか。
もっとも、あとで光秀に詰問されるのは間違いないだろうが、それはそれで対策は練ってある。今は剛盛に集中すればいい。
そしてその剛盛はと言うと、こちらの作戦が功を奏したおかげで見るからに心を乱している。畳みかけるなら今しかない。
「どうされますかな剛盛殿。今の話を聞いてもまだ浅井や朝倉に与するとでも?」
「いや、しかし──」
「剛盛殿も想像が付くはずですよ。もしも大量の回転式拳銃が信長様の手に渡ったらどうなるか。戦況がひっくり返るどころか、これまでの刀での斬り合いが過去になるほど、歴史を塗り替える出来事になるとは思いませんか?」
「くっ……」
「しかし剛盛殿。安心していただきたい」
言いながら、ヒトラーは拳銃を仕舞いつつ柔和に微笑んだ。
「先ほども申した通り、これは大変な貴重な品ゆえ、すぐに仕入れられるわけではありません。つまりまだ時間がかかるというわけです。この意味がわかりますか?」
「……本格的に回転式拳銃とやらを仕入れる前に、織田信長と和平を結べと?」
その通りです、と首肯するヒトラー。
「確かにあんな物を仕入れるようになったら、俺達のいる延暦寺どころか、顕如様がいらっしゃる石山本願寺さえ一溜りもないだろうな……」
「まさに然り。どちらに与した方が利口なんて、わざわざ言うまでもありませんよね?」
「だが……」
と、未だに返答を渋る剛盛に、ヒトラーは身を乗り出す形でそばまで寄って、
「信長様の下手に付くか、それとも皆殺しか──」
囁くような小声で冷酷にヒトラーは告げる。
逃げ場などありはしないと言わんばかりに。
「どちらかしかありませんよ、剛盛殿」
「ま、待ってくれ! すぐには決められん! やっぱり覚恕様の帰りを待ってから──」
「いいえ、今決めてもらいたい。皆殺しか否か……二者択一ですよ剛盛殿」
誤前提暗示。
これは他の選択肢を与えず、さも限られた選択肢しかない状況を作って相手をこちらの望む方向へと誘う心理テクニックである。
むろん誰にでも通用する心理テクニックではない。剛盛のように、精神的に追い詰められているわけでもなければ。
だからこそ、ヒトラーは手を緩めない。
ヒトラーの人心掌握術は、ここからが真骨頂だ。
「さあ、どうされますか? このまま何もしなければ比叡山は焼き討ちにされ、僧侶どころか女子供すら容赦なく殺される事になりますよ?」
「や、やはり今決めるのは……」
「決断できない、と? ならば明日にでも信長様が兵を動かすかもしれませんね。信長様は気の長いお方ではありませんから」
「………………っ」
「ちなみに、浅井、朝倉の兵達と共に逃げたところで無駄ですよ。比叡山の周りは織田軍が囲んでおりますから。ああ、これはわざわざ言う必要もありませんでしたね。それとも、皆で潔く心中なさいますか? それならば信長様の手を煩わせる事もなく、楽に済みますので、こちらとしては大助かりですね。その際は浅井や朝倉も共に道連れにしてくれると言う事はございませんが」
ヒトラーの言葉に、剛盛はついに押し黙ってしまった。
それまでの飄然とした態度が、まるで嘘だったかのように。
ネガティヴフレーム。
相手の心に不安を煽り、自分の懐へ入れやすくするための心理テクニック。
ヒトラーが元いた現代でもしばしばセールストークとして使われている話術で、こうする事によって相手の心を操作しやすい状況を作れるようになる。
つまり、これで土壌は固まった。
あとは甘言を用いて懐柔するだけの作業だ。
「ですが、ご安心を剛盛殿」
それまで詰め寄るように距離を詰めていたのを、ここに来て唐突に光秀の横へと戻るヒトラー。
「光秀殿も申されていた通り、浅井と朝倉の兵を追い出しさえすれば、焼き討ちは阻止できます。それだけではありません。剛盛殿にとっても決して悪い話では──いえ、むしろ良いお話になるのではないかと」
