15.残穢
——星がきれいだった。
少女はこの時、初めて知った。夜空の黒と、星の白。たった二色でありながら、こんなにも鮮やかなものが、毎夜、頭上に広がっているのだという事を。
生彩を取り戻した野花の上に座り込んだフィーネは、何も言わず空を眺めていた。その大きさが、がらんとした胸の内に押し寄せ、隙間から零れて、呑み込もうとしているみたいだった。何も考えられず、ただ感じたものを受け入れるだけ。
ふと、視界の端。佇む影。襤褸の外套がゆらゆらと、うら寂しげに揺れている。
僅かに肩を上下させた影は、頬にこびりついた一伝いの灰を外套の袖で拭う。帽子の唾を摘まみ、天を仰いだ。
「ベニーは」
心中を溢す。
「かえったのね」
「いいや」
否定し、影は振り返る。眼差しは常と変わらぬ冷淡に染まり、暗い顔付きで少女に相対する。
「言っただろう。費えた、と。ヤツの魂はもうどこにも存在しない」
灰物になるというのは、そういう事だ。と吐き捨てるように言い放つ。
フィーネの内に言い知れない渇きが湧いた。
「冷たいのね、貴女は」
そこまで言って、フィーネは自身の浅ましさに気付き閉口する。
自分は今、魔女を冷たいと言った。淡々とした態度が残酷に思えたからだ。それは隠し立てようもない本音だ。
けれど、それは誰に対して残酷なのか。少年にとって? 否。フィーネにとって、残酷なのだ。
少年をこんな所にまで連れてきて、失望させ、挙句死なせるだけで済まさなかったのは自身の振る舞いが元凶だ。何もせず、何も出来ず。駄々をこねるだけで、始まりも終わりも他者に委ねた。これ以上、自分が傷付かない為に。
そうして綺麗な言葉で締め括り、目を背けようとした。見抜いたが故かは分からないが、魔女はソレを赦さない——目を開けろ——先の咆哮から魔女の意図は一貫して変わらない。その意図はフィーネにも理解出来る。
現実を受け入れた先にしか、未来は無い。目を背けた先にあるのは緩慢な死だ。それしかない……けれど。
「もう、どうしたって、私には」
「お前も直にああなる」
遮る言葉に、心臓を握られる。灰色の髪が風にそよぎ、黒の双眸を覆い隠す。
「人知れぬ地で、ひっそりと息絶えれば、灰物にはならないとでも思ったのか? なったとしても、昏い水底に沈んでしまえば、誰にも見つからずに済むと?」
魔女は全てをお見通しだった。当然である。だから、彼女は此処にいるのだ。
「あの災いは、その程度で封じられるものではない。お前なら、聖女であれば尚更だ」
動悸がする。
「そういえば昨晩、言っていたっけな。母は沢山の人に看取られ、幸せだったはずだと。なぁ、お前まさか、本当に勘違いをしているんじゃないんだろう?」
フィーネは俯き、両手で胸を押さえた。それは彼女の癖だ。自分を守るための仕草。無自覚な防衛。隠し事をする時の。
「教皇が葬儀を急いだ事も、多くの者が駆け付けた事も、魔女が葬送を担った事も、お前の母を悼んでいたわけじゃない」
皆、恐れていたのだ。先代の聖女、アンナの遺骸が灰物となる事を。
始祖に近き者は始祖の如き大いなる力を有し、その亡骸は、それだけで灰物となる可能性を孕む。そしてこの世でもっとも始祖に近い者とされるのが、聖女と呼ばれる存在である。
「だから、間近で確かめたかったのさ。この大地に、考えられる限り最大の厄災が生まれ、灰に覆われる時が訪れるのかどうかを。人が、聖灰教会がそれを食い止められるのかどうかを」
誰も、聖女の死を悔やんでなどいなかった。
むしろその亡骸が、魔女の呪言が齎した螺旋の光によって灰と化した時、喜びを湛えていた筈だ。
教皇も、幾多の司祭達も、騎士の隊列も、参列者達も。
「お前も」
「っ!」
「そうだった筈じゃあないか」
鼓動が聞こえる。ドクン、ドクンと脈打つ心音は次第に早まり、今にもフィーネの胸を喰い破らんとするかの如く、内から痛みを叩きつける。雨のような鼓動に合わせ、魔女の靴音が大きくなっていく。
「何故、泣けなかったんだ?」
視界に、立ち止まった魔女の足が映る。問は、昨晩と同じものだった。
