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愚者の此岸 世界の彼岸  作者: 栗槙ねも
第二章 『朧月夜の兎』
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二章 第17話 『忘却の三人目』


 沈黙がヒガナと給仕長の間に流れた。

 意表を突いた質問に給仕長は思考に空白が生まれたのか、はたまた答えあぐねているのか。どちらにせよ、給仕長の生み出す沈黙はヒガナにとっては真実に一歩近づいた証でもある。

 だが、次に給仕長が発した言葉にヒガナは目を剥いた。


「ココと(わたくし)が企む? 一体何のことを仰っているのでしょう?」


 首を傾げる給仕長を、疑いながらヒガナは睨みつけた。

 本当に何も知らないのか。

 知っているが、はぐらかしているのか。

 真実を言っているのか。

 嘘を言っているのか。


 ──分からない。


 卓越した観察眼を持っていないヒガナは表情を一切変えない給仕長の本心が全く見えない。目は口ほどに物を言う、と言うが給仕長は瞑目しているので何一つ物を言わない。真実を述べてはくれない。

 だからといって、はいそうですかと納得して引き退る訳には行かない。


「嘘だ。貴女は何かを知っているはずだ」

「寧ろこちらの方が知りたいですわ。お客様は何をもってして我々が企んでいると思うかを」

「それは……」


 実際に見たと言ったところで信じて貰えるはずがない。給仕長にとってはこれから起こす可能性がある未来なのだから。

 答えられずにいると、給仕長は小さく溜め息を吐いて頭を下げた。


「話がそれだけでしたら、業務に戻らせていただきますわ」


 元の進路方向に身体を向けて、歩き出そうとする給仕長。

 ここで逃す訳には行かない、と焦ったヒガナは給仕長の肩を掴んで、こちらに正面を強引に向かせて壁際に追い詰めた。そして、彼女が逃げられないように、両手を壁に勢いよく付ける。

 綺麗にたたまれていたバスタオルが、形を崩して廊下に敷き詰められた絨毯に落ちた。

 身長は給仕長の方がやや高いので様にはなっていないが今のヒガナにはどうでもいいことだ。


「まだ話は終わってない!」

「は、はいぃ」


 この恋愛漫画やアニメにありそうな演出は意外なことに給仕長の鉄仮面を破壊するキッカケになった。なんと、給仕長の頬はどんどん紅く染まって、表情に恥ずかしさと若干の嬉しさが浮き上がってきたのだ。


「俺は貴女たちの目的を知る必要がある。そうしないといつまでも経っても前に進めないんだ」

「そうは言われましても……どんなに考えても身に覚えがありませんわ」


 震える唇を必死に動かして、給仕長は弁明をする。火照った態度には嘘は無いように見えた。

 ヒガナは念のために再度問いかける。


「本当に知らないんですか?」

「ここまで迫られ、真剣な瞳で見つめられたら、一切合切話してしまいますわ。ですが、(わたくし)には話せることが何もありませんの」

「神……いいや、ウェールズさんに誓えますか?」

「我が当主に誓いますわ」


 給仕長は何度も頷き、誓いを述べた。

 シロだと判断したヒガナは給仕長を心理的に押さえていた両手を壁から離す。

 その途端、給仕長は萎れるように廊下にへたり込んだ。


「だ、大丈夫ですか!?」

「おーっ」


 給仕長の安否を気にしたと同時に感嘆の声があらゆる方向から聞こえてきた。何人もの使用人が廊下の角、部屋の中、窓から一部始終を固唾を飲んで見ていたことに、ヒガナは今更ながら気が付いた。

 わらわらとヒガナと給仕長の元に集まった使用人たちは興奮した様子だった。


「給仕長を怯ませるとはお客様は只者ではありませんね!」「面白そうなので、さっきの壁にドンってするの私にもして下さいよー」「どんな言葉を囁いて給仕長を骨抜きにしたんですか!?」「可愛い顔して大胆ねぇ。ベッドの上でもそうなのかしら? 想像したら……あぁ、お姉さんゾクゾクしちゃう」「貴様、淫魔、相性良好」「えっと! あの、その.......あわわわわわっ!!」