「良い話……だと?」
と、先ほどまで俯いていた剛盛が、ゆっくり顔を上げて聞き返した。
「ええ。賢明な剛盛殿ならば、どちらに与した方が得策かなんて、言うに及ばずでは?」
「た、確かにあの回転式拳銃とやらが大量に織田軍の手に入れば、これまでの勢力図はガラリと変わる。中国の毛利、四国の長宗我部の討伐さえも容易になるだろうな」
「それどころか──」
剛盛の語を継ぐ形で、ヒトラーが続ける。
「石山本願寺ですら、もはや信長様の手の内にあるようなものと言っても差し支えはないかと」
「本願寺……顕如様……」
「その通りです。信長様が顕如殿を討ったあと、次は誰が本願寺の宗主となるか。お決めになるのは、信長様となるのでしょうが、諫言すれば信長様の御意向次第では、延暦寺の僧でも選ばれる線があるという事に他なりません」
「! それは、つまり──」
「ええ。つまり剛盛殿、次なる本願寺宗主は、あなたかもしれないという事です」
ヒトラーの言葉に、剛盛はあからさまに表情を輝かせた。
さも希望の光を垣間見たとばかり。
「この俺が、本願寺宗主……」
「そうです。覚恕様と並び立つ宗主という立場、剛盛殿も欲しいとは思いませんか?」
「なれるのか? 本当に俺が宗主に……?」
「それは剛盛殿の返答次第です。もしも今、中立ではなく織田軍に加担すれば、おそらく信長様も悪いようにはしないでしょう。それどころか、剛盛殿に感謝の念を抱いてくれるかもしれません。そうなれば私の方から信長様に取り計らって、本願寺宗主に推薦するのもやぶさかではありません」
「……しかし、織田信長にそこまでの権限が本当にあると思っているのか? いくら織田軍が以前よりも勢力を増しているとはいえ……」
「すぐにとはいかないでしょう。ですが、いずれ信長様が日の本全土を治めた時、仏宗に対する権限も強大となっている事でしょう。信長様の天下布武は、もはや夢物語などではございません」
「天下布武……」
剛盛が呟く。自身の言った言葉を噛み締めるかのように。
もちろん、信長がそんな寛大な真似をするはずもない。
剛盛を含め、延暦寺側は織田軍の書状を無視して信長の面子を潰したのだ。今さらこちらの味方に付いたところで信長の延暦寺に対する印象が変わるはずもない。
約束通り焼き討ちは中止し、織田領内にあった延暦寺も返される事だろう。
だが、それだけだ。
おそらく信長は、延暦寺の僧を信用する事はないだろう。今後の働き次第ではそれなりに褒美などを用意してくれるかもしれないが、いつ裏切られてもいいように万全な準備を施すはすだ。
そもそも、だ。
延暦寺と本願寺とでは宗派が違う。仮に信長が天下を取ったとしても、剛盛を本願寺の宗主に添える事など出来るとは到底思えない。出来たとしても本願寺側の僧達が反旗を翻す事だろう。
その事を、剛盛は理解していないのだ。
ヒトラーによる数々の心理操作によって、完全に判断力を失った剛盛には。
「そうです剛盛殿。いや、もう宗主とお呼びした方がよいでしょうか?」
と、ここでヒトラーはおもむろに立ち上がった。
そして、真っ直ぐ剛盛へと手を伸ばす。
あたかも暗闇の只中にいる者に対し、そっと光輝く世界からそっと手を差し伸べるように。
「さあ宗主、ご決断を。延暦寺の未来は、そしてあなたの輝かしい将来は今、宗主の手の中にあります。
わかりますよ、あなたの気持ちはよくわかります。覚恕殿がいない今、心が惑う気持ちは。ですが、今は宗主しかおられないのです。延暦寺の僧も民も救えるのは、宗主、あなただけなのです!
宗主、あなたなら決断出来ます! なぜなら、あなたは延暦寺で僧兵を束ねるだけの器に収まる人物ではないのだから!
救うのです! 宗主のその手で延暦寺を! そして顕如殿亡きあとの本願寺を!!
