16.イノセンツ
新緑のさざめく黄昏時、母は言った。
「お母さんね、死ぬみたいなの」
やけにあっけらかんとした様子で、優しい頬に少しだけ、寂しさのようなものを浮かべながら。
その瞳に映る、幼い私は「しぬ?」と拙く復唱し、首を傾げるばかりだった。
死。その言葉の意味を知らない訳ではない。けれど、其というものの得体が知れなかった。
「始祖の御許に還るのだ」と誰かが言う。「魂の解放である」と誰かが教えてくれた。持ち合わせていたのは、そんな聞き齧りの知識だけ。
「おかあさん、しんじゃうの?」
途端、抱き締められる。樹々の隙間から小鳥の群れが飛び立ち、彼方へと消えていく。僅かに香った焦土の匂いが——嗚呼、母は死ぬのだ。と、否応なしに分からせた。
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聖女アンナの奇跡は死者をも癒す。
大陸の東西南北を駆け巡り、人々に奇跡を施し、万人の讃頌を受ける母が、けれど微笑み以上の何かを返す事は無かった。彼方を見つめ、己の業と行いの一切を語らない。
クチナシの聖女。と、最初に呼んだのは誰だったのか。首を垂れる稲穂のように、瑞々しく艶めいた黄金の髪にはいつからか、その花のブローチが飾られるようになった。私に死期の到来を告げて後、母はブローチを付けなくなった。家に帰ってくる事も、減った。
元より聖女としての務めを果たす為、長い期間、家を留守にする事は珍しくなかった。その間、私は乳母と共に毎朝、聖堂へと赴いて祈っていた。日々生きる事の幸福と試練を与えて下さった始祖への感謝の言葉に乗せて、世界の平穏と、そして何よりも母の無事と、早い帰りを待ち望み、一心にお願いしていたのである。それは、母恋しさに俯く私に乳母が提した妙案であり、習慣だった。
新緑の季が終わり、瑞穂の季が聖都に訪れた頃、母は帰ってきた。
私は使いの人からそれを聞き、門まで走って迎えに行った。旅団の中に母の姿を見つけてすぐ、私は真っ直ぐ駆け寄り。母のお腹に抱き着いた。
「?」
いつもと違ったのはその時だ。
いつもなら、母は私を抱きかかえ、笑顔で「ただいま」を言う。そして私が「おかえり」を返すのである。
その時、母は一瞬よろめいて、膝を折り、私を抱き締めた。少しの間そうして、視線を合わせて微笑みながら母は言った。
「ただいま」
力の無い笑顔ではあったけれど、待ち焦がれていた言葉を受け、嬉々として返そうとした私の意気を、母の次なる言葉が遮った。
「ごめんね」
刹那、私の頭は真っ白になって、母と同じ表情を作る事で精一杯になった。
「おかえり」
上手く、出来ていたと思う。
——————
聖都に帰って間もなく、母は再び旅団と共に門を出た。南方へ向かうのだという。
母の居ない間、私は変わらず祈りを捧げ、都の人々の手伝いをしながら母の帰りを待っていた。
帰ってきたのは、瑞穂の晩期。凍土の季を間近にした頃だった。
門の下に、母の姿は無かった。遠巻きにその影を探す私を見つけた団員の一人が、私を手招きして、ひときわ厳重な警備で護送された馬車の中へと案内してくれた。帰路の途中で倒れたそうだ。座席に横たわり、ばつが悪そうに「ごめんね」と呟く母の姿は、痛ましかった。
「ただいま」
「おかえり」
上手に笑えていたかどうかは、分からない。
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死は色んな臭いがする。
根腐れた花の放つ、独特の臭いを嗅いだ事がある。庭先の花壇が枯れたのだ。私が水をやり過ぎてしまったのがその原因だと知った時、私には自分が決して許されない罪を犯した咎人のように思えた。
それが恐ろしくて、ベッドの上で毛布にくるまり、ずっと震えていた。夜が明けたら審問官がやってきて、私をどこか冷たい場所に連れて行ってしまうんじゃないか。或いはあの窓の隙間から、私が殺した草花の遺恨が復讐にやってくるのではないか。そんな不安が胸いっぱいに広がって、どうしようもなくなってしまった。
そんな時、毛布越しに何かが、震える私を背中から抱きしめた。
大きくて、温かくて、白い腕が私の胸元で交差する。たおやかな指先が涙を掬い取った。目元に残った温かさの余韻が、不思議なほどの安堵を私に与える。
恐慌が和らぎ、徐々に落ち着きを取り戻す。途端、冷静さと眠気とが込み上がった。うつらうつらとして、視界が灰色になっていく。私は背中の感触に身体を預けた。深く沈み込み、ぼんやりと指先を見つめて、気付く。