「ちょ、ちょっと待って! そんなに来られるとマズ……」


 複数人の淫魔による魅了の重複は耐性を易々と貫く。身体の奥からマグマのように煮え立つ激情が湧き上がり、ヒガナは咄嗟に鼻を押さえた。

 緊急事態のヒガナに対して、給仕長は立ち上がり、乱れた髪やメイド服を整えながら言う。


「我々は単なる使用人、業務を全うするのみですわ。仮に何かを企んでいるとしたら、ココだけですわ。そして、その企みの全容を我々が知るのはいつも行動を起こす直前。あの子、秘密主義ですの。急に突拍子もないことを言われて困惑することも多々ありますが、あの子の行いは、御当主様に、我々に、グウィディオン家に、延いては王国により良い結果をもたらしますわ」


「………………」


「お客様が知りたい事柄に満足して頂ける答えは、(わたくし)は持ち合わせてはいませんわ。答えを知っているとしたら」


「ココだけって、ことですか」


 給仕長はゆっくりと首肯する。

 やはり、本丸を直接叩くしか解決の糸口は掴めないらしい。

 数時間に及ぶ捜査の結果としては、やや収穫は少ない──密告者も特定できなかった──が、正しい道筋は見えた。加えて使用人たちからの好感度が上がる、という追加報酬を得られた。


「あ……これダメだ……」


 魅惑の視覚情報に処理が追いつかなくなったヒガナの脳はあえなくシャットダウン。暗闇に飲まれる視界の中に見えたのは美少女と美女、そして自身の鼻から噴き出た鮮血だった。



×××



「あっ、目が覚めたのね」


 覚醒した身体が最初に使った感覚は聴覚だった。

 清らかな水の様に透き通った声は、最高の目覚めを演出するには十分過ぎる。


 真っ白なベッドの上で上体を起こすヒガナ。思考が若干朦朧とし、宙に浮いたような心地は使用人たちの魅了の後遺症だろうか。


 ベッドの傍らにある椅子に腰掛けて、ヒガナの安否を気にしていたのは、白銀の髪と漆黒の瞳を持つ少女だ。その姿は茜色に染まる光を背に受け、ある種の神々しさすら感じる。


「ソフィア……? アリスと一緒じゃ……」

「アリスなら使用人の子たちとお話ししているわ。淫魔以外の同族に会えるのは滅多にないからって、みんなアリスに興味津々なの」

「同族……あぁ、ノノちゃんもそんなこと言ってたな」


 アリスは天兎(てんと)という亜人族と魔族のハーフ──魔天兎になる。正直、どこに魔族要素があるのかヒガナには皆目見当がつかないが、本人の申告やノノの反応を見る限り魔族の血は確かに流れているみたいだ。


