7.暗闇の元
玄関からすぐに広がった居間の内装は、異様なほど狭く感じられた。
得体の知れない大小数多の雑貨や、所構わず積み上げられた書物の山々がその原因で、それらは置かれているというより捨てられていると言った方が見るに正しい。
まるで長く放置された物置小屋のようだ。湿り気を帯びた埃の臭いと、外から侵入した焦げ臭さとが入り混じっている。長く留まりたいと思う人間は稀であろう。
天井に張り巡らされた蜘蛛の巣に絡まれ、羽虫がもがいていた。その動きを察知して、巣の主が前肢を伸ばす。薄暗い頭上の晩餐に、フィーネとベニーが気付く事は無かった。
二人が宛てがわれた部屋は、居間を通って左方の廊下を進んだ先にある。居間を最短経路で抜けるには障害物が多い。足元に注意を払い、曲がりくねった順路を辿るのはそれだけで至難の業だ。
昼の間に大まかな所を把握していなければ、戸口で立ち尽くしていた事だろう。事実、昨晩初めて足を踏み入れた際には幾つかの山を崩し、魔女に睨まれながら直す羽目になった。
唯一の頼りとして灯り点いた蝋燭は、部屋の正面奥、窓際の書斎机の上で隙間風に揺れていた。書斎机の手前、所々の解れた数人掛けのソファに、巨大な芋虫のような影が横たわっている。
顔を覆う三角帽子。毛布代わりに被った襤褸の袖から、片腕がだらりと下がっている。芋虫は死体のようでもあり、微動だにしない。細い指先は床に転がったウィスキーボトルを止めていた。魔女だ。
顔を見合わせた二人は物音を立てないよう、視線を落として慎重に足を運んだ……が、すぐに咎められた。
「まるで盗人だな」
険のある声は眠たげに重く、けれど室内に澄み渡る様に響いた。声の方を見やれば、魔女がのそりと起き上がる。
「遠慮をするタチでは無いと思っていたんだが、意外だよ。お前達にそんな良識があるとは」
帽子を手に取り、半分以上閉じたままの目で二人を見つめた。殺す視線にたじろぐフィーネ。ベニーが庇う様にして半歩前へ進み出る。そんな二人の様子を眺め、魔女は大きな欠伸を一つ。
「貴女に良識を疑われるとは心外ですね」
皮肉に対し、ベニーが返す。受けて、嘲笑を乗せた唇が動く。
「機嫌が良さそうだな、坊や。生きる目的でも見つけたか」
「仮にそうだとして、貴女に教える必要がありますか?」
「どうせ果たせやしないんだ。そんな望みに興味など無い」
「そうでしょうね」
そんな事より、と。魔女は首の骨を鳴らす。小さく吐息を零し、少年を見据えた。僅かに首を傾げるベニー。魔女は自身を覆っていた襤褸を押し退け、ソファに座りなおすと、気怠げに手招きをする。
「こっちに来い」
「……」
「どうした、私が恐ろしいか? そう警戒せずとも、取って食いやしないさ」
言われ、暫し沈黙したベニーは魔女へと近付く。魔女の対面、長方形のテーブルを挟んで置かれた二脚の丸椅子の前に立つ。
「座れ」
「用件があるならこのまま聞きますよ」
「いいからさっさと座れ」
ベニーは肩を竦め、丸椅子に腰掛ける。倣って座ろうとしたフィーネを魔女は言葉で制した。
「お前はそこに立っていろ」
「え……」
動きを止めたフィーネに魔女は目もくれない。卓上に散らかった雑貨を乱暴に脇へと寄せ、その山の中から小さなグラスを摘まみ上げる。床に転がったボトルを拾い、器用に片手で栓を抜く。凡そ一口分、グラスに液体を注ぐとベニーの前へ滑らせた。差し出されたソレを見つめ、ベニーは顔を上げる。
「何のつもりですか、これは」
「察しが悪いな」
抑揚の無い声で魔女は答える。
「告解だよ。酒によって舌を清め、嘘偽りの無い告白を誓う。教会が定めた段取りだ。酔わせて正常な判断を奪い、秘匿を自ら曝かせる。教会にしては理に適った方法だ」
回答を受けて、ベニーもフィーネも目を丸くした。“告解”とは死を間際にした者と、葬儀士の間で為される対話の儀礼であり、二人にとってはすっかり馴染み深くなってしまったものである。物言いはともかくとして、まさか魔女の口からそれが出てくるとは思わなかったのだ。
「私はお前達の葬送を引き受けた。ただ死体を灰にすればいい……そういう契約だったな」
だが、と言葉を続ける。
「葬送を乞われた以上、教会の有難い教えに則れば、私には知る権利がある筈だ。そしてお前には話す義務がある。お前自身について」
魔女の言う通り、告解は葬儀士に与えられた権利だ。葬送の際に生じる光の奔流は、葬られる者の魂に刻まれた記憶の放出と言い換えられる。つまり、葬儀士は死者の記憶を垣間見る事になるのだ。
