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愚者の此岸 世界の彼岸  作者: 栗槙ねも
第二章 『朧月夜の兎』
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二章 第19話 『夜、淫魔と……』


「はぁ……」


 心臓が何度も破裂しそうになった入浴から上がったヒガナは、客室の椅子に座り何度目かの大きな溜め息を吐いた。

 その対面に座っていたココは紅茶が注がれたティーカップを手に持ち、


「そんなに私との入浴が楽しかったようですね」

「あのタイミングだけで言うなら、ココ以外だったら嬉しかったかもな。給仕長、ベティー、使用人の子たちなら誰でも」


 敵だと認識していた相手と裸の付き合いをして、喜びの感情が湧いてくることなどあるのだろうか。

 少なくともヒガナには無かった。だが、つい意識はしてしまうもので、なかなかココを直視できない。

 そもそも、あんな一幕があったにもかかわらず、今こうしてヒガナの客室で平然とティータイムを満喫しているココの態度が疑問でしかない。他の淫魔はこうあって欲しくはないと願うばかりだ。


「ソフィア様も嬉しくないんですね」

「は?」

「挙げた名前に彼女が無かったので。あんなに馬鹿真面目にヒガナさんの案内役を務めているのに……報われませんね」


 指摘されて、ヒガナはソフィアを最初から除外していたことに気が付いた。なぜ、そうしたのか、その理由を言語化できる範囲で確認するように呟く。


「いや、ソフィアはそういう対象に入らないっていうか、異性として見れない、見るのがおかしいって感じ、か? なんか違和感があるんだ」


 その意見に、ココはティーカップを置いて興味深そうにヒガナを覗き込んだ。


「違和感ですか?」

「漠然とだけどな。ソフィアは他の女の子とは違う気がする」

「言い得て妙ですね。確かにソフィア様は他と比べて特殊ですから」

「そうなのか?」


 問いを投げかけるヒガナに、ココは紅茶が並々と注がれたティーカップを差し出した。会話という茶菓子だけではなく紅茶も楽しめと言いたいのだろう。

 ヒガナは紅茶を味わいながら飲む。世界が変わろうとも、この味は変わらず極上の一言。悔しいがヒガナはココの淹れる紅茶の虜になっていた。


「美味しい」

「当たり前です。それ以外の言葉を発してたら舌を斬り落としてましたよ」

「紅茶の感想で殺そうとするなよ」


 失われた世界でも同じやり取りをしたな、とヒガナは苦笑いを浮かべた。

 あの時はまだ平穏だった。

 また、あの平穏な日々も取り戻すためにも、ヒガナは前に突き進むしかないのだ。


「ところで、ヒガナさんは珍しい髪色をしていますね」


「みたいだな。黒ってそんなに珍しいのか?」


「人間という種族だけで見れば珍しい部類に含まれますね。なにせ黒髪は『審判の仔』とも言われますね」


「『審判の仔』?」


「かつてこの世界に降臨したと伝えられる超越的存在『ニルヴァトナ』。開闢の聖女、あるいは終焉の魔女──呼び方や存在性は時代、国や種族によって変わりますが畏怖の存在ということだけは共通認識としてあります。事象や概念に干渉する術式──魔法を使うことが理由の一つでしょう。まぁ、文献に断片的に記されているだけなので実際はどうか分かりません」


「そのニルヴァトナってのがどう繋がってくるんだ?」


「ニルヴァトナの身体的特徴として最初に挙げられるのは黒髪です。他には紺碧の瞳ですかね。そういう訳から黒髪、紺碧の瞳の人間はニルヴァトナの因子を持つと言われてます。そして、因子を持った人間を『審判の仔』と呼ぶんです」


