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1.訪問


 頑強な鎖によって支えられた跳ね橋を渡り、見上げるほどの巨大な門を潜った先に、商業都市は広がっていた。


 行き交う人々、所狭しと並ぶ建築群の構造には規則性が無い。舗装された石畳の道は真っ直ぐに伸びて、脇には旅人を迎える露店商達が、思い思いの商品を軒先に並べて客引きをしている。


 中天に輝く陽光の下、騒々しいほどの活気に溢れた町並みを、ゆったりと進み行く荷馬車の窓から眺める二人の少年少女。

 門からさほど遠くはない、幾つかの十字路を過ぎて、小路に逸れた所にある繋ぎ場で荷馬車が停まる。

 荷馬車の後方から飛び降りる様にして降車した二人は、馬主の老人に礼を言って、各々の荷物を抱えた。


 荷物、とはいっても互いに少し大きめの旅行鞄が一つずつで、服装もそれぞれ簡素な出で立ちである。栗毛の少年が少女の荷物を持とうと申し出たが、少女はそれを丁寧に断った。


「自分の荷物だもの。それにこれくらい、重くもなんともないわ」


 言って、微笑む。


 実り豊かな稲穂を思わせる黄金の髪が、肩下で風にそよいだ。快活に開かれた大きな碧の瞳を、少年は「宝石のようだ」と印象する。

 少女らしいあどけなさと、大人びた様子が混在する彼女の容姿と仕草は、まるで絵画に描かれる乙女の様に愛らしく、美しい。

 少年、ベニーは彼女と初めて会う前に言われた「キミ達はよく似ている」という言葉を思い出していた――僕と彼女の何処(どこ)が似ているのだろうか?


「それじゃあ、行きましょうか。ベニー」


「えぇ、フィーネ」


 頷きあい、歩き出す。この地には初めて訪れた二人だったが、物怖じはしない。共に旅馴れているのだ。

 目的の場所も、人物も、殆ど人伝えの情報しか持ち合わせていない。その様な場合を、ベニーは何度も体験していた。

 フィーネに至っては(くだん)の人物に見覚えがあり、それを思い出す限り「彼女の様な容姿は大陸に二人と居ない」という確信を持っていた。その確信故に、見知らぬ土地での人探しも苦労はしないだろう、と。


 大通りに戻って、より人気のある方へと進む。方向としては都市の中心へ向かう形だ。賑わいがあればあるほど、そこには人々と、情報とが集まる。道中、二人は数種の果実を板に並べた露店商の男に呼び止められた。


「やぁ、そこの若いお二人さん。瑞々しい果実は如何かな? 旅歩きで渇いた喉を潤してくれるよ」


「あぁ、確かに美味しそうですね」


 先に答えたのはベニーだ。商品の一つ、赤く熟れた果実を手に取る。


「本当ね。見ているだけで(よだれ)が溢れそうだわ」


 発言の内容は少し、はしたない様にも思えるが、飾り気無く笑うフィーネの姿に不快感を感じる者はいないだろう。ベニーに(なら)うようにして橙色の果実を手に取った彼女は、懐から数枚の硬貨を取り出す。


 「お幾らですか?」「これくらいです」「どうも」「ありがとう」。


 そんなやり取りがあって、ベニーがそれに次ぐ。お釣りを差し出そうとする露店商の手を遮り、ベニーは彼に訊ねた。


「ところで、僕達は人探しをしているのですが」


「ほう、人探しかい。私に分かればいいが、この街はご覧の通り人で溢れ返っているからなぁ。それも何処から来たかも分からない連中が殆どだ」


 斯く言う私も流れ者さ、と露店商は自嘲気味に笑う。


 彼の言う通り、行き交う人の姿は殆どが二人と同じ(さま)、もしくはそれ以上の荷物を背負い旅人然としていた。住民と思しき人影もちらほらと見かけるが、それほど多くは無い。(もっと)も、仮に住民であったとして、「来るもの拒まず、去るもの追わず」を地で行くこの街においては、いつ、何処から来て、いずれ去るかも分からない者ばかりだ。

 だからこそ、斯様(かよう)な場所で特に目立つ人間は、街中にその存在が知れ渡るものである。ベニーはフィーネに説明を促す。探し人の容姿を知る彼女の方が適任であるという判断だった。