葬儀士として高い技量を持てば持つほどに、記憶はより多く、深く、鮮明な光景となって、一瞬の内に葬る者の意識を駆け巡ると謂われている。
「なに、全てを話せとは言わないさ」
人の一生に刻まれた記憶。その膨大な情報と感情の渦を、何の準備も無く受け取る事は、往々にして人間が処理出来る許容を超える。故に可能な限り、葬送を受ける者は生前に告解を為しておく事を求められる。それは葬儀士達の為であると同時、終を迎える者に懺悔を吐き出させる為でもある。
「お前は私の質問に答えればそれでいい。代行者気取りでお高くとまった葬儀士と話すのに比べれば、楽なものだろう?」
魔女の語り口は退屈そうで抑揚の無いものから、愉しげな色を孕んで変化していた。感じ取り、ベニーは溜息を吐く。
「好奇心を満たしたいだけでは?」
「それもある」
「悪趣味ですね」
「趣味が良い様に見えたか?」
指摘に対して悪びれもせず、魔女は心根を隠そうともしない。その事にベニーが強い嫌悪を抱く事は無かった。苛立ちや呆れはあるが、いっそ清々しい魔女の態度には諦めが付けられる。
「……はぁ」
再度、溜息を一つ。ベニーは眼下のグラスを手に取り、口付けた。馴れない酒気に不快感が込み上げる。その感覚を無視して、一気に喉へ流し込んだ。臓腑の奥底に沈められた酔いの香気が、少年の意識を曇らせる。俯き、膝の上に置いた両拳を握り締めて己を奮い立たせた。そんなベニーの様子を、魔女は灰色の髪に隠れた暗い瞳で観察する。
「ベニー、平気? 大丈夫なの……?」
「心配ないよ。さぁ、質問をどうぞ」
不安げに気遣うフィーネに微笑を返し、魔女へと向き直る。
「良い子だ」
魔女は少年から差し返されたグラスを受け取り、なみなみと液体を注いだ。事も無げにそれを煽り、陶酔するかの如く目を閉じる。顎を天井に向け、目を開く。少年の背後でフィーネは人知れず固唾を飲んだ。
「家族は居るか」
ともすれば、それは当たり障りの無い質問だったといえる。けれど、フィーネの心臓は跳ね上がった。その問は、朝に少年が言い淀んだものであったからだ。彼の顔色を、背後から窺い知る事は出来ない。返答を待つ時間はいやに永く感じられた。
「居ません」
呆気ないほどあっさりと秘匿を晒す少年。しかし、そこまではフィーネにも予想できた答えである。
「死んだか」
「母は僕を産んで間も無く。父も一年前に始祖の許へ還りました」
「何故死んだ?」
「葬送を担ってくれた葬儀士の話によれば、布教に出向いた先で異端の者に殺された……と。嘘では無いと思います。父は導師として熱心な人でしたから」
「馬鹿な父親だな」
つまらなそうに感想を漏らす魔女。
「おっと、失礼」
「……信仰を知らない人からすれば、愚かな事かもしれないですね」
魔女の明らかな挑発をいなし、ベニーは語る。
「けれど、教えに殉じた父を僕は誇りに思っている。父は」
「次の問だ」
遮り、魔女は言う。少年は特に咎める事無く頷き、それを促した。
「何故、葬送を求める?」
「死ぬからです」
「なら黙って死ねよ」
冷たく言い放つ。声色には呆れと億劫が浮かんでいる。
「全ての者に葬送が必要なワケじゃない。そんな事をわざわざ説明させるつもりか?」
日夜、人は生まれ、死んでいく。限られた葬儀士達の手によって、全てを弔う事は現実的に不可能だ。手に余った多くの者の遺体は、その地の風習に沿った火葬によって灰にされる。
「全ての葬儀士から拒まれたお前の葬送を、他とまとめて燃やすでもなく、教会がわざわざ書簡を送ってまで私に依頼する」
「……」
「その必要があると教会が認めた……考えられる可能性はそう多くない」
(ベニー……)
それも又、フィーネには予想出来ていた。彼の抱えている事情が並々ならぬものだという事。自らもそうであるからこそ、そうでなければ、聖都から此処まで旅路を共にするワケが無いという事。
詳細は分からない。けれど、教会が背信者たる魔女へ頭を下げるだけの事情があるとすれば――
――次なる魔女の問は、少女の予想を越えた。
「お前は使徒だな」
「!」
刹那、フィーネは息を呑み、目を見開いた。沈黙する少年。その影越しに窺った魔女の顔色には暖かさは勿論、冷たさすらも無い。退屈しのぎに羽虫を観察するような、無機質で空虚な代物だ。
「偶に来るんだよ、背教者の心臓を止めるのに熱心な奴らが」
使徒。
白き灰の使徒。
狂信的とも言える敬虔な信徒によって構成された粛清機関。教会内部でも大きな影響力を持つ彼等は、教皇の意思から独立した使命を掲げている。
即ち――咎人に死の救済を。