震えている。怯えているようにも、悲しんでいるようにも見える。たぶん、そのどちらでもあるのだろう。
私は悟った——母は、死ぬのだ。
——————
凍土の季。聖都の街並みを銀雪が覆う。
大陸の中では比較的、温暖な風が吹くこの聖都でも、凍土の最中は少し険しい。
母は家に居た。巡礼の旅を禁じられ、代わりに教皇様より直々に、ここよりも暖かい西方への逗留を勧められたのだけれど。
「どうせ死ぬのだから、最期は家に居たい」
そう言って、断ったらしい。毎日のように、来客が相次ぐようになった。
聖堂への参拝と、手伝いの為に家を出る度、道中で誰かとすれ違った。その誰かは教会の修道衣を纏っていたり、身なりが良かったり、みずぼらしかったりした。多種多様な誰かは、けれど決まって、私の背後に建つ小さな一軒家の扉を叩いた。
彼等は母の一片を連れていく。振り返る事なく、去っていく。
最初は気丈に振舞っていた母も、来客が一人、また一人と訪れる度、生気を失っていった。遂には歩けなくなって、寝たきりになるまで、それほど時間は掛からなかったと思う。母の世話は、私と乳母の二人でした。
母の部屋の扉をノックする度、向こうから「だれ?」とか細い、恐れを混ぜたような声がした。「私よ」と答えれば声は安堵を得て、私の名前を呼び、招き入れた。
「フィーネ、ごめんなさい。入って」
どうして謝るのだろう。最初はそう思っていた。それは母にとって、もはや口癖のようなものになってしまったのだろう。
ごめん、ごめんね、ごめんなさい。言われる度、胸の内が言いようのない思いで一杯になり、張り裂けんばかりに膨らんでいく。それが嫌で、段々と私の足は母の寝所から遠退いていき、ご飯を運ぶ以外には、近付く事すら無くなっていった。
雪風が惨い日は、手伝いも無いし、お祈りも家の中で済ます。何処に居てもあの臭いがした。
——————
萌芽の季。その初め。母は客人達をもてなし続けていた。
喋る事すら困難になった頃、客足はぴたりと止んだ。昼夜を問わず静寂が蔓延るようになり、温かな陽光も、まるで我が家だけ避けているみたいだった。
私はノックをしなくなった。扉を開けて、食事を運ぶ。そうすると母はうっすら目を開けて、私を見て力無く頬を上げながら、ひび割れた唇で掠れた息を吐いた。
寝そべる母の口元にスプーンを運び、私は一方的に、話をし続けた。今日の予定や、起きた出来事。些細な事でも大袈裟にして、捲し立てるように喋り続けた。母は何も言わず、私の話を聞いていた。
或る日、お祈りをしている時。
「いよいよだな」
と、背後で誰かが言った。
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新緑の季節を待たずして、私の母は死んだ。
早朝の出来事だった。朝食を持っていくと、母は上体を起こして窓の外を眺めていた。
呼吸も忘れて固まっていた私を見つけ、母は穏やかな微笑を浮かべた。
「フィーネ」
呼ばれ、私は何も言わずベッドの横にある椅子に腰掛ける。
「良くなったの?」
そんな訳がない。そうは思いながら、けれど目の前の母の、以前のような姿を見ると訊ねずには居られなかった。
問に答えず、ただ私の両手を握る。その手はやはり、以前のように温かい。
「ごめんね」
一言。胸の奥がズキリと痛む。
「ありがとう」
頭の奥の方が、燃えるみたいに熱くなるのを感じた。
「これで」
その続きは、音にならなかった。否、私の耳が機能をしていなかったのかも知れない。
「 」
艶やかに色めいた唇が閉じて、母の首が傾く。
母の手は、まだ温かかった。その温もりをゆっくりと毛布に下ろし、手を離す。
「おやすみなさい、お母さん」
呟き、そして、私は。
「溜息を吐いた」
「……」
魔女は何も言わない。けれど私は構わず、言葉を続けた。
「えぇ、そうよ」
私は溜息を吐いた。だって——
——嬉しかったんだから。
「これで、ようやく終わるんだって」
もう一度、私は野花の上に跪きながら、噛み締めるように呟いた。
「ずっと、苦しかった」
皆が、新緑の木漏れ日から吹く風に目を細め、聖堂で祈りを捧げていた時も。
「苦しかった」
瑞穂の先を眺め、豊穣に笑みを溢し、互いの手を取り合っていた時も。
「くるしかった」
凍土の辛苦を分かち合い、暖炉の前で家族や友人と共に、夢物語を語り明かしていたその時も。
「私だけは、赦されなかった」