宗主と信長様が手を組めば、恐れるものなどありません! お二人の手で戦乱渦巻くこの世に救済を!! 安寧を!! 天下泰平をあなた方の手で!!」
ザイアンス効果とゲインロス効果。
特定のフレーズを何度も繰り返す事により、相手に警戒心を解かせる事をザイアンス効果と言い、そして最初は懐疑的だった相手に対して徐々に勢いを付けて煽る事によって、それまで悪印象を持たれていた相手に好印象を抱かせる事をゲインロス効果と言う。
この二つの心理テクニックを駆使する事により、ヒトラーは最後の締めくくりに入ろうとしていた。
「さあ英断を! 宗主、あなたの答えをお聞かせください!」
「俺は──俺は──っ!」
依然として手を伸ばし続けているヒトラーに、剛盛は恐る恐るといった態で腕を上げた。
*****
剛盛との交渉が終わる頃には、日はすっかり沈み、辺りは薄暗くなっていた。
さすがにこのまま夜半を進むのは危険との事で、今宵は近くの村で泊まらなければならないらしい。
ヒトラーとしては、こんな十人程度の馬廻衆だけで大丈夫なのかと不安でいたが、光秀が言うには凄腕の武士ばかりなので、山賊が束になって襲撃しに来たところで一切問題ないと語っていた。
「ところで──」
と。
延暦寺をあとにし、その近くの村とやらに向かう最中、光秀がヒトラーの横に馬を並べながら口火を切った。
「剛盛殿とのやり取りの際は、横で見ていて大変肝を冷やしてござる。事前に驚くなと申しておられたゆえに、明鏡止水に努めてござったが、まさかあんなとんでもない物を披露してくるとは……」
「ああ、これでございますか」
言って、ヒトラーは懐に仕舞っていた拳銃を取り出した。
「確か回転式拳銃と言ったでござったか。南蛮では、かような火器まで発明されていたのでござるな。まこと、南蛮の技術力は末恐ろしい。これが時期に量産されるとなると、いっそう心胆寒からしめるものがあるでござる」
「量産に関しては、まず無理でしょうね」
と。
ヒトラーのこの一言に、光秀は虚を衝かれたように瞠目した。
「それは、一体どういう……?」
「実はこの回転式拳銃、我が国で最初に開発された物なのですが、まだ世界にひとつしかなかったのを私が密かに持ち出した物でして、その成功品をこうして私の手の中にある以上、量産するのはかなり先の話となるでしょうね。設計図はあるようですが、幾度も失敗を重ねて試行錯誤しながら作った物のようですから」
もちろん嘘である。こうでも言わなければ、話の整合性が取れないため、あらかじめ考えていたセリフをそのまま口にしただけだった。
とはいえ、まったくの嘘というわけでもない。
世界にひとつしかないのは本当の事だし、量産がかなり先になるのも真実だ(二百年以上も未来の話になるが)。
だが、そんなヒトラーの嘘を光秀はすっかり信じ込んだようで、
「なんと。ではもしもヒトラー殿の祖国にその件が露見されれば、懲罰は免れないのでは?」
「ええ。ですから、これに関してはどうか信長様にもご内密にしていただきたく」
「承知つかまつった。
しかし、なるほど。上様の前でその回転式拳銃を見せなかったのも、そういう事情があったからでござるか」
「左様にございます」
ここで実を明かすならば。
この拳銃を信長に渡して、これを見本にして実際に量産してもらおうという計画も、なくはなかった。
だがたった一丁しかない拳銃でどこまで似せられるか未知数だったし、研究のためにバラバラにされて使い物にならなくなるくらいだったら、護身用として持ち歩いていた方が賢明ではないかと考え直したのである。
だからこそ、信長には拳銃の代わりに懐中電灯を出してみせた。
すべては拳銃という切り札を隠しつつも、ヒトラーの策に乗ってもらうために。
──もっとも、こちらのブラフなんてとっくに気付いているだろうがな。
信長はそこまで単純な男ではない。それどころか聡明かつ用心深い。おそらく、こちらの腹心にも察しが付いていると思っておいた方がいいだろう。
もしかすると、信長の元に帰ったあとで色々問い詰められる可能性もあるが、まあ、その時はその時で一計を案じればいい。
何せこっちは、見事延暦寺の僧兵達を味方に付ける事ができたのだから。
