6.影に潜む
月下、街頭の燭台に灯る炎が闇を揺らす。
赤く縁取られた小さな影が二つ、力無く路上を進んで行く。先を歩く少女の火影が、徐に後行く影へと切り出した。
「良い人だったわよね、ルクルムさん」
「……」
少年は間を置いて、そうですね、と曖昧に返した。心にも無い感想だと思ったが、戯言と吐き捨てるのも気が引けたのだ。少年の返事を受け、少女はばつを悪くしたのか押し黙る。
ルクルム=シレークスの屋敷を出てからというものの、二人はそんなやり取りを幾度も重ねていたのだった――
――都市中央、シレークス邸。
所々に鷹の家紋を掲げる豪奢な外観は見る者を圧倒し、或いは辟易とさせる。内装も同じ有り様だ。
使用人が並んだ廊下を抜けて、派手派手しい客間に通された二人は、食卓の下座に並んで腰掛けた。豪華絢爛な料理の数々が、長いテーブルの上に所狭しと置かれていく。その一切に二人が手を付ける事は無かった。
悠然と上座に構えたルクルムのお家自慢が始まったのは、座って間もなくの事である。
シレークス家の成り立ち。通商連盟、ひいては大陸各国に齎した功績について。誇張を混じえた数々の偉業を語り終えると、ルクルムはようやく本題へと入る。
「従って、フィーネ様がこの街に居られる間の支援をさせて頂きたく」
つまりこの傲岸不遜な商人の目論見は、聖女の擁護者という立場にあった。それを得た時、連盟と教会の二つの組織の中で、男が振るうに許される権威の高さは容易に想像出来る。そして得られる利益も又、計り知れない物であろう。
「ご提案は嬉しく思います、ルクルムさん。ですが……」
「嗚呼、フィーネ様! どうか断らないで下さい! これは貴女の為だけでは無い……我ら通商連盟と聖灰教会が手を取り合う事はルプステラの大地に福音を刻むでしょう。これはその兆しとなり得るのですよ?」
無礼者の主張にベニーは唇を噛んだ。教会の聖女と、連盟の議員。この歓迎とは名ばかりの会食が、されど教会の面子に影響を及ぼすものである事を少年は理解している。故に、迂闊な口出しは出来ない。
「でしたら、連盟の使者として聖都へ直接お越し下さい。そういった由であれば、教皇様も無下にはなさらないでしょうし、私にはルクルムさんの考えている様な価値はありません。私は一人の信徒に過ぎないのですから」
ベニーの心配を余所に、フィーネの対応は実に大人じみていた。聖女と呼ばれる者の立場をよく理解した振る舞いである。が、ルクルムはどこまでも食い下がる。
「何故その様な謙遜を……いえ、嘘を申されるのですか? 聖女様は自らの価値を理解して居られないのか……貴女はかつてあのモエニアの高台にて奇跡を起こされた真にして唯一の聖者! 貴女に価値が無いというのなら、いったい他の誰に価値があるというのです!?」
モエニア。その言葉に反応し、フィーネの顔色に暗雲が立ち込めた。目敏くそれを見留め、ルクルムの勢いが増す。
「あの地での事は……」
「そうだ! ここに詩人を呼びましょう!」
フィーネの言葉を遮って、ルクルムは名案だと言わんばかりに声を高くした。
「聖女フィーネ様のご活躍を詩にし、それを元に歌劇を作りましょう! この都市の劇場は既に御覧になられましたかな? あれは何を隠そう、この私めが総支配人を務めておりまして。大劇場とはいきませんが、造形も内装もかの名高き帝国劇場に勝るとも劣らぬ物であると自負しております。無論、演目も私が取り決めているのですよ」
「……ルクルムさん」
「始祖より賜りし奇跡の御業によってモエニアの惨劇に終止符を打ち、大陸に生きる全ての者にその威光と限りの無い慈愛を知らしめた聖女フィーネ様の大偉業! もはや知らぬ者は大陸の隅々を捜しても居りますまいが、それ故に誰もが貴女様自身の口より語られる言葉を聴きたがるでしょう。それをこの商業都市の劇場にて公演する事のなんと意義深き事か! これは売れますよ」
「申し訳ありません、ルクルムさん」
そこで、フィーネが塞き止めた。