「カレト、という名の人なんです。灰色の髪をしていて……」


「あぁ、なんだ。アンタ達、カレトの知り合いだったのか」


 詳細を語る前に返ってきた反応を見て、二人は流石に驚いた。

 確かに彼女の容姿は珍しいし、それほど探すのに苦労はしないだろうという心算はあった。けれど、それにしたってまさか一人目で見当が付くとは。


「何処にいるかご存知ですか?」


 ベニーの問に露店商が答えようと口を開いた、その時。


「ん、おや……?」


 露店商の目が、二人の肩越しに遠くを向いた。


 甲高い悲鳴が上がり、背後で一際大きくなった喧騒が響き渡る。(いぶか)しむ二人はその悲鳴に急いで振り向き、騒ぎの方を見た。通りを挟んだ向こう側に人だかりが出来ている。


「あ、おい! おふたりさん!」


 露店商が呼び止めるのを無視して、二人はどちらからという事も無く、無言で駆け出す。荷物も置いたまま、脇目も振らず、人だかりの中へと飛び込んでいく。

 人混みを掻い潜り、抜けた先には倒れた人の姿が二つあった。


 一つは俯せに、大柄な男がそれ以上に屈強な数人の男達に取り押さえられている。

 罵詈雑言(ばりぞうごん)を吐きながら暴れる男の視線の先。仰向けに倒れたもう一人の男の痩身、その腹には短剣が突き立てられていた。

 背中からじわりと広がっていく血溜まりの匂いが鼻腔を刺激する。

 何があって、この様な事態になったのか、事後の光景しか見ていない二人には分からない。

 だが、遠巻きに見ても分かる事が一つ、痩身の男は間違いなく、既に事切れている。


 死、だ。


 何度となく見てきた、けれどいつまでも馴れる事の無い、命の終わりの風景。


「っ!」


 フィーネの脳裏に、ある日の記憶が(ほとばし)った。


 夕暮れの丘に立ち、山と積まれた屍の中で己の無力を思い知らされた、そんな記憶。


 早鐘を打つ胸を押さえ、フィーネは荒く呼吸をする。俯く彼女の隣で、その背をさすりながらベニーは取り押さえられている男の方に注視した。

 状況から察して、その男が短剣を突き刺したのであろう事は疑いようも無い。目を細め、獲物を品定めする狼が如く鋭い眼光で男を観察する。


 しばらくして、事態は進行を経た。


「なぁおい。早く来いって! こっちだよ!」


 慌てた野太い声。フィーネ達からは少し離れた野次馬の一群が背後を振り向き、左右に分かれて声の主に道を譲った。

 現れたのは恰幅(かっぷく)の良い髭面(ひげづら)の男だ。額に汗を浮かべながら、誰かを呼ぶ。

 髭面の男の後方から、ふらり、と。覚束(おぼつか)ない足取りで現れる何者か。その様子に焦らされ、髭面の男は声を荒げる。


「早くしろってば! おい、"カレト"!!」


「!」


 瞬間、息苦しさを忘れてフィーネは勢いよく顔を上げた。


 先程とはまた違う、過去の記憶が脳裏に走る。


 白と黒の螺旋の光。幾重にも折り重なった光の繭。


 母の亡骸と、魔女。


 より高鳴りを増した鼓動の波に逆らう事もせず、声の先を見つめる。其処にーー彼女は居た。


「怒鳴るな。頭痛がする」


 そんな、気だるげな声。


「え……」


 思わずフィーネは絶句する。


 少女の記憶の中で燦然と輝く魔女の姿と、目の前の彼女には隔たりがあった。


 双貌の様な穴の空いた唾広の三角帽子を深々と被り……そこまでは良い。無造作に腰元まで伸びた灰色の髪を左右に揺らす彼女は、襤褸布(ぼろぬの)のような黒い外套を羽織っている。


 褐色の肌と、金の刺繍細工が施された黒い祭祀装束は、或いは踊り子の様な独特の妖艶さを有する――が、それにしたって何故そんな浮浪者の様な外套を?