きっと今頃、一足先に行かせた使いの者が、信長に延暦寺の攻略成功を伝えている事だろう。
これで、信長の懐に入れたも同然。
こちらの要求を通してもらう事もできる。
すべては、ヒトラーの野望成就のために。
「それにしても──」
と。
馬に乗りながら思案していたところで、光秀がふと口を開いた。
「あの頑なであった剛盛殿の心をああもあっさり説いてしまわれるとは……ましてや完全に浅井、朝倉側に加担していた延暦寺をこちら側に付けてしまうとは。明日に奴らを追い出す事まで誓わせたその話術、実に見事でござった」
「恐縮でございます。本音を言えば、延暦寺側で浅井や朝倉の兵を捕らえるところまで行きたかったところではありますが」
「さすがにそれは高望みというもの。あそこで浅井と朝倉の兵を捕らえようとすれば、延暦寺が戦場となってしまうゆえ、剛盛殿としてもそれだけは避けたかったはず。延暦寺には兵でもなければ僧でもない民も多くいるでござるからな。とはいえ、兵を追い出すだけでも多大な手柄でござる。上様も大変喜ばれるでござろう」
「いえいえ、私は大した事はしておりませんよ。あれは剛盛殿が飲酒されていたせいもあって、相手方の判断力が鈍っていたおかげです」
「ご謙遜を。回転式拳銃で剛盛殿の肝を潰しただけでなく、美辞麗句を並べて完全に場の流れを掌握してござった。某もすっかりヒトラー殿の長広舌に呑まれてしまっていたでござる」
──ほう。いくつか私の人心掌握術に気付いていたか。やはりこの男、なかなか頭が切れる。
感情面で少々不安な部分はあるが、それを差引いても優秀な男ではある。
今はまだ信長の家臣ではあるが、いつか自分の手足にしたいものだ。
「しかしながら、いくら延暦寺を説くためとはいえ、あのような事を口にしてよかったのでござるか? 回転式拳銃が量産できないとなると、延暦寺もいずれはヒトラー殿の虚言に気付いてしまうのでは?」
「ええ。そうでしょうね」
「であれば……」
「ですが」
と、ヒトラーはそこで馬の歩を緩めて光秀を真っ直ぐ見つめた。
ニヤリと口端を歪めながら。
「あれはもう、こちらの沼にハマったようなもの。今さらどこにも引き返せはしませんよ。仮に反逆を企てるようなら、その時本当に焼き払ってしまえばよいのです」
ゾクっと、身震いするように光秀の肩が微動した。
ヒトラーの深淵に触れて、おそらくは恐怖を感じたのだろう。信長と相対する時とまた別個の畏れを抱いたような表情だった。
実際、今の言葉に嘘はない。ヒトラーの嘘に気付いて尚もこちら側に残るならよし。敵に回るのなら皆殺しにすればいいと考えている。
光秀は障害となりうる存在を抹消する事しか頭になかったようだが、どうせ消すくらいなら、さんざん利用してからにすべきだ。その方がこちらの利も増えて都合がいい。
──少し前までの私ならば、光秀と同じような事をしていたかもしれんがな。
かつてYに訊かれた事がある。自分の行いに後悔や反省はないのかと。
それは今でも変わらず、後悔はしても反省など微塵もしていないが、だからと言って過去の失敗に学ばぬほど愚かではない。
思えば、かの民族を根絶やしにしようとした際も性急が過ぎたのだ。どうせなら男だけでなく、女子供も生かさず殺さず奴隷として使い潰してから駆除すればよかったのだ。そうすれば生産力もあがり、ひいては国力にも繋がったというのに。
──そう。私は焦り過ぎたのだ。眼前の標的ばかに目を奪われていたせいで、足元に転がる石ころに気付けなんだ。その顛末がナチスの崩壊だ。小さな小石に躓いたと気付いた時には、そばにあった岩に対処できなかった。それが私の敗因だ。
小石はイギリス、岩はアメリカだ。ソ連への侵攻ばかり目を向け過ぎたせいで、足元が疎かになってしまった──だからドイツは連合軍に敗北してしまったのだ。
だが、同じ失敗を二度繰り返すつもりはない。次こそは小石と言えど油断はしない。徹底的に万全を期して敵を叩き潰す。それこそ完膚なきまでに。
──幸い、この四百年間の世界にアメリカという国は存在しない。今の時代はオスマン帝国かスペイン王国が最大の難敵となるだろうが、私には未来の知識がある。私にも軍さえあれば、世界を制定できる……野望を成就できる!