どんな時も視線を下げて、多くを語らず、けれど笑みを絶やさず。慎ましくあらねばならなかった。
「何故」
魔女が問う。
「皆がそれを望んでいたから」
私は答える。
いつか、手伝い先のおじさんが、子供達の悪戯に引っ掛かって頭から転んでしまった事があった。
何が起きたのか分からないという、おじさんの素っ頓狂な顔がおかしくて、その場に居た皆が思わず吹き出した。釣られて、私もお腹を抱えて大笑いをした。
途端、まるで凍り付いたみたいに、その場が静まり返る。気付き、心臓がドクンと跳ねた。恐る恐る顔を上げて周囲を見ると、皆が私を見つめていた。
咎めるような、憐れむような、そんな視線が、今でも忘れられない。
「私は、聖女の娘だから」
だから、皆と同じ顔をしてはいけないのだと。
「誰かがそう言ったのか」
「いいえ」
いっそ言ってくれれば、どれほど楽だったろうか。
祈りの文言を教えてくれたみたいに。あちらの掃除をして、あちらの薪を運んで。伝言を預かって、荷物を持ち上げた時のように。いっそ誰かが、教えてくれれば良かったのに。私の、聖女の娘としての振舞い方を。
「でも、誰も教えてはくれなかった」
怖かった。
皆に、友達に、乳母に、母に、何か一言でも声を掛けられる度、私は必死に考えた。
台詞を、表情を、仕草を、考えた。命乞いでもするみたいに、上目遣いで相手の表情を窺いながら、鏡の前で練習したそれらを取り繕った。
上手く出来た時は良い。失敗した時は、惨かった。
目頭が熱くなって、なのに全身が寒くて、鼻の奥が痛くなって、胸がざわつく。そうなってから、なんとか失敗を取り返そうとして振舞った行動や言動は、どれ一つ上手くいった試しが無かった。
こんな日が、あとどれくらい続くのだろう?
いつか来る、けれど終わりの見えない日々が、私には永遠の責め苦に思えた。
「教皇様が、葬送を即日と定めた時には、本当に嬉しかった」
嬉しくて、ほっとした。その時ばかりは、皆の私に対する視線も気にならなかった。
『きっと彼女自身もそれを望むだろう』
私もそう思った。
だって、母は最期に言っていた。
『これで、終わりだから』
きっと、母も苦しかったに違いない。辛かったのだ。怖かったのだ。早く、終わってほしかったのだ。私と同じように。
聖都奥部。公会堂の参列席は、幾百の人影を以てしても決して埋まらないその席は、けれどその日、黒い影に埋め尽くされた。その様を一望した誰かが、教皇様と母に向けて賛辞を呟いた。
それも私は気にならなかった。どうでも良かったのだ。これで、終わるのだから。
遺族の参列席に座して、乳母が私の手を握った。
母の晩年、祝祭の日を間近にすると故郷に帰り、その間、私と母を二人きりにしたその手は、白々しいほど温かかった。
「お前は」
魔女が言う。
「皆を。母を恨んでいるんだな。今もずっと」
「……」
幾人かの人が、母親の葬送に際し涙を見せない私を、不憫だとか、強い子だとか言って励ましの言葉を寄越した。
私は沈黙を貫いた。寄せては返っていく黒波には全て一礼で応えた。
またか。まだ言い足りないのか。もういいでしょう。放っておいて。
何か一言でも口を開こうものなら、止まらない怨嗟が私自身をも蝕んで、母の元に送られてしまう気がした。どうせ、私の事なんて明日には……いいえ、帰路に着く頃にはすっかり忘れてしまっているくせに!!
「恨んでる」
魔女の言葉を、復唱する。
それは、今まで誰にも言えなかったのが不思議なくらい、あっさりと口端から零れ出た。
「私が居て欲しいと思った時、あの人は決まって居なかった」
何処に居るのかすら分からない事もあった。
黄昏時、皆は家族で手を繋ぎながら家路を辿る。私は独りだった。
私だけが、今日という日に置いて行かれるような心地がした。羨ましくて、心細くて、胸に渦巻く淀んだ靄が膨らんでいって、けれど私は独りだった。
「なのに突然、ずっと家に居るって」
最初は、ほんの少しだけ期待した。
もしかしたら、これで私も……ほんの少しの間だけでも、皆と同じになれるんじゃないか、と。
だけど。
「そうはならなかった、か」
魔女の言う通り、そうはならなかった。
むしろ、来客達の相手で忙しそうにしている母を見る度、内なる靄はその澱の深さと大きさを増していった。
いつからかその靄は、私だけに聴こえる声で語りかけてくるようになった。
憎いんだろう? 恨んでいるんだろう? 妬ましいのだろう、嫌気が差しているのだろう? 怖いのだろう。全て投げ出して、逃げてしまいたいのだろう?