「今は、やめて」
自覚よりも早く、気が付けば拒絶を零していた。
「どうして、今なの。それに、昨日答えたじゃない」
少年が、ベニーが死んだ。彼だけじゃない。多くの命が散るのを見たばかりだ。中には自分を守る為に、身を挺してくれたものもある。今はもう、何も考えたくない。
「……」
魔女は無言によって拒絶を無視する。フィーネは悟った。これは告解なのだと。魔女の気が済むまで、答えなければ永遠に終わらない。
「みんなが、わたしをはげましてくれたから」
熱に魘され、繰り言を吐き出す。
「みんながいてくれた。優しく私を励まして、それが、うれしくて」
空っぽな響きが、自分の声と似ている事がフィーネには不思議だった。
「沢山のひとが、そばにいて、私の心に寄り添ってくれた。だから、泣かずにいられた」
「違う」
ようやく紡いだ継ぎ接ぎの台詞が、たった一言で引き裂かれてしまう。
「それは嘘だ」
「うそじゃない。わたしはほんとうに」
「いいや、嘘だ。何故そうやって馬鹿のふりをする? おまえはそうじゃないだろう」
魔女の言っている意味が、分からない。根拠が、経緯が、結論が分からない。
たなびく外套。顎をやや上方に傾ける。そうだとすれば、と僅かな思案の間を取って。
「お前は母を恐れていた。母の亡骸が灰物となって、お前を呑み込む事を知っていた」
「……」
違う。
「ずっと怖かったんだろう。いつその日が来るのか、いつかやってくるその日に、お前は怯えていた」
「違うわ」
少女の強い否定を受け流し、魔女は愉しげに謳う。
「違わない。お前は有象無象と一緒に、手と手を取り合ってただ己の命が永らえた事を悦んでいたんだ」
——励ましてくれたのが嬉しかった。心に寄り添ってくれた。いいや。お前達は互いに共犯意識を持って、浅ましい自己愛に満ちた本心を覆い隠そうとしただけなんだ。聖女は死んだ。けれどもそれは仕方のない事。生あるものは死するが定め。だから前を向いて生きよう。最期の時もかの偉大なる聖女様を笑顔で送り出し、始祖の御許に還すのだ。きっと彼女もそれを望んでいる筈だから。
「違う!」
——だから私達は悪くないのだと。言い訳して、目を背けた。
「違う、違う!!」
「そんなお前達に看取られて、聖女アンナは本当に幸せな最期だったろう」
「お母さんを……っ」
顔を上げる。いつの間にか、魔女の黒い眼差しは眼前にまで迫っていた。
「お母さんを侮辱しないで!!」
「侮辱しているのはお前だろう、聖女フィーネ」
突き付けられた声音はこれまでのどんな時よりも愉快げで、激しく、膨らんでいる。
「あの日、お前が泣かなかった事でお前の母に与えられたものはなんだ?」
母の死に際しても涙を見せない、強い心を持った次代の聖女を教え育んだ偉大なる母親の誉か? 違う。聖女としての務めに明け暮れ、己の死を娘に泣いても貰えない哀れな女。そんな蔑みの視線だ。
「その哀れな女にも劣る役立たずの聖女。それがお前だ。お前が、お前の存在そのものが母親の名を地の底に貶めているんだよ」
分かっているんだろう。だってお前は、たった一人の少年すら救えなかったじゃないか。
聖女アンナは偉大な聖女であり、最低の母親だった。
「だがお前はどうだ? 聖女としてすら何も成し得ず、地の果てで己の命が潰える事に怯えながら未だ泣き叫ぶ事すら出来ない愚かな小娘だ」
——母への恐怖、妬み。それがお前の隠し続けた本心だ。それがお前の罪だ。
「ちがう」
しゃがれた声で否定する。私はお母さんを怖いだなんて思ってない。妬んでなんかいない。お母さんは最低の母親なんかじゃない。お母さんは最後の最後まで私を案じてくれていた。謝ってさえくれた。遺してしまってごめんなさい、と。ずっと、私を愛してくれていた。
「ならどうして泣けなかった?」
その問に、やはりフィーネは押し黙る。構わず、魔女は捲し立てる。私はずっと同じことを問うているのだと。
「お前は泣かなかったんじゃない。“泣けなかった”んだ」
その理由は何だ? 本心は何処にある? お前の罪は何だ?