この半年の間、ヒトラーはずっと考えていた事がある。
十六世紀のこの日本にて、自分は何をすればいいのだろうかと。
何をすべきなのだろうかと。
何を成し遂げるべきなのだろうかと。
果たして、ヒトラーはついに己が大望を見出した。
──私はこの四百年前の世界で、アーリア人をあるべき姿に導く! 今度こそ東ヨーロッパを我々アーリア人の手によって支配するのだ!!
これこそが、ヒトラーの覇道。
かねてより追い求めていた、悠久の悲願。
むろん、決して容易な願いではない。いくらアメリカという大国がまだ存在しない時代とはいえ、課題や問題は山のようにある。おそらく想像以上に険しく長い道を突き進む事になるだろう。
それでも、必ず成し遂げなければならない。
もう二度と元の時代に戻れないとしても、あんな悲惨な最期を迎えさせてしまった、愛するエヴァの運命を変えるためにも。
──そうだ。私は変えなければならない。ドイツの未来を、そしてエヴァの運命を。この私が……!
今だけは感謝しよう──この四百年前の世界に飛ばしてくれたYに。
奴にしてみれば退屈凌ぎの遊びのようなものでしかないのかもしれないが、それでもこの時代に来ていなければ、再び己の野望を叶えようとは微塵も思わなかった。
欲を言えば、せめてヨーロッパのどこかに飛ばしてほしかったところだが、まあいい。
考えようにとっては、他国の侵略も心配せずにいられる極東の島国の方が都合がいいかもしれない。何よりじっくり腰を据えて今後の指針が立てられる。
そのためにもまずは、この日本で自分だけの軍を持つ必要がある。
最終的には、日本という国を手中に収めるために。
──すでに延暦寺攻略という布石は打った。あとは日本を手にするための駒を用意すればいいだけだ。
駒。
つまるところ、それは日本の武士達を指す。
そして、現時点で最強の駒と言えるいいのは──
──待っていろ織田信長。必ずやお前を私の手駒にしてみせる……!
*****
一方、その頃。
光秀の使いから小姓を通じて、延暦寺との交渉成立の一方を耳にした信長は、屋敷の軒下から篝火を見つめながら「そうか」と鷹揚に頷いた。
「すぐさま兵達に伝えよ。明朝、延暦寺に向けて出陣する。次こそは必ずや浅井、朝倉両軍を一人残さず討ち取るとな」
「ははっ!」
信長の言葉を聞き届けた小姓が、平伏したのち、すぐさま立ち上がって踵を返した。
そんな小姓の姿を見送ったあと、そばに控えていた竹郎太が興奮冷め止まぬと言わんばかりに顔を紅潮させて、
「やりましたな、お屋形様! ヒトラー殿と光秀殿があの延暦寺を陥落しましたぞ!」
と声を上げた。
「これぞまさしく有言実行! まさかヒトラー殿がここまで切れ者だったとは! 驚天動地とはまさにこの事ですな!」
「うむ。頭の回る奴とは思っていたが、どうやらわしの想像以上だったようだな」
思えば、初めて会った時からそうだった。
本人は南蛮から来た商人と語っていたが、信長の目には商人とは思えない威厳のようなものがそこはかとなく感じられた。
それこそ、一度は頂に到達した事があるような風格を。
最初は気のせいかとも思っていたが、どうやら自分の勘は存外間違ってはいなかったようだ。
「にしても、確か懐中電灯でしたか。あんな物で本当に延暦寺の僧達を騙せ果せるものなのかと疑問でございましたが、実際なんとかなるものですな。よほど南蛮渡来の品に縁がなかったと見える」
「たわけ。あんな物で騙せるわけがなかろうが」
と。
浮かれ通しの竹郎太の頭に冷や水を浴びせるがごとく、信長が軽く一喝を入れた。
「は? そ、それはどういう……?」
「どうもこうもないわ。あのような物、実際に人に向けて試されたらそれで終いの愚策でしかない。光を放つだけの代物に、彼奴らが恐れるはずもないのだからな」
それ以前に、奴らも腐っても僧兵──殺気だけで人を殺める物ではないと勘付きそうではあるが。