 ヒガナは髪の毛を触りながら、この世界での黒髪がいかに特殊かを多少だが理解した。


「因みに『ニルヴァトナの聖遺物』というのもあります。確か七つあると聞きました。手にすれば魔法を使えるとか。今度探してみますか?」


「機会があればな」


 濁った肯定をして、ヒガナは気を紛らすために紅茶を一気に飲み干した。


「悪りぃ、話を脱線させた。髪色の話だったよな」

「脱線も会話の醍醐味ですよ。黒髪は珍しいですが、それよりも更に珍しい髪色が存在します。もうお分かりですよね?」

「白、か」


 楽しそうにココは頷いた。


「純白の髪を持つ者は神の末裔、神の血筋、天使、使徒──様々な呼び名で神話や御伽噺に登場します。幻想、空想、物語の中だけの存在と思っていたのですが、ソフィア様と初めて会った時は自分の目を疑いましたよ。まぁ、彼女の髪色は純白というより白銀色に近いですが些細な差でしょう」

「神の末裔……随分と現実性が乏しいな」


 そう、口では否定してみるが、プリムラとソフィア──二人の常軌を逸脱した美しさと異様な存在感は神の末裔と言われても納得してしまう。


「そう思うのは無理もないでしょう。ですが、ヒガナさんは確かに感じているではないですか」

「それは、何かは違うとは感じだけど……その正体を知っているのか?」


 ココは紅茶で唇を濡らし、心底不愉快そうに、忌々しそうに呟いた。


「──神性。彼女の肉体からは確かに感じます」


 純白の髪は何ものにも染まっていない、染まらない無垢、そして創造の原点であることを象徴としていると御伽噺では記述されている。

 そのことを考慮し、考察するとヒガナがソフィアに対する意識の不可解さの理由が浮かんでくるだろう。


「ヒガナさんは、ソフィア様を自らの手で穢すのを拒絶しているのでしょう」

「………………」


 ココの推察は十分に納得できるものだった。

 だが、ヒガナはそれだけでは無いような気がしていた。


 ティーカップが空になる頃、ココは場の雰囲気を切り替えるように小さく咳払いをした。


「さて、ヒガナさんの緊張も緩和したようですし、本題に入りましょうか」

「本当に目的と計画の全容を教えてくれるのか?」

「契約ですからね。では、まず目的からお話しましょうか」


 一拍置いてから、ココはその胸の内にひた隠ししていた目的を口にした。


「私の目的は、王国に巣食う病巣の一つを取り除くこと。具体的にはハウエルズ家──正確にはトマス・ハウエルズと某国の癒着の証拠を押さえ、然るべき罰を与えることです」

「──っ! 繋がっていたのか……」


 アリスが容疑をかけられている貴族殺しの舞台もハウエルズ家だ。ココの目的もハウエルズ家。それはつまり、二人の道はいずれは交わったということだ。


「正直、ヒガナさんがアリス・フォルフォードと現れた時は思わず口元が緩んでしまいました。彼女はハウエルズ家を追い込む切り札になりますから」


「うーん、どう切り札になるのか分からないんだけど」


「被害者であるエドワード・ハウエルズが殺された時期とトマス・ハウエルズが某国と関係を持つようになった推定時期が見事に重なるんですよ。ここまで言えば、脳みそが綿菓子のヒガナさんでも分かりますよね?」


 直接的に馬鹿にされたヒガナは眉を顰めつつ、思考をいそいそと回転させる。

 やがて、一つの仮説に辿り着いた。


「仮にエドワードが殺されたのが口封じのためだったら?」


 ココは「その通りです」と笑みを浮かべた。


「ハウエルズ卿殺人事件はアリス・フォルフォードが犯人と断定されていますが、それを覆すことができれば、事件の最深に踏み込み、癒着の手がかりを掴めるかもしれません。まぁ、これは次善策ですが」