「どうしても言いたくないというのなら、いいさ。だが、見ただろう。そうなればお前の末路は坊やと同じ。いいや、私にすら手の付けられない災禍となって、母の名誉を更に穢すものとなるだろう……あぁ」
言って、ニタリと嗤う。悪戯を思いついた童のように、獲物を見つけた雌狼のように、舌を回す。
「そうはならないか。だってそうなったら、この大陸に住まう全ての者はお前の手によって皆滅んでしまうのだからなぁ」
成程、としきりに頷く。道化の仕草を装いながら、それがお前の罪かと少女を責め立てる。
「自分が傷付かない為に、全てを巻き添えにして、何も無かった事にしたいんだ」
そうしたらもう、目を背ける必要も無い。何もかも亡くなってしまうのだから。
「己の魂が失われ、その罪が暴かれる事無く葬り去られるのと同時、全ての存在を肉体の枷より解き放って始祖の元へと送ろうというわけだ」
今にも小さな拍手を送らんばかり「素晴らしい」と賛辞を囁く。
「素晴らしいじゃないか、流石は聖女様だ。お前の偉業は誰にも語られる事無く、世界は灰に覆われる」
違う。そんなのは、嫌だ。
「それこそが救済。それこそが最大最高の奇跡。そういう訳だろう? 実に素晴らしい。お前こそが真の聖女だ」
「ちがう」
ちがうちがうちがうちがう。
私はそんな事、望んでない。そんなの、いやだ。わたしは、ただ。
「ただ、いいたくないだけなのに」
それだけなのだ。本当に、誰にも言いたくないだけ。
「何故?」
「なぜ、だって」
だって、だって。こんな事を聞かせてしまったら。
「いいから吐き出してしまえよ。私はずぅっと、それを訊いているんだから」
いやだ、言いたくない。
「何故?」
「だって、だって」
「また馬鹿のふりか? 無駄だ。お前の本性なんて、魔女はとっくに見抜いている」
「だったら、いいじゃない」
それは細やかな抵抗であり、降伏の言葉だった。
もう、いいじゃないか。見抜いているというのなら、分かっているというのなら。答える必要なんて無いじゃないか。もう、ゆるしてほしい……。そんな祈りだ、けれど。
「駄目だ」
魔女がその乞いに応じるわけがない。
「お前が、お前自身の口で、自ら告白しなければならない。そうでなければ意味がない」
「なぜ」
「訊いているのはこちらだ、フィーネ!!」
魔女が叫ぶ。
思えば、最初からそうだった。魔女はいつだって理不尽で、横暴で、こちらが求めても応じてくれない癖に、押し付けてばかりくる。
ずっとだ。ずっとそうやって、私を搔き乱して、何度も何度も、“生きている私を救おうとする”。
「答えろ」
そんなの、ずるい。
「お前は」
そんなの、そんなの。
「何故、泣けないんだ!!」
「言えるわけがないじゃないッ!!」
悲鳴。幾重にも折り重ねられ、形成された繭が綻んでいく。
「だって、だってわたし」
覆われ、隠されてきた、醜く蠢く澱んだ塊がつまびらかにされていく。他ならぬ、少女自身によって。
その声は、暗迷とした海の底から這い上って来るかのような、必死の苦悶を泡立たせていた。
「いえるわけ、ないわ。だって、わたし」
ほんとうはお母さんに——
——早く死んでほしかった、なんて。