「貴方の厚意には感謝しております。ですが私も彼も、昨日この街にやって来たばかりで、今は落ち着いた時間を求めているのです」
落ち着き、淡々と。
「この先、貴方の力をお借りする事があるかもしれません。その時は私の方から貴方の前に跪く事になりましょう。ですからどうか……ご理解頂けないでしょうか?」
それは細心の注意を払った社交辞令であり、拒絶だった。受けて、ルクルムは表情を冷たくし、肩を竦めて「分かりました」と嘆息混じりに頷いた。
「ではせめて、フィーネ様の為にこの街イチバンの宿を取らせて下さい。どちらにお泊りかは存じませんが、我がシレークス家の管理する要人専用の客亭より優れているという事は無いでしょう。無論、そちらの従者殿にも一室を手配致します。受けて下さいますね?」
「いえ、ですから……」
押し問答は日が暮れるまで続き、業を煮やしたベニーがフィーネの手を引く事でようやく終わりを迎える。
「聖女フィーネは長旅で疲れておいでなのです。とにかく、今日の所はこれにて失礼させて頂きます」
一切振り向く事無く部屋を後にするベニー。腕を掴まれ、強引に引き連れられたフィーネは部屋を出る間際、一礼をした刹那にルクルムを見た。
笑みの消え去った男の眼は少女を人間として、ましてや客人として見ていない。稀少価値の高い宝石でも見るかの様な眼差しだった――
――シレークス邸での一幕を思い出し、ベニーの心に黒い靄が掛かる。怒り、呆れ。濁った感情が思考を支配し、無意味な堂々巡りをさせる。暗闇がそれを促し、フィーネの言葉が少年の内で反芻した。
(あれが良い人だって?)
とんでもない。
(あれは……あれは馬鹿というんだ。君も分かっているだろうに)
喉に迫り上がった言葉を飲み込む。ルクルム=シレークスの慇懃無礼を責め立てるには、幾ら言葉を尽くしても足りない所だが、それはフィーネも理解していて……敢えて言わないようにしているのだろう。そんな彼女を糾弾し、罵倒するのは間違っている。
「……」
故に、無言。
荊棘の様な静寂は遠く蔓延し、魔女の塒に辿り着くまで延々と少年少女を締め上げた。路地裏を通り、貧民街の闇を歩く二人の目に、火のない門灯と暗い窓が映った。立ち止まり、二人は暫しそれを見つめる。
幾許かの安堵がベニーの胸中に訪れる。待ち受けているだろう塒の主の顔を思い浮かべれば、それは甚だ以上、遺憾な事だったが……まだマシだと思った。あの虫唾が走るにやけ面に比べれば、知性があるだけずっと良い。
「ねぇ、ベニー」
ふと、努めた明るい声でフィーネが言う。窓を見つめ、物思いに耽っていたベニーはゆっくりとフィーネに視線を移す。
「明日も礼拝堂に行きましょう。私、あそこが気に入っちゃった」
振り向き。後ろ手を組みながら。上半身を乗り出して笑顔を作る。
「お祈りをして、それからご飯を食べて。まだ行っていない所を見て回りましょう。おじさんも探さなくっちゃ。いつの間にか居なくなってしまうんだもの、お礼を言いそびれてしまったわ」
指折り数えるようにあれこれと、夢でも語るかのように、きらきらと。楽しげに、或いは怒っているかのような口振りで、精一杯に頬を歪ませる。ベニーの前に“無垢な少女”は居なかった。そこに居るのは理想を抱き、現実と葛藤して生きる“人間”だ。その姿は、ベニーがよく知る何かに似ていた。
「フィーネ」
「ね……いいでしょ?」
不安げに睫毛を伏せるフィーネ。ベニーは歩み寄り、その腕を掴んだ。少女のか細い指先を、少女よりも少しだけ大きい少年の両手が、そっと包み込む。
「明日は手を繋いで行きましょうか。フィーネがまた駆け出さない様に」
口先に冗談を乗せながら、優しく頷くベニー。見合わせたフィーネの顔には、幼さの残滓が僅かに残っていた。
繋いだ手をそのままに、塒の戸を開く。隙間から妖しげな蝋燭の光が零れている。
二人は大きく息を吸い込んで、手のひらに感じる熱を頼りに、冷たい闇の先へと足を踏み入れた。