「他にもっと良い方法があるのか?」

「証拠を押さえるという点では確実な方法が一つあります」

「それは?」


 ヒガナの使っていたティーカップを側に寄せて、ココは紅茶のお代わりを注いだ。湯気立つティーカップを元の場所に戻して確実な方法を述べた。


「密告者と取引します」

「──なっ!」


 驚愕にヒガナは勢いよく立ち上がる。椅子が絨毯の上に倒れた。衝撃と音は絨毯の包容力で皆無だった。


「取引!? 密告者と一体どんな……いや、それよりもっと根本的なことだ。密告者って誰なんだ?」


 ずっとヒガナを苦しめている、全ての元凶である密告者。その正体は未だに片鱗すら見えていない。

 逸る気持ちを知ってか知らずか、ココは悪戯な笑みを零す。浴場での件があったというのに、焦らし小馬鹿にした態度は流石としか言えない。


「ところで、ヒガナさんにとって完璧とは何でしょうか?」


「は?」


「私の考える完璧は、不測の事態が起こっても柔軟に対応できることです」


「それが一体……」


「使用人たちの業務は私が綿密に組んでいます。仮に体調不良などで欠員が出たとしても、別の使用人が欠員分の業務を行うように割り振られています。欠員分の業務の肩代わりに関しては必ず私に報告が入るようにしています。肩代わりをした使用人の業務調節しないといけませんから。十全な実力を発揮するには、十分な休息が必要ですので」


「だから、それが一体何だってんだよ!」


 関係ないことをつらつらと話す白縹(しろはなだ)髪の少女に、痺れを切らしたヒガナは距離を詰める。

 ココは呆れたように溜息を吐き、黒髪の少年を哀れみの瞳で見つめた。


「その耳は飾りなんですか? 今の説明を聞けば容疑者をかなり絞れるんですが」


「え?」


「彼女たちに不審な動きがあれば私にすぐに伝わります。が、幸いそのような報告は上がって来ていません。全員、真面目に業務を遂行してくれています」


「だから、使用人たちはシロって言いたいんだろ。でも、それは身内贔屓じゃないのか?」

「まぁ、そう思いますよね。私も思います。なので、使用人全員を徹底的に洗い直しました。これが資料です」


 そう言って、ココは椅子の横に置いておいた資料をテーブルの上に置いた。まとめられた資料は分厚く、どれほどの時間を費やしたか容易に想像できた。


「過去にアリス・フォルフォードと接点のある使用人は一人も居ませんでした」

「そうか」


 元々ヒガナは、昼間話した印象から使用人たちをさほど疑ってはいなかった。だが、確たる根拠がなく決めつけるのは避けたかった。

 ココから提出された資料は、使用人たちを容疑者から外すには十分な威圧感を放っていた。

 しかし、そうなると容疑者は──。


「因みに、この資料に載っているのは業務計画に組み込まれている使用人だけです」

「つまり、ここ最近屋敷に仕えるようになった、又は業務に関わっていない人が容疑者」


 ゆっくりとココは首肯し、容疑者の名前を紡ぐ。


「──ソフィア様、べティー、アルベール。この三人の誰かが密告者です」


 ヒガナはそこから更に一人削れる。

 前の周回でココが密告者を『彼女』と言っていた。

 つまり、密告者は女性。

 男性であるアルベールは除外される。


 ──………………。


 一度は考えたが、考えたくはなかった。

 しかし、容赦ない運命はヒガナを苦悩させる。

 受け入れるしかない。前に進むしかアリスを、屋敷のみんなを救えないのだから。

 ヒガナは運命を直視する。



 密告者は、ソフィアかベティーのどちらかだ。



「密告者が絞れたところで、計画をお話ししましょうか」

「誰かは教えてくれないんだな」

「明日になれば分かることですから」


 それっきり密告者のことは教えてくれなくなったココは、目的に至るための計画の全容をヒガナに開示した。

 聞き終える頃、ヒガナは目を丸くし全身がわなわなと震えていた。

 興奮や感動からではない。

 怒りを通り越して、呆れたのだ。


「本気、なのか?」

「もちろん」

「…………綱渡りもいいところだ。それに、肝心の部分が俺たちの力量に委ねられているじゃないか」


 不安がるヒガナに、心配無用とした風に胸を張るココ。その表情はどこまでも自信に満ち溢れていた。


「大きな成果を得るには大きな危険を伴うものです。大丈夫です、全て上手くいかせますから」

「分かった。ここで怖気付いても何も変わらない。俺は、俺にできることやるだけだ」


 自分に言い聞かせるように呟くヒガナ。

 その様子を目の前で眺めていたココは、紅茶をゆっくりと味わい、艶めかしく嗤った。

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