 それはともかく、ヒガナが驚いたのは使用人たちのアリスへの態度だ。

 彼女たちはアリスのことを怖がったり、偏見の目では見ないのだ。全く世論に流されていないと言ってもいいだろう。集団の意見より自己の意見を優先している様に見える。

 やはり、淫魔である彼女たちの在り方は人間と異なるんだな、とヒガナは思った。


「具合はどう? 少しは良くなった?」

「大丈夫、問題ないよ。気になったんだけどソフィアはどうしてここに?」

「倒れたって聞いたから様子を見に来たの。…………ほら、ヒガナのことをウェールズから任されているから」


 相変わらず真面目で、律儀で、責任感の強い子だ。彼女の真摯な姿勢にヒガナの中での評価は更に高まった。


「そっか、ありがとうソフィア」

「うん、どういたしまして」


 感謝の言葉を素直に受け取りソフィアは嬉しそうに微笑んだ。

 ふと、ヒガナは気になることが出てきて、ソフィアに聞いてみることにした。


「そういえば、この屋敷に住んでる人って結構居たりする?」


 それは、惨劇に見舞われた屋敷でのウェールズの台詞だ。瀕死の彼から零れたのはヒガナたちが屋敷に来てから一度も顔を合わせてない人物の名前だった。

 ソフィアは綺麗な手を使って屋敷の住人を数え始める。


「えっと、ウェールズ、ココ、アルベール、使用人のみんな、私……それと私は会ったことないけど、クラリスとヨハンって人が住んでいるみたいよ」

「えっ、ソフィアも会ったことないのか?」


 ヒガナの驚きに、ソフィアはコクリと頷く。


「確か、どっちかが凄い治癒術師であっちこっち行っているの。もう一人は助手。だから、屋敷には滅多に帰ってこないってナノが教えてくれたわ」

「へぇ、治癒術師か」


 治癒術師と聞いて連想したのは、今もこの屋敷のどこかに潜伏しているであろう、桃色の髪と紫紺の瞳が印象的な少女だった。


「治癒術師に良い思い出があるの?」

「え?」


 キョトンとするヒガナ。

 ソフィアはクスリと笑って、ヒガナの口元を指差した。


「笑ってるから」

「良い思い出っていうか、治癒魔術が得意な子がいて、何度も助けて貰ったんだ。すげぇ、良い子でさ……ちゃんとお礼しなきゃなって」

「それは女の子なの?」

「え、ああ、そうだよ」


 ソフィアの眉間に少しだけシワが寄り、ムッと頬が膨らんだ。面白くないという顔をして、十字架のネックレスを触り始める。アリスとの関係を誤解した時と同じだ。


「ヒガナの周りには女の子しかいないのね」


「うーん、言われてみればそうかもしれないな。モテ期ってヤツかもな!」

「あんまり色んな女の子に手を出すのは良くないわ。ヒガナは……その、あれよ、そこはかとなく女運無さそうだから!」

「否定しきれないから割と辛い!」

「あっ、ごめんなさい。失礼よね、初対面の人にそんなこと言って」


 失言してしまった唇を隠すように触れて、ソフィアは申し訳なさそうに顔を伏せた。

 本当に正統派ヒロインみたいな女の子だな、とヒガナは微笑みを零した。


「気にしなくていいよ。つか、流石に三人に言われたら納得せざるを得ないな」

「三人?」

「一人は君で、一人は母さんにな」


 その時のことはヒガナの記憶に良く残っていた。

 何しろトイレに入ろうとした瞬間、母親に腕を掴まれ『アンタの女運、信じられないくらい悪いね。大凶よ、大凶』と何の脈絡もなく言われたのだ。

 ヒガナの母親は変人の類いで、周りを困惑させることが多々あった。しかし、彼女の言うことは怖いくらい当たるのだ。


「それじゃあ、三人目は?」

「三人目は……三人目……あれ、誰に言われたんだっけ」



×××



 恐らく数十人が同時に入っても余裕がありそうな巨大な浴槽。そこには丁度良い温度に温められた湯が並々と張られている。


 タオルを頭に乗せたヒガナは手脚を存分に伸ばし、極上の癒しを満喫していた。この入浴時間は彼にとって、この後に控えている戦いに備え、英気を養う意味合いも含まれている。


「──ココ」


 現状において最大の敵であり、謎となっている白縹(しろはだ)髪の少女。

 これまでと同じ展開をなぞるなら、この湯浴みの後にココはヒガナの部屋に訪れる筈だ。彼女とサシで話せるのはこの瞬間をおいて他にはない。

 つまり、ここでココが描いている計画の全容を知らなければ、前回と同じ──アリスが処刑される未来に帰着してしまう可能性がある。


「それだけは絶対にダメだ」


 ヒガナには一つ杞憂があった。


 ──ココと対峙した時、俺は正気を保っていられるのか。


 前周、ヒガナたちの計画を踏み躙り、アリスを間接的に殺したのがココだ。そんな相手を目の当たりにして、冷静でいられるほどヒガナの精神は達観していない。

 夕食の時間も他の目があったから抑えることができていたが、二人きりになったらこの憎悪を抑えられるだろうか。

 だが、それではダメなのだ。

 感情を限界まで抑え、心の芯まで冷静になり対処しなければ、ココという名の悪魔に対抗することは不可能だ。

 だから、


「──よろしければお背中流しましょうか、お客様」


 この瞬間に、現れたのは一糸纏わぬ魅惑の肢体を惜しげもなく晒す、白縹(しろはなだ)髪の悪魔。


 ヒガナの脳裏に言葉が過ぎる。


 ──致命的な一撃。


 彼女の行動はヒガナに明らかな動揺を誘い、対話の主導権を握るには十分過ぎた。

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