「つ、つまりハッタリであったと? だとするなら、ヒトラー殿はどうやって延暦寺との交渉を成立させたのでありましょう?」
「そこまではわしも知らん。が、あそこまで大見得を切ってみせたのだ。何かしら秘策を用意していたのであろう」
「はあ、秘策でありますか。しかしながら、何故ヒトラー殿はお屋形様にそんな大胆な真似を……」
「──試したのよ、このわしをな」
と。
依然として篝火を見つめながら愉快そうに薄笑みを浮かべる信長に、竹郎太は甚だ不思議そうに首を傾げながら「試す、でございますか?」と聞き返した。
「試すとは、一体何を……?」
「さてな。だが愚策とわからず話に乗る阿呆か、もしくは愚策と見抜きつつもその意図に気付かず一蹴する石頭か、はたまた愚策と知りつつも奴の真意を見抜いて敢えて騙された振りをする食わせ者か、それを見定めようとしたのは確かであろうな」
「なんと恐れ多い! よもやヒトラー殿がそのような謀計をめぐらせていたとは……これはお屋形様に対する不敬として、直ちに捕らえるべきでは!?」
などといきり立つ竹郎太に、信長は「呵々!」と一笑に付して、
「何を言う。このわしを試そうとしたのだぞ? 逆に面白いではないか!」
「お、面白い……」
「ああ、面白い。実に愉快じゃ。これまでわしを謀ろうとした者が星の数ほどおったが、あれほど正面切って堂々とこのわしを謀ろうとした者は初めてじゃ。改めて気に入ったぞ、ヒトラーという男をな」
「よ、よろしいのでありまするか? 本当にこのままお咎めなしで……」
「構わぬ。それにあやつの事じゃ──こうなるのも折り込み済みであろう」
「そ、そこまで見据えていたと……」
驚きに戦慄く竹郎太に、信長はフッと口角を吊り上げた。
──つくづく権謀術数に長けた奴よ。このわしの気質を正確に見抜いた上で動いておる。だからこそ面白いとも言えるが。
「ところで、お屋形様。ヒトラー殿への褒美の件はどうされるおつもりで?」
「ヒトラーを家臣にするという話か?」
信長の問いかけに「はい」と神妙に頷く竹郎太。
「むろん、奴を家臣にする。それが奴の望んだ褒美なのだからな」
そうなのだ。
延暦寺との交渉に成功した暁に何を望むかと問うた時、ヒトラーは躊躇いなく信長の家臣になりたいと口にしたのである。
どういう心境の変化で信長の家臣になりたいと思ったのかは定かではない。が、よほど自分に心酔しているというのだけは、ヒトラーの弁舌からしてよく伝わってきた。
あくまでも口上では。
「左様でございますか。しかし、つい先日までお客人であったヒトラー殿が、我らと同じくお屋形様の家臣として務めるというのは妙な気分でございますなあ」
と、信長の返事を聞いて何やら夢心地のような口調で語る竹郎太。実際、客人としてのヒトラーと一番接していたのは竹郎太なので、違和感が拭えないのだろう。
「では南蛮人としては初の武士となるわけでありますね。それもお屋形様の家臣として。話を聞くに英明果敢な方のようなので、これからが楽しみでありまするな」
「うむ。あのサルにはわしも期待しておる」
サル? と竹郎太は心底不思議そうに首を傾げた。
「サルとはヒトラー殿の事でございますか? わたしにはそこまで似ているようには……」
「サルはサルでも日の本のサルではなく、明にいるとされるサルの事よ。もっとも、わしも実物は目にした事はないがな」
「目にした事がない? ではなぜ、その明にいるサルに似ていると仰ったので?」
「かつて、明のサルを描いていた絵師に偶然出会った事があるのよ。確か名は佐々木等泊と言ったか」
「はあ。その絵にヒトラー殿が似ていると。なんと言いますか、よくネズミと揶揄されるわたしとしては、他人事のようには思えませんなあ……」
「お前はネズミはネズミでも、ハゲネズミの方であるがな」
「お屋形様、それは言わぬお約束……」
言いながら自身の禿げ上がった頭をさする竹郎太に「呵々!」と信長は笑声を上げた。
「しかし、ヒトラー……ヒトラーか……」
と。