声はいつも、私の気持ちを寸分違わず言い当てた。そして、必ず最後にこう付け加えた。
「「でも、愛しているのだろう?」」
記憶の内に眠っていた声と、魔女の声とが重なる。何故か、喉から上ってきた笑みが、私に叫ばせた。
「そうよ!」
愛していた。
どんなに寂しくて、辛くて、悲しくて、恨んでいても。私は母を愛していた。
「お母さんの手が好きだった」
私の頬を優しく撫でてくれる、温かい手が好きだった。
「お母さんの声が好きだった」
力強くて、凛としていて、それでいて全てを包み込むような、深く甘やかな声が好きだった。
「お母さんの笑顔が好きだった」
いつ、だったか。
母と一緒に、教会の皆に悪戯を仕掛けて、後で二人並んでこっぴどく叱られた事がある。
隣を見上げ、目が合った時の母が見せた小さな笑顔は、きっとこの世の何よりも美しかった。
「私は、お母さんが、大好きだった」
分かっていた。
母の旅の目的は、聖女としての使命が半分。もう半分が私の為であった事。
母の亡き後、次代に聖女となる私が、自分のように命を削って人々に癒しを与えなければならないような、そんな必要がないように。
私はそんな母に、死んで欲しいと思っていた。願っていた。母の遺体が一刻も早く灰となって消え去り、寂しい、けれど安穏とした日常に戻る日を、今か今かと待ち望んでいた。
毎日の祈りは呪いに変わり、そして成就の日、私は安堵した。してしまった。
「あんなに」
あんなに愛していたのに。
あんなに愛してくれたのに。
なのに私は、あの時には既に、大好きだった母の手を、声を、笑顔を、思い出せなくなってしまっていた。
私は最低だ。最低で最悪の親不孝者だ。
「私は、泣いてはいけないの」
「何故」
魔女が問う。
らしくない、答えの分かり切った問だと思った。
嘆きは、涙を流す事は、悲しみを抱いた者にのみ許される行いだ。
私は違う。私が抱いたのは悲しみじゃない。それとは正反対の代物だ。
「私には、泣く資格なんてない!!」
きっとあの場において、否、今この時を以て尚、母の死を嘆き悲しみ、涙を流す資格があるのは私以外の皆だ。
私は泣いてはいけない。最愛の母の死を嘆く事の出来なかった私が、他のどんな事で涙を流せるというのか? そんな冗談、赦される道理が無い。
私は泣いてはいけない。絶対に。たとえどんな事があったとしても。
そんな資格、私には無いのだから。
これは私の罪だ。罪であり、私に課せられた罰なのだ。
「どうして」
この罪は私だけのもの。この罰だけが私の、たった一つ残された、母との繋がりだったのに。
「どうして、私の罪を暴いたの?」
いつか、母が語り聴かせてくれた伝承を思い出す。
魔女。彼岸と此岸の狭間より現れ、魂に刻み込む呪いの言葉で人々の罪を暴き、死と絶望を齎す最古の厄災。
「魔女なんて嫌い……だいっきらい!!」
「……それで?」
喚き散らした私に、魔女が問う。
この期に及んで他に何があるというのか。私は再び俯いて黙り込んだ。
「……やはり」
魔女は呆れを含んだ重々しい口調で詰め寄る。
「やはり、聖女は愚か者だ」
返す言葉も無い。
私は黙ったまま、灰の残る花弁を見つめる。
ふと、魔女の脚が近くなる。あの頃に感じていた絶望に似たものが沸き立ち、ぎゅっと目を瞑る。
そんな私の頬を、魔女は——
——優しく、両手で包み込んだ。
「ぇ」
驚き開いた私の目に、魔女の瞳が映った。
「聖女の、母親の死に逝く様などというものを、単なる娘一人がどうして受け止め切れる?」
その瞳は黒く、深淵で、けれど、どこか優しげで。
「お前の思いは至極当然だ。誰にも咎められない、ごくありふれた感情だ。それを罪だとするなら、いったいこの世の何処に咎無き者がいるというんだ」
迷い子を諭すような、誰かに似ているような。
「だが、いい。おまえがそれを罪だと、自らに罰として課するのであれば」
「……」
「それがお前の選択であるならば、それでいい」
刹那、魔女は瞬目をして、言の葉に呪いを込めた。
「お前は誤っている、フィーネ。魔女が聖女に、真理を教えてやろう」
真理、と魔女は言った。
「資格が無いと言ったな。母親の死に際し、泣き叫ぶ資格が、お前には無い、と。そんなもの」
その言葉を、私は生涯忘れない——
——そんなものは、な。
「お前が母の娘であるというだけで、充分なんだよ」