 往来を闊歩(かっぽ)する服装として、その祭祀装束が不適切である事は分かる。起伏に富んだ彼女の肢体と、それを誇張する様に張り付き纏われた黒は、襤褸の隙間から覗き見えるだけでも蠱惑的だ。

 事実、野次馬の中の少なくない幾人かが彼女を見て喉を鳴らし、不躾(ぶしつけ)な者は口笛を吹いた。

 いつか見た荘厳さすら感じる威容が、目前には凡俗な情感を煽る物へと成り下がっている。


 数多の騎士を従え、権威者達の眼下にあって凛と佇み、完璧な動作で祭壇の前へと進み出たかつての姿は其処に無く、ふらふらと歩くその手に、封の開いたウィスキーボトルが握られている。


「ん……」


 おもむろに彼女はボトルの先端へ口付け、天を仰いだ。


 それまで騒がしかった周囲は、ボトルの中を満たす液体の流れる音まで聞き取れるほど静まり返っている。


 「はぁ」と息づき、背中を丸める。唾の傾いた三角帽子の奥、伸ばしっ放しの前髪からようやく見える片目は黒く輝き、けれど重たげな(まぶた)に半分以上遮られていた。眼下の(くま)も酷い。


 およそ同一人物とは思えず、さりとて同一人物でしか有り得ない。矛盾した容貌(ようぼう)に、脳が理解を拒む。


 そんなフィーネの心境など無論お構い無しに、零落した魔女は這う虫を思わせる鈍重さで亡骸へと歩み寄った。

 

 亡骸の傍で屈み、鼻先を亡骸の顔へと近付ける。


「あぁ、間違いなく死んでいるな」


「そんなの見れば分かるだろ!」


 髭面の男は益々苛立ち、声を大きくする。が、魔女は変わらない様子でゆっくりと、髭面を横目に見る。それから「で?」と、至極簡潔に問うた。


「はぁ?」


 首を傾げたのは髭面の方だ。あまりに端的で、その問の意味を理解出来ない。魔女は仕方なさげにその意味を説いてやる。


「何故、私を此処に呼んだんだ?」


「そんなの決まってるだろう!!」


 遂に苛立ちが頂点に達したと言わんばかり、髭面は顔を真っ赤にして絶叫した。


「こんな物がいつまでも店の前にあったら商売にならん! さっさと灰にでも炭にでもしちまってくれ!!」


 随分な言い(ぐさ)に、フィーネは眉を(しか)める。返答を聞いた魔女は瞬きほどの間を置いて「成程」と呟いた。


「目的は客寄せか」


「……何?」


 髭面の顔が強張った。構わず、魔女は言葉を続ける。


「死体が邪魔だと言うのなら、人手を使って何処へなりと放り捨てれば良い。なのに私を呼んだ。お前に慈悲や信心があるわけも無し」


「なっ……」


「此処で葬送が為されたと知れれば、好奇心旺盛な連中がやってきて、嫌でもお前の店の前に立ち止まる。今日1日の稼ぎが良くなるかもしれない、と踏んだんだな」


 髭面は呆気に取られた顔で固まり、口を(つぐ)んだ。どうやら図星だったらしい。あっさりと目論みを見抜かれ、公然とそれを知らしめられるなどと思わなかったのだろう。魔女はにたり、と口角を吊り上げ、髭面へと詰め寄る。

 突如として寄られ、髭面は慌てふためきながら後退りしようとするも、無遠慮に近付く魔女にすぐ追い込まれた。

 何か言おうと焦る髭面の、震える口元に魔女の人差し指が触れる。


「何、責めはしないさ。だがな」


 人差し指が離れ、代わりに手のひらが差し出される。


「頂く物は頂く。前金だ、さっさと寄越せ」


 ひらひらと。髭面の鼻の先を煽って催促する。やがて髭面は苦虫を噛み潰したかのような表情で魔女を睨んだ。

 それから乱暴に自身の懐に片手を突っ込み、膨らんだ小さな巾着袋を取り出すと、やはり乱暴な動作でそれを魔女の手のひらに置いた。


「確かに」


 じゃり、と音の鳴る巾着袋を握り締め、魔女は(きびす)を返す。再度、亡骸の前に屈み込んだ。

 亡骸より生えた短剣の柄を無造作に掴む。そうして――


――土は、土に。と呟いた。


 フィーネは瞠目(どうもく)する。いつかと同じ白と黒の螺旋が魔女の手と、短剣の刃先から漏れ出し、昇天した。野外を縦横無尽に駆け巡る光の先端がフィーネの前髪をなぞる。髭面の男が吹き荒れた突風に押し飛ばされた。