おもむろに踵を返して屋敷の中に戻った信長は、顎髭を撫でながら思案するように瞑目し始めた。
「? お屋形様? どうなされたので?」
「いや、わしの家臣にするならば、ヒトラーという名のままでは格好が付かぬと思うてな」
「つまり、お屋形様自ら名を授けると?」
「然り」
頷いて、その後に沈思黙考する信長。
やがて──
「木下、秀吉──」
ふと呟いた名に、竹郎太は「ほほう」と詠嘆の声を漏らした。
「実に良い名ですな。して、木下というのはどういう意味がおありで?」
「奴とは木の下で出会うたのでな。少々安直じゃが姓は木下にした」
「では、下の秀吉というのは?」
「このわしがあやつを拾ってやったのだぞ?」
言って、信長は手に持っていた扇子を広げて高らかに告げた。
「これを吉と呼ばず、何と呼ぶ!」
「なるほど! 確かにお屋形様と出会えた事は、まさしく秀でた吉運と言えますな!」
「そうであろうそうであろう!」
上機嫌に呵々大笑する信長に、竹郎太も破顔して褒めそやす。
そんな竹郎太を見据えながら、信長は頭の片隅で別の事を考えていた。
──しかしながら、奴はわしにとって凶運に打って変わるやもしれんな。奴はそれだけ油断ならぬ相手と言える。
今にして想起してみれば、ヒトラーを一目見た際も最初に抱いたのは好奇心ではなく警戒心だった。
おそらくあれは、ヒトラーの内に眠る野心に本能が警鐘を鳴らしていたのだろうと思う。
最初こそ夢破れたあとのような腑抜けた顔をしていたが、今はどうした事か、ギラギラと野望に満ちた眼差しを向けている。
この天下人に最も近い織田信長に対しても、まるで隠そうともせず。
ヒトラーがこれから何をするつもりか、また何を企んでいるかは、ようとして知れない。しかしどんな腹積もりがあるにせよ、信長はただ有能な者を手足にしてのし上がるだけだ。
覇道を突き進む事こそ、信長の信条なのだから。
だがもしも、ヒトラーがその道を阻もうとするなら──主人に対し牙を剥く日が訪れたとしたら、その時は。
──その牙ごと、わしが噛み砕いてくれぬわ!
*****
「へえ。ずいぶんと面白い事になっているみたいだねぇ」
そこは天井や床がなく、空も地もない、ただ果てしなく無だけが広がっている空間だった。
そんな空虚な世界で、男とも女とも言えない、子供とも老人とも付かない白い影が、胡座を掻いた状態で宙を浮きながら、信長と竹郎太が映し出されたモニターのようなものを見つめていた。
「にしても、川上竹郎太かあ。さっきから聞いた事もない戦国武将がちょくちょく顔を見せるなと怪訝に思っていたけれど、なるほどね。
これが本来の木下秀吉となるはずだった人物ってわけか」
白い影──Yは、依然として宙をプカプカと浮きながら、声を弾ませつつ独り言を発する。
「言うなれば、帳尻合わせの代替品って事なのかな。普通ならタイムスリップした時代よりも前の世界まで改変される事なんてないはずんだけれど、これもアドルフ・ヒトラーという人物がなせる技というか、影響力のせいなのかねぇ。さすがは後世の歴史に残る所業をしただけの事はあるね」
もっとも独裁者かつ殺戮者という悪名の方ではあるけれど。
などと愉しげに言いながら、Yは指をパチンと鳴らしてモニターの画面をヒトラーのアップに変えた。
「さて、ここからが本当のプロローグだ。言うなれば第二の人生のスタートってわけだね。
チート能力があるわけでもない。まして有名な戦国武将の生まれ変わりでもない。それどころか日本の歴史すらまるで知らない君が、これからどんな波乱万丈を巻き起こすのか、とても興味深いよ。まさに興味津々だ。目が離せないね。
だから、この先すごく楽しい人生を見せてくれる事を心から願っているよ、アドルフ・ヒトラー。
もとい──」
──木下秀吉?
*****
これは、織田信長がヒトラーを始めとした家臣達と共に天下を取らんと覇道を征く物語であり。
そしてアドルフ・ヒトラーが、いずれ豊臣秀吉として天下統一を果たす物語──。