5.ごっこ遊び(3)
礼拝堂の内部は冷たい空気で満たされていた。
色褪せた床。格子の影を落とす天窓は高く、幾つかの古い参列席と祭壇、始祖メアリの像が最低限の体裁を取り繕っている。
フィーネが毎日の様に祈りを捧げていた聖都の公会堂とは、比べるのも馬鹿馬鹿しいほどに小規模で、粗末といっても差し支えない。けれど、少女の内にそれらを責める感情が芽生える事は無かった。むしろその慎ましさを愛おしいとすら感じている。
「驚きました。この街に礼拝堂があるなんて」
呟いたのはベニーだ。感無量で言葉を失った少女に対し、少年は口でこそ驚きを示しているものの、平静にしている。ともすれば対極的にも思える二人の反応を、男は興味深く観察していた。
入口に立つ男と少年を置いて、フィーネは礼拝堂の奥へ進む。焦がれる胸を抑え、一歩一歩を踏みしめる。視線は像に釘付けとなり、近付くほどに何かが満たされる様な――或いは飢えにも似た感覚が沸き立つ。祭壇の前で立ち止まり、跪いて頭を垂れた。厳かに礼拝を為す少女の後ろ姿は、何よりもこの空間に馴染んでいる。それは誤り無く、聖女と呼ばれる者の威容であった。
無言で像を見上げる聖女。
飾り気無く、地味で簡素な出で立ちでありながら……否、であればこそ無垢に、貞淑に。彼女自身の有り様が滲んでいた。黄金の髪が白光を受けて清く輝いている。
「……流石はモエニアの聖女様、だねぇ」
その背を見つめ、言うのを聞いてベニーは男を見上げた。
「私が果物売りじゃなかったら、ここに画家を呼んでいたよ。まったく、絵になるとはこの事だなぁ」
「知ってたんですか?」
訊ねられ、視線を返す男。少年の眼光には強い疑惑の念が浮かんでいる。
何故、フィーネが"聖女"である事を知っているのか? その疑問が浮かぶのは当然だった。ベニーもフィーネも、男に素性を明かしていないのだから。だというのに男はフィーネを聖女と称し、確信めいた賛辞を呈した。
そもそも、男はどうして二人を礼拝堂に連れて来たのか? 「きっと気に入る」。その予想は二人の身分を知っていなければ、成立し得ない物ではないか?
「そう怖い顔をしないでくれ。別に何か企んでいるわけではないよ」
ただ……と。男は気負う様子も無く、しかし茶化す口調を解いて。
「此処は商業都市で、私は商人だからな。噂は耳に入ってくる」
商機を窺う者達にとって、噂や情報は財産と言って良い。得た噂から事実と思しき情報を精査し、商売へと反映させる。商人ならば誰しもが行っている事だ。倣って、男は自身が持つ情報と噂話とを照合し、推察したのであろう。
辻褄の合った言い訳だったが、ベニーの警戒心は緩まない。少年の顔付きからその事は明らかで、男は苦笑いを浮かべた。何も言わず、己を見定めんとする少年を横目に、男は視線を聖女へと戻す――
――およそ一年前。大陸北西、モエニアの高原にて隣立った二つの国が戦争状態へ突入。戦争は様々な思惑の介入、交錯により永く、苛烈なものになるだろうと誰もが予期した。
しかし、その予想を裏切って。戦争はたった三回の戦闘行為を以て終焉を告げた――
――そんな奇跡としか言い様の無い顛末の功労者を、人々はモエニアの聖女と呼んで讃えた。
「これも噂なんだがね」
前置き、男は独白の様に言葉を紡ぐ。
「聖女は奇跡の代償に自らの死期を早めた。それ故に来るべき日の為、準備が進められている」
「……」
来るべき日。その意味は、つまり。
「聖女の亡骸……遺灰には奇跡の力が宿るというのは本当かい?」
少年の片頬が僅かに引き攣る。構わず、男の言葉は続く。
「なんでもその灰を飲み干せば、不死になれるんだとか」
無言。
「もしも噂が本当なら。いや、デタラメだったとしてもだ。鵜呑みにした少なくない連中が、ソイツを求めるだろうな。自分で飲むも良し……商品としてどれほどの価値が付くか」
「それ以上の不敬は赦しませんよ」
一転。これまでのどんな時よりも重く、冷たく。青い火の様な語気が少年の口を衝いた。燎火は怒りと、焦燥を糧に燃えている。その静かな熱に当てられ、男は口を閉ざす。少年を見る事はせず、瞳孔は変わらず聖女を中心に映している。少年も又、同じ物を見ていた。瞳は聖女を、けれど眼差しは更に遠く、深淵に向かって伸びている。
「悪かった」
沈黙を裂き、言葉少なく謝罪する男。少年の返答は無い。幾許かの間を置き、男は言う。