――塵は、塵に。と続ける。


 収束する光の群れ。群れは亡骸と魔女を包み、繭となる。


 それらは、記憶の中の光景と変わらぬ凄烈さで、観衆全ての視線を釘付けにする。

 暴れていた男も、それを取り押さえていた者達も、我を忘れて光の変遷(へんせん)に見惚れていた。フィーネの傍らで「綺麗だ……」と、ベニーが感嘆を漏らす。


 そう、綺麗だ。


 人が人を殺し、その死を商いの種にしようとした者がいて。物見遊山で見物する者達がいて、何も出来ない者がいて。


 そんな凄惨な舞台上にあって、光は何処までも、果てしなく、悲しいほどに美しい――


――灰は、灰に。と言い終える。


 刹那、光は四方八方へ飛散し、跡形も無く消え去った。


「あ……」


 と、フィーネは思わず息を呑む。


 商業都市の路上に吹き込んだ異様の光景は、呆気なく終わりを迎えた。


 一つ、事の前後で変わった事があるとすれば、亡骸が消えている。代わりに、新雪よりも白い一山の灰が積み上げられていた。


「 」


 魔女が何かを呟く。ざわざわと騒ぎ出す観衆に掻き消され、何を言ったかは分からない。が、次の瞬間、灰は意思を持ったかのように襤褸の中へと吸い込まれていった。


「さてと……」


 仕事を終え、一息吐いた魔女は向き直る。髭面の方へ、ではなく、取り押さえられた男の方へ。相変わらずのふらふらとした歩みで、ウィスキーを煽った。


「次はお前の番だな」


 言われ、男は先の髭面同様に首を傾げる。言っている意味が分からない。だがそれは男だけではなく、この一幕を見守る者が皆同様に抱いた疑問の現れでもある。

 