「昨日お前が見せた体捌きといい、私への態度といい、そう考えれば全てに合点がいく」
曲がりなりにも聖女と呼ばれる者として、フィーネもその名前は知っていた。一般の信徒が実しやかに囁く闇の存在が、真実存在するのか否かなど、嫌でも分かってしまう。
だが、それだけだった。それは一種の禁忌とされ、表立った示唆を語る者は誰も居なかった。否、“居なくなった”のだ。
「死ぬのは嘘じゃないんだろう。でなければ、使徒が私を前にして大人しくしているワケが無い。禁忌に触れた者の亡骸は、捨て置けば必ず灰物となる」
使徒。信仰故に戒律を破り、禁忌の術に触れた者達。
灰物。この世に災いを齎す物の総称。
人の器に人ならざる物の力を注げば、器はやがて崩壊する。崩壊した器は力と混ざり、大地に翳りを落とす。
「……で、どうなんだ?」
見透かし、嘲るように問い掛ける。
「答える、必要は、無い」
絞り出す様に返す少年。その反応は苦しげで、何かを堪えているようだった。唇を噛み、肩を震わせる。静かに握られた拳と長袖の隙間から、砂粒ほどの灰が床へと零れ落ちる。
唸る風が強く窓を叩く。少年の様子を訝しむフィーネの首筋を冷気が舐めた。獣の口腔に身を置いたかの如く、生温い心地悪さが少女の総身を這い回る。魔女の後方で蝋燭の火が揺れる。
「答えずとも、今のお前の反応で十分だ」
知らん顔の魔女は言って、鼻を鳴らす。少年と少女は悟った。質問は“この為”だったのだと。
遊興、娯楽、暇つぶし。魔女の目的は告解による相互理解や懺悔になど無い。好奇心すらも「ついで」なのであろう。全てを見通した上で、その真意は少年を嘲笑う事そのものにあるのだと。
(ひどい……!)
悟り、フィーネは思わず叫びかけた。が、静かに唸る少年の殺意に阻まれる。
「知った風な口を……今すぐ閉じろ。薄汚い魔女め」
(ベニー……?)
風が強くなる。少年の横髪が僅かに逆立ち、灰が一瞬、目に見える勢いで沸き立った。白き灰は、狼煙の如く天井に吸い込まれていく。その時初めて、フィーネの中で少年に対する確かな恐怖心が芽生えた。
殺意は確実に魔女へと向けられたものだ。然し、今の彼に一声でも掛けようものなら、殺意はあっさりと方向を変え、自分に向けられるだろう……と。故に一言も発せられず、微塵にも動く事が出来ない。
少年の齢は自分とさして変わらない筈だ。十四か、その辺りなのは間違い無い。だというのに、幼さすら滲む容姿から放たれる気には、傍に立っているだけで喉を突き刺されるかの様な錯覚を覚える。一体どんな運命を辿れば、その歳にして然様な気を放つ者と成り得るのか?
「……」
無言。誰かが喉を鳴らす音。暫く口を噤んでいた魔女は、身じろぎもせず呟いた。
「それがお前の手口か」
と――風が止み、一切の雑音が消え去る。
「瞳が開いたな。激情で本性を隠し通せると思っているのか、青臭い。仮面を付けて他者に取り入るのは、使命の為では無く自分の為。拒まれるのが怖いんだろう? 仮面の下を暴かんとすれば、口元の牙を覗かせて拒絶する。拒絶を恐れる癖に、自らは他者を拒む」
「……」
「臆病者の常套手段だ。傲慢で、怠惰で……何よりつまらない。お前と対峙した教会の葬儀士共の反応が目に浮かぶよ。お前、使徒の中でも爪弾きにされていたんだろう」
「…………」
「拒んだのは奴等じゃない、お前だ。自意識過剰な人間はそうやって己の人生を嘆くのさ。この苦しみは誰にも理解される事は無い、と。自らの過ちから目を背け、どこまでも逃避する。死ぬまでな」
「………………」
「嗚呼、つまらん。どんな秘密を抱えているのか少しは期待していたんだが……底が知れた。曝く価値も無さそうだ」
溜息を吐く事すら無く、魔女は吐き捨てる。もはやその暗い瞳は何も見ていない。ただ、仮面を剥がされ、焦燥に歪んだ少年の顔が、瞳孔に反射しているだけだった。
「行っていいぞ」
儀礼の終わりは一方的に告げられた。無言のまま少年は立ち上がる。踵を返し、案じるフィーネを押し退けた。ふらついた足取りで塒から出て行く少年の背中。
「ベニー!」
「待て」
逡巡するも頭を振って、少年を追いかけようとするフィーネを、魔女が呼び止めた。
立ち止まる必要は無い。今すぐ彼を追いかけるべきだ。
駆け巡る思考に逆らい、足が止まる。何故止めたのか、フィーネ自身にも分からなかった。まるで呪縛だ、と少女は胸を押さえた。
乱暴に門戸が開かれる音。扉は閉められる事無く、再び吹き始めた風が室内を一周する。外の闇を見つめていたフィーネは、やがて観念したかの様に魔女へと向き直った。