「噂はもう一つある」
「……」
「何も知らない聖女の護衛として、教会は“白き灰の使徒”を一人、彼女の傍に置いている……ていう話だ」
再度、無言。
『守ってあげなさい』
「っ!?」
刹那、少年の耳に入り込んだ言葉は威厳と寛容を湛えていた。何処か聞き覚えのある、けれどハッキリとは思い出せない声。思考を巡らす少年の目に、男の笑窪が入り込んだ。
ふと、第三者の気配。
「おお、やはり此方に居られましたか!」
無遠慮な大声が、外から礼拝堂の内部へ響く。フィーネが振り向き、ベニーも背後を振り返る。
立つ人影は三つ。一つは昨日、フィーネに賛辞を垂れた自警団の兵士。残る二つは見覚えの無い男女だった。男の方は、にやけ面に顎髭を整え、見るからに上等な衣服を身にしている。付き従う女は給仕の格好をしていた。が、腰に帯剣している事から見て、単なる給仕で無いのは想像に難くない。
「……?」
素早くそれらを観察したベニーは、はたと隣の違和感に気付いた。そちらに目をやると……露天商の男が居ない。つい先程まで確かに在った筈の影は、形どころか跡すら微塵も無く、抜け落ちたかの如く消え去っている。
兵士も、男女もその事には全く気付いた様子は無く――まるで、最初から誰も居なかったかの様な。
「お二方を捜していたのですよ」
やけに昂揚している兵士がずかずかと堂内に踏み込み、少年の前に立つ。男、女の順でそれに次いだ。
「此方の御方が是非、フィーネ様にお会いしたいと仰有いましてな」
言って兵士は横に退いた。にやけ面の男が軽く頷き、尊大な足取りで聖域を侵す。
「お初にお目に掛かります。聖女フィーネ。我が名はルクルム……祖父の代より通商連盟最高議会に名を列ねる、シレークス家の現当主で御座います。以後、お見知り置きを」
恭しく一礼するその様は、先刻の大道芸人がした素振りによく似ていた。わざとらしく、仰々しく、大袈裟に。深々と下げた頭を戻し、顎を上げる。ルクルムと名乗った男は、ふと気が付いて少年を睥睨し、フンと鼻を鳴らした。直ぐに視線を聖女へと移し、仕方なさげに溜め息を吐く。
「まったく、聖女様も人が悪い」
「え?」
意味が分からず、フィーネが僅かに息を溢す。問い質そうと口を開きかけるも、ルクルムがそれを待つ事は無い。
「貴女様ほどの御方が何の通達もなしにこの都市へ来訪なされるとは。確かに我ら通商連盟と聖灰教会の間に密接な関係はありません……だが体裁という物があるでしょう?」
「聖女様の来訪。それを知らずなんの歓待もせぬままに置いては我らの沽券に関わる。周囲への示しが付かないのです。いずれ公に知れ渡った際には多くの者の笑い種となる事でしょう」
「それは」
「いえ結構。皆まで申しなさいまするな。聖女様におかれましては俗世の欲に塗れた凡庸なる者にはおよその理解も及ばぬ深いお考えがおありなのだと存じ上げる。えぇ。えぇ分かりますとも! 不肖このルクルムめも似た経験には事欠きませぬ故……同情の念こそ浮かべど糾弾する心算は毛頭御座いません」
フィーネの反応を待たない、一方的な無粋にベニーは倦厭を抱く。その頭上を通り、少女へと放たれた台詞の数々は、察するまでも無くルクルムがどういう人間なのかを如実に示していた。
フィーネの表情が曇る。拒もうにも拒めない、内なる葛藤が隠しきれず表れている。知ってか知らずか、ルクルムは下卑た笑みを少女へと向けながら、やはり一方的な態度で自らの意向を告げる。
「然しながら! こうしてお目通りが叶った以上やはり救世の聖女フィーネ様を前に一礼を以て立ち去るという訳には行きませぬ! 是非とも歓迎の一席を設けたく我が屋敷まで御足労願いたい! 如何かな?」
嫌な男だ、と少年は胸中で毒づいた。
目も、口元も、言葉も。態度も、身の振る舞いも、全てが傲慢に満ち満ちている。歓迎などと抜かしているが、そこに敬服の念は無い。疚しい下心があるのは明白だ。故に、ベニーは少女に代わって不敬を咎めるべく身を乗り出し――背後の返答によって舌を止めた。
「分かりました」
「有り難き幸せ。きっと始祖メアリも我らの出会いを祝福なされている事でしょう」
無機質な少女に対し、ルクルムの癇に障る物言いが返る。それらを見つめるベニーの鼓膜には、いつまでも先程の声が染み付いていた。
『守ってあげなさい』