 魔女は片手に握ったままの短剣を、男の眼前に放った。


 そして、男を取り押さえている者達に顎で「放せ」と指示を送る。彼らは困惑し、お互いの顔を見合わせたが、やがて恐る恐るといった感じで魔女の意に従った。


「お前には……あー」


 言い淀み、空いた手を突き出す。立てられた三本指を男は倒れた体勢のまま、不審げに見つめる。


「三つ。そう、三つの選択肢がある。いいか、よく聞けよ」


 一つ目は。


「自警団の連中が来るのを待って、大人しく縛に付く。実際の所、これが最も賢明だな」


 「いや待てよ」と、わざとらしい仕草で顎を撫でる。


「やっぱり間抜けだ。そもそもこんな往来で人を殺してるんだからな。今更どんな風にしたって、馬鹿は馬鹿だ」


 露骨な挑発とも取れる罵倒に、男が眉をしかめた。矢継ぎ早に、魔女は次の選択肢を提示する。


「二つ目。その短剣を使って道を開き、この場を逃げ出す。一見して悪くないようにも思えるが、コレが一番の悪手だな」


 その根拠として挙げられるのが、この商業都市の構造だと魔女は語る。

 罪と罰から逃れ、四面を高い石壁によって覆われた商業都市から脱出するには、北門と南門のどちらかを潜るしか無い。だがどちらの門にも必ず自警団の番兵が配置されている。

 自警団とは、この都市の治安を一定の水準にまで保つ為に、都市を牛耳る『通商連盟』が雇った用心棒達である。

 それなりの騒ぎになっている以上、自警団は既に此処へ向かっているだろうし、大事を取って門の入出を規制している筈だ。短剣一つで切り抜けるには無謀が過ぎる。


「そして、三つ目。個人的にはこれが一番薦められるんだが」


 散々、勿体振って。


「己が喉元に刃を突き刺し、この場で死ぬ事だ」


 そう告げた。男が目を見開く。その様子を魔女は愉しげに眺めている。


「そう驚く事でも無いだろう。生き延びたとして、今のお前にどれほどの未来があると言うんだ?」


 商業都市に定められた法は無い。それを指して自由を謳うが、実態は私刑が(まか)り通るという事だし、通商連盟の意がそのまま法と言い換えられる。


 殺人が許容される事は殆ど無い。自警団に捕らえられた大抵の場合、無期の労働を強いられる。その労働力が通商連盟の大陸各国に提供する商品の一つでもあるのだ。

 消費物として過剰に虐げられる事は無いが、苛酷な環境に置かれるのは間違いない。国民を動員出来ない、労働力を必要とする作業の質など推して知れる。


 未来と呼ぶにはあまりに拙劣。人はそれを末路と呼ぶだろう。


「で、どうする? お前の生は既にお前の手中を離れた。残されたのは死に様の選択だ」


 残酷な宣告。だが、事実だ。


 男もそれは重々承知しているのだろう。だが……


「どうする?」


 魔女の愉しげで、嘲笑うかのような声色が男の気を逆立てる。


「どうする?」


 問う形を為した言葉は、されど問の意を有していない。


 男は唇を噛み、拳を震わせた。


「さぁ、どうする?」


「……あぁぁああッ!!」


 言葉にならない雄叫びを上げ、男は短剣を握った。


 立ち上がり、目には怒りを浮かべて。不遜な笑みを口元に張り付けた魔女へ突進する。


 きっと、その場に居合わせた者の多くが惨劇の再来を予感した。悲鳴が上がり、屈強な者達が男の背中を追いかける。


 魔女は微動だにせず、男の怒気を迎え入れる。その笑みの裏に隠された真意は誰にも分からない。


「駄目っ!」


 思わず叫ぶ少女。


 駆け出そうとする少女、フィーネの行動を――


――少年の疾駆が上回る。


(え……?)


 まさしく刹那の時を以て、栗毛の少年が舞台に立った。


 男と魔女の合間、得物も持たず躍り出る。


 突然の出来事に誰もが言葉を失った。


 迫り来る凶刃と、笑みの失せた魔女の視線に挟まれて、少年は低く腰を落とす。その足元から僅かな灰が零れ落ちる。


 肉薄する男へ、絶妙の機を待って足払い。前のめりに体勢を崩した男、その短剣を握る腕を取り、背を向けて男の腕を振り下ろす。


 男の身体が宙へ浮いた。まもなく、その身は地面へと叩き付けられる。衝撃が男の肉を、骨を、臓物を揺さぶる。

 苦悶する男の手から短剣を奪い取るのは然程(さほど)に難しい事では無い。少年、ベニーは奪った短剣を逆手に握り、男の喉元へ突き付けた。


 呆気に取られたのはフィーネだ。優しく、無害に笑む少年の姿は其所に無く、一連の動作は教会の騎士に勝るとも劣らない、洗練されたソレだ。


 驚いたのも束の間、ベニーの手に静かに力が込められるのをフィーネは見た。間に合わないと知りつつ、今度こそ彼女は駆け出す。だが、やはりそれも無意味な事だった。


「待てよ、少年」


 魔女が呼び止め、ベニーの動きが硬直した。


 見下ろす魔女と、俯くベニー。


 沈黙する両者。小指一本の隙間もなく喉元に差し迫った刃に、男は先ほどまでの威勢も何処へやら、怯えた表情で声も出せずにいる。


「ベニー!」


 フィーネが叫んだ。ふ、と。ベニーは顔を上げ、短剣を捨てて立ち上がる。


「全ての罪はその生涯を以て償うべきだ」


 男に吐き捨てる彼の瞳に温かさは無い。背後から駆け寄る少女に振り向いた頃には常の調子を取り戻し、ベニーは大きく嘆息した。


「思わず飛び込んでしまったけれど、どうにかなるものですね」


 肩を撫で下ろす仕草で微笑む少年の顔を見つめ、フィーネは自らの胸の前で両の拳を握った。

 流石に無理があるか、とベニーは内心で自らの失態を恥じる。一体、何を言われるか。ある程度の予測は付くが、遮るつもりは無い。


 しばし見つめ合う。沈黙を破ったのは後方の魔女だった。


「お取り込み中の所、悪いんだがな」


 二人の視線がそちらに移る。興醒めだとでも言いたげに、気だるげな表情を取り直した魔女が二人を見つめ返す。


「命をお救い頂いて感謝するよ」


 まるで気持ちの込もっていない感謝の意を述べつつ。


「何処かで会ったか? 思い出せん」


「僕は初対面ですよ」


 答えるベニー。


「ですが、教会の信徒の中で、貴女の名を……"灰歩きのカレト"の名を知らない者はいないでしょう」


「……」


 黙り込む魔女の眼差しは、気だるげなまま。されどほんの少しだけ鋭さを増した。


「初めまして、カレトさん。僕の事はベニーとお呼びください。こちらはフィーネ」


 言われ、フィーネは気を取り直して魔女に一礼を向けた。


 それにも魔女は何か言う事無く、値踏みするかの如く二人を観察する。


 言葉を続ける少年の声音は変わらねども、その内に含まれた憎悪に近い感情を、それを向けられた魔女だけが感じ取った。


「書簡は届いておりますでしょうか。僕達は教会より貴女へ、我が身の末路を託された